砂山のパラドックス(ソリテスパラドックス)・解決への誘い―現実を割り切ることのできない言葉の曖昧さについて

ソリテスパラドックス

ソリテスパラドックス

目の前砂山があるとする。砂山から砂を1粒取っても、砂山である。さらに、そこから1粒取っても、依然として、砂山は残る。このように、際限なく、粒を取っても、砂山はなくならない。

上述したのは「砂山のパラドックス」として知られる有名な問題ですね。元は古代ギリシアの哲学者であるエウブリデスの考案したパラドックスだとされています。彼は様々なパラドックスを考案したそうですが、その一つに「禿頭のパラドックス」というものがあります。概要は次の通り。

前提1.髪の毛がフサフサの人は禿ではない。

前提2.髪の毛がフサフサの禿ではない人から髪の毛を1本抜いても、依然として、その人は禿ではない。

これらの前提を元に、禿ではない人から際限なく髪の毛を抜いても禿にはならない。よって、全ての人は禿ではない。

(逆もまた然り)

一見、正しそうな論理操作を施して、明らかにおかしな結論が導き出されました。パラドックスたる所以です。

他にも似たようなパラドックスはあります。「ロバのパラドックス」なんかがそうです。「頑健なロバの背に荷物を積んでいく。藁1本乗せてもロバの背が折れることはない」という前提から「ロバの背にはいくらでも藁を積むことができる」という結論になる、上述したものと形式上、全く同様のパラドックスです。

こういった形式のパラドックスをソリテスパラドックス (sorites paradox) と言います。soritesとは、ギリシア語のσωρός(sōros 堆積物)が語源だとされています。

 

解決方法

誤った結論

結論がおかしいので、この推論過程にはどこかおかしなところがあります。まずは、砂山を例に、結論のおかしさを示しましょう。

物事は有限である。砂山も例外ではない。従って、際限なく繰り返し取っていくと砂はいずれなくなる。よって、砂山が依然として、砂山であり続けることなどありえない。

というわけで、砂山のパラドックスで導き出された結論がおかしいということは示されました。それでは、具体的にどこがおかしかったのかをみていくことにします。

三値論理的解決

この種のパラドックスが二値論理による解釈に起因すると考える方法があります。

二値論理とは、「嘘つきのパラドックス」の記事でも触れましたが、 物事を真偽で解釈する方法です。今回の例で言うと、山か山でないか、あるいは、禿か禿でないか、で捉える解釈法ですね。そこに問題がある、というわけです。

これに対する解決策としては、三値目を与えるというやり方が考えられます。「真か偽か」ではなく、「真でも偽でもない」捉え方があるのではないかと。つまり、「山のようにある砂」と「山のようにあるとは言えない砂」、そして「山のようにあるともないとも言えない砂」として捉えるわけです。

すると、1粒でも残されていれば、それは砂山である、なんておかしな結論は出なくなります。

勿論、これにも実は問題があります。というのも、これは「山」と「山でない」の境界を細分化しただけであって、依然として、「山」と「山とも山でないとも言えない」の境界が、あるいは、「山とも山でないとも言えない」と「山でない」の境界どこにあるのかが曖昧なものとして残されるからです。

ファジー論理的解決

三値論理でも問題がある。というわけで、考え出されたのは、ファジー論理です。

ファジー論理とは、 さらに境界を細分化することで物事を捉えるやり方です。ファジーとは元々英語の“fuzzy(「曖昧な」、「ぼやけた」を意味する)”からきています。例えば、「山である」/「ほぼ山である」/「山と言えなくもない」/「ぎりぎり山である」/「山ではない」というように細分化されます。このように、連続的な変化として、物事を捉えると、「1粒でも砂山」なんておかしな結論は出なくなります。

そうすると、確かに、前提とされる「砂山から1つ取っても、砂は依然として山であり続ける」という部分は、少なくとも否定されますので、パラドックスは解決されるように思われます。それでも、やはり問題は残されます。「山である」や「山でない」といった各状態の境界はどこにあるのかという問題が。

言語規定による解決

三値論理や、ファジー論理のような多値論理的解釈に解決方法を求めるやり方には境界の曖昧さという問題が残されます。そこで、言語規定による問題解決が考えられるのです。

つまり、「砂山」とは何粒以上の、あるいは、どれくらいの体積の複数の砂があれば認められるのかを厳密に規定するのです。そうすれば、「何粒取っても、砂の山は依然として山であり続ける」なんて結論は出なくなります。

数学的問題において、このようなパラドックスがみられないのはここに原因があります。数学では言語規定がきちんとなされ、全ての言語には定義が与えられます。従って、曖昧なまま言語を用いないので、答えは明確に出される。日常言語と数学的言語の大きな違いはここにあるのです。

この場合、「山である」という述語に、明確な言語規定がなされていません。このような形式を「曖昧な述語論理」などと言ったりしますが、バートランド・ラッセルなどの著名な哲学者は、曖昧な述語論理を厳密な意味での論理に当てはめることはできない、としています。曖昧な概念を論理に当てはめるから、この種のパラドックスが起こると言うのです。

この種の哲学的問題は、より詳しく解説のされている本があるので、興味のある方は参考にして下さい。ティモシー・ウィリアムソンの『Vagueness』という著作です。英語で書かれていますので、ご注意を。

 


言語の曖昧さ

言語表現の相対性

ソリテスパラドックスにおいて問題となった言語の曖昧さは、言語表現の、あるいは、それに付随する概念の相対性に依るものです。それは2つに大別することができます。

1つ目が、主体の相対性です。主体とは、 他者に対して言語表現を行う者、あるいは、思考したりすることで言語を扱う者を意味します。簡単に言えば、「人によって違う」ということです。

例えば、お腹がいっぱいになるという意味での「たくさんの料理」という表現があるとします。それは、同じ表現であったとしても、大人と小さな子供では、その表現が指し示す内容は大きく異なったものとなるでしょう。もしくは、大食漢と少食の女性とでも、大きく異なるでしょう。

このように、主体によって、言語の指示内容が相対的である以上、現実的に言語規定を一律で行うのはとても困難になります。

2つ目が、状況の相対性です。ここで言う状況とは、ある主体が言語を扱う時に置かれる状況のことです。簡単に言えば、「時と場合によって違う」ということです。

例えば、「熱い」という同じ表現であったとしても、お風呂に入る際の湯の温度に用いる場合と、コーヒーなどを淹れる際の湯の温度に用いる場合とでは、大きく異なるでしょう。同じ50℃でも、前者の場合は熱くなりますし、後者の場合だとぬるくなります。譬え、同じ主体が用いる言語表現であったとしても、時と場合が違えば、言語の指示内容は大きく異なるのです。そうなると、やはり、言語規定を一律で行うのは難しいと言えるでしょう。

となれば、ソリテスパラドックスを言語規定において解決しようとするのは容易ではないと思われます。幾つ以上あれば山となるのか、という合意に達するのが困難である以上、言語規定自体が難しくなるからです。

 

言語の不完全性

言語の働き

言語の働きのうち、最も重要なものの一つが、分節化能力だと考えられます。言語は世界を分節化するのです。

例えば、「犬」という言葉を考えてみましょう。それは犬と呼ばれる何かを指し示すのと同時に、犬と犬でないものとを区別するのです。そうして、私たちは「犬」を認識します。

色などの形のないものもそうです。「青」という言葉は「青」を他の多くの色彩の中から分けます。「紫」でもなく、「緑」でもない、「青」を分節化するのです。

そうして、私たちは世界を認識します。理解する、つまり、「かる」とは、「別する」ことであり、それは言語の分節化によるところが大きいのです。

分節化の限界

分節化とは、実に繊細なお話です。というのも、その分節化の仕方が、あるいは、分節化されたものの受け取り方が一様にはいかないからです。

例えば、「青」という言葉で色を分節化したとします。ところが、場合によっては、その色が同じ色を指すわけではないのです。信号の色で言えば、それは普段私たちが「緑」と呼んでいるものです。「青葉」という時もそうです。ですが、「青空」と言う場合には、一般的と思われる「青」です。同じ「青」という言葉で分節化された世界が異なる様相を呈しているのです。

そして、問題はそれだけではありません。分節化する境界の曖昧さという問題もあります。「青」と「紫」の境界はどこにあるのか?あるいは、「緑」との境界は?「青」でも「紫」でもない境界領域の色は、あるいは、「青」でも「緑」でもない境界領域の色は?例えば、それらを「紺」や「蒼」と言ったところで、これらの色と「青」との境界はどこにあるのか、といった同様の問題が生じます。すると、ここでも「青」でも「紺」でもない色や、「青」でも「蒼」でもない色が認められるようになるでしょう。そして、これは無際限に続きます。境界領域に焦点を当て続ける限り、分節化に終わりはなくなるのです。分節化し尽くすことはできない。これが分節化の機能としての限界です。

不完全さ?

世界を余すところなく、画一的に、絶対的な意味をもって表現できない…このような意味において、言語は不完全と言わざるをえません。当然と言えば、当然でしょう。世界自体は分節化されていないのですから。

あらゆる事柄が繋がり合った全体が世界なのです。世界は一挙に与えられているのです。そんな世界を分節化するのだから、齟齬が生じても無理はありません。

(これは以前『言葉狩り』の記事でお話した「有機的連関」のお話に通じるものがあります。)

言葉狩りと言葉の豊かさについて―事例を交えて説明しよう

そんな無理のない話ですから、それを言語の不完全性のせいにするのはお門違いかもしれませんね。「ナイフなのに肉も切れんし魚もおろせんじゃないかっ!」って果物ナイフに怒っても仕方ありませんよね?譬え、切る機能としての不完全さがあったとしても、果物を切る機能としての、言わば「果物ナイフとしての完全さ」があるでしょうし。

 


パラドックスと言語

これまで様々なパラドックスの問題を扱ってきましたが、その多くは用語法に問題がありました。つまり、言語の性質を理解せずに、誤ったやり方で表現することでパラドックスが生じていたのです。

ソリテスパラドックスにおいては、言語の分節化能力の限界というある種の不完全性が原因の一端であるということも否定はできません。ですが、やはり、それ以上に言語の用い方や捉え方にこそ原因があるのだと思います。

(パラドックス関連に興味のある方は他の記事も読んでみてください。)

嘘つきのパラドックス・解決への誘い―クレタ人は嘘つきか?

アキレスと亀のパラドックス・解決への誘い―そこからみえる哲学的問題

『嘘つきのパラドックス』では、手段としての言語を自己目的化することで、言語の形骸化が起こり、パラドックスに陥りました。『アキレスと亀のパラドックス』においても、有限内に含まれる無際限を永遠と同義的に扱うという過ちを犯すことで、パラドックスに陥ったと考えられます。これらは言語を現実から独立したものとして、あたかも根無し草のように扱うことで生じた問題なのです。

ソリテスパラドックスにおいてもそうです。「山」や「禿」といった言葉を画一的に扱ってしまい、自家撞着に陥ったに過ぎません。ある事象を言葉によってどのように表現するのかということは、本来ならば、人、あるいは、時と場合により判断されるべきなのです。これは当然、言葉が表す事象がどのようなものかを判断する際、その言葉の受け取り方についても言えることです。

ものには使い方があります。刃物も適切に用いなければ、人を傷つけてしまうだけです。言葉も然り。問題の原因はものにあるのではなく、そのものを扱う人間にあるのではないでしょうか。パラドックスにしても、その多くは言葉を適切に用いなかった結果、生じた問題だと考えられます。

人間とは観念的に生きる生き物です。古代から抽象的な対象を崇め、形而上学を発展させ、法を定め、不換紙幣を生み出し、社会を高度に情報化させてきました。そういった観念的なものから様々な恩恵を授かってはいるのですが、あまりに観念的なものに慣れ親しんだせいか、現実を疎かにする傾向があるようにも思われます。

私たちは現実世界に生きています。抽象的な世界に生きているわけではありません。ですから、まずは何をおいても現実に起こっている事を受け止めることが肝要だと思います。

ひょっとしたら、パラドックスは、抽象世界に没頭するあまり、現実を蔑ろにするそんな私たちにその存在を示すことで、ある種の警鐘を鳴らしているのかもしれませんね。

by    tetsu