似た言葉の意味の違い―孤独と孤高について

やわらかい哲学

似た言葉(アンディーブとエンダイブの違い)

似たような意味の言葉というものは、世に溢れている。例えば、「概念」、「観念」、「思念」、「想念」など。響きも意味もよく似ていて、紛らわしく、即座に、うまく説明できないものあれば、言葉によっては、意味を完全に分類することが難しいものもある。

逆に、響きが全く違うにも関わらず、同じ意味で用いられている言葉もある。例えば、チコリーという野菜を考えてみよう。この野菜、フランス語と英語では名前が違う。フランス語ではアンディーブ(endive)というが、英語ではチコリー(chicory)という。面白いのは、また別の野菜の話。フランス語でシコレ(chicorée)という野菜があるのだが、これ実は、英語ではエンダイブ(endive)という。どう考えてもおかしい。

ヨーロッパ語圏では、言葉が似ているものが少なくない。同じアルファベットを使うせいか、読み方は違っても、綴りが全く同じ言葉は幾らでもある。上記の野菜についても、同じ事が言える。フランス語でのアンディーブ(endive)と、英語でのエンダイブ(endive)は、スペルが全く同じである。また、英語でのチコリー(chicory)と、フランス語でのシコレ(chicorée)も、とてもよく似ている。

しかし、面白いことに、これらの言葉は、同じ野菜を指し示すわけではない。というより、お互いあべこべのものを指しているのである。こんな紛らわしいことが、普通に成り立っているのである。

とは言え、これらの言葉は、別物と考えなくてはいけない。なぜなら、これらの言葉が用いられている文化的文脈が異なるからである。フランス語ではフランス語の、英語では英語の、言葉の体系というものがある。その体系に基づく区別によるのだから、それぞれの言葉の意味は区別して受け入れられなければならない。譬え、この紛らわしさが、フランス語と英語の意地の張り合いであったとしても(事実がそうであるかはわからないが)。

このように、言葉には、その違いを説明するのが困難な、紛らわしいものもあるが、見た目は似ているけど、意味内容が全く異なるものもある。要するに、言葉の意味というものは、歴史的なものであれ、文化的なものであれ、文脈に従って捉えられるべきものということだ

 


漢字の表す意味

言葉が文脈によって規定されるのは、もちろんの事ながら、その言葉が持つ一般的な意味があるということもまた、無視してはならない。漢字は、そうした一般的な意味を、その形において表す文字である。

例えば、漢字の部首たる魚偏を見てみよう。魚と言えば、ご存知の通り、海や川に棲む、あの生き物である。この部首を持つ漢字は、魚に関する言葉であることが、非常に多い。「鮪(マグロ)」、「鰯(イワシ)」、「鯛(タイ)」、「鮃(ヒラメ)」など、魚の名前を漢字で表すと、大抵、魚偏を持つ漢字が用いられる。他にも、「鰓(エラ)」、「鱗(ウロコ)」、「鰭(ヒレ)」など、魚に関する器官にも、魚偏の漢字が用いられる事が多い。ということは、逆に、魚偏を持つ知らない漢字を見ても、漢字に馴れている人間からすると、それは魚の名前か、魚に由来がある言葉ではないかと、推測できるわけだ。

このように、その文字自体が何らかの意味表すものを、表意文字という。例えば、「親」という漢字は子どもの帰りをの上にってると書くんだ!なんて金八な先生が熱弁をふるうのもよくわかります。本当に、そのまんまだもんね。

(※注. 表意文字に対して、アルファベットのように音を表す文字を、表音文字といいます)

 


孤独と孤高の違いについて

こうして見ると、似たような言葉の意味の捉え方は、文脈に従って捉える方法と、漢字が表しているそもそもの一般的な意味を捉える方法があることがわかる。当然、熟語も例外ではない。

例えば、「孤独」と「孤高」について考えてみよう。ここでは、文脈において規定される意味よりも、一般的な意味で捉えることにしたい。漢字が表意文字であることから、両者の違いは、「独」と「高」に表れていると言えるだろう。

ここで、注意しなければならないのは、言葉が必然的に含む反意である。「大きい」という概念があるならば、「小さい」という概念がある「右」があれば、「左」がある。言葉が差異化によって世界を捉える手段である以上、当の言葉はその反対の意味をも必然的に含むのである。以前、「信じるという言葉には、実は、疑いが含まれているというちょっぴり悲しい事実について」の記事で書いた事は、まさにこうした言葉のあり方について説明したものである。

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それでは両者を見てみよう。孤独の「独」の字は、「ひとり」を意味する(「孤」も同義)。つまり、上述したような捉え方をすると、孤独は「おおぜい」を必然的に含まなければならないただひとりでいても孤独であるとは限らない。ここが、孤独という言葉を理解するポイントである。

例えば、大自然の中に身を投じたとしよう。山に登ってもいいし、ウユニ塩湖で満天の星空に囲まれてもいい。そこに孤独はあるだろうか?もちろん、人によって、寂しさを覚えるかもしれない。無人島に流されれば、『キャスト・アウェイ』の主人公のように、バレーボールを友にするかもしれない。だが、そこには真の孤独はないように思われる。少なくとも、私は自然の中に1人でいても、孤独を感じることはない。むしろ、落ち着いた豊かな時間を満喫できる自信がある。単に、1人が好きだからかもしれないが。

では、どういう時に、人は真の孤独を感じるのか。それは、周りに人がいるにも関わらず、その人たちと関わり合えない時である。例えば、学校行事で、数人のグループを作るよう指示されたとする。仲の良い者同士、周りではどんどんグループが出来ていく。しかし、自分だけは取り残されて、どこのグループにも入れてもらえない。周りに人がいるにも関わらず、自分だけはひとりぼっちとなる。そんな時、人は孤独感を覚えるのではないだろうか。

ただ、1人でいるから孤独というわけではない。「独」とは、「大勢」と差異化された言葉である。大勢がいる状況がなければ、孤独という言葉もありえない。独りの裏側には大勢がいる。 大勢いるにも関わらず、誰からも受け入れられず、取り残されてひとりぼっちになる状況を、人は孤独と呼ぶのである。

では、孤高の場合はどうか。やはり、ポイントは「高」の字である。これまでも見てきたように、言葉は反対の意味を含む。「高い」という概念があるならば、当然、「低い」という概念がある。これらは、それぞれ、単独では成立しえない。「高い」があるから「低い」がある、あるいは、「低い」があるから「高い」があるのだ。

では、何に比べて高いのか?その比較対象は、他者である。他の人と比べて高みに達している。そして、その高みには、自分以外の人間がいないくらいに。そうした状況にある人間を、人は孤高と呼ぶのである。こうして考えてみると、孤独と孤高には大きな違いがあることが、よくわかるだろう。

 


まとめ

世の中には、様々な似た言葉がある。その意味を決定する要因も様々であろうが、基本的には、その言葉が用いられてきた文化的文脈や、その言葉が用いられている文章自体の文脈によって決定されることが主である。

漢字の場合は、表意文字であるがゆえに、その言葉だけで意味を捉えることも可能である。その場合、忘れてはならないのが、言葉は、特に表意文字によって構成される言葉は、それが表す意味とは反対の意味を必然的に含むということである。

ひょっとしたら、物事とはこのように成り立っているのかもしれない。私たちが見ている物事は、それが持つ相の一面に過ぎず、実は私たちが捉えきれないだけで、より複雑で、より奥深い様相を呈しているのかも。チコリーを齧るたびにそう思わされるのである。

by    tetsu