論理という言葉には、堅そうで、難しそうなイメージがあるかもしれませんね。でも、本当は逆です。複雑で難しい事柄をシンプルにとらえるのが、論理なんです。このように誤解されやすい論理ですが、他にも誤解されているポイントがあります。意味をきちんとおさえましょう。
目次
論理とは何か?
論理とは、考えることと切っても切り離せない関係にあります。以前書いた記事で説明したように、考える筋道が論理と言いましたが、もう少し詳しくみていきましょう。
(※ これについては、「考えるとはどういうことか?」の記事を参照して下さい)
論理という構造
因果関係の構造
より厳密な説明をすると、論理とは構造です。「 原因があって結果が生じる」というように、物事を因果関係でとらえる枠組みのことです。
「雨が降る」という出来事についてみてみましょう。どうして雨が降るのでしょう?それは、雨雲ができるからですね。空気中の水蒸気が上空で冷やされて水滴となり、雨雲ができて、地球の引力に引きつけられて地上に降り注ぐわけです。
「雨が降る」ということを1つの結果としてみたとき、「雨雲ができる」ということが原因として考えられます。こうして、雨が降るという出来事を
という構造でとらえることができるのです。
もちろん、このような一連の出来事は、さかのぼってとらえる事もできます。「雨雲ができる」のは、なぜかといえば、海水が蒸発することで水分を含んだ空気ができるからと考えられます。つまり、雨雲ができることを1つの結果としてみたとき、海水の蒸発が原因として考えられるのです。
すると、先ほどの因果関係も含めると、
というように、一連の出来事を1つの構造でとらえることができるのです。
このような 原因と結果によってつくられる構造を論理というのです。
構造の可能性
構造のあり方は一様であるとは限りません。場合によっては、1つの結果に対して、いくつもの原因があると考えることもできます。
例えば、日本海側に雨が降るというのは
①日本海で空気が水分を含んで湿り気をおびた
②風が西から東に向かって吹いた
③日本海側には山が多く、雨雲が発達した
という、いくつかの原因が考えられます。どれか原因が欠けると、雨は降らないかもしれません。空気が湿り気をおびないと雨雲はできませんし、東向きの風が吹かないと、雨雲のもとは日本海側には届きません。また、日本海側に山地がないと、雨雲が発達しにくく、雨は降りにくいでしょう。
このように、いくつもの原因が重なり合わさって、1つの結果が生じるととらえることができます。逆もしかりですね。1つの原因からいくつもの結果が生じることもあります。
そして、そのとらえ方は様々です。構造的には、いろんな因果関係の可能性があるということですね。したがって、論理を一言で表すとすれば、 因果律の取りうる構造となるでしょう。
(※注. 「律」とは 掟や定めのことを、因果の「因」は 原因を、「果」とは 結果を意味します。即ち、「因果律」とは、 「 原因があり、結果があるという世の掟や定め」をいうのです)
論理という手段
また、論理はある種の手段であるとも言えます。私たちが、世界を認識し、理解する手段であり、人に何かを伝えるための手段です。人は納得したい生き物ですからね。物事のワケを知りたがります。このワケというのが、 物事の成り立ちの原因です。
理解するという観点からも、このように構造に当てはめてとらえるということは重要と言えます。「理解する=わかる」ということは、「わける」ことから始まりますからね。物事の成り立ちを原因と結果に分け、構造的にとらえることで、理解しやすくなるのです。
そういう意味では、論理というものは難しいものではありません。難しい物事を分けて、シンプルにすることで理解できるようにする手段なのですから。もちろん、情報量がとても多くなったり、使い慣れていない言葉や考え方が出てくると難しいと感じることもあるかもしれません。しかし、論理という構造字体は、とてもシンプルなものなのです。
論理の意外な落とし穴
論理を扱う際、気を付けなければならないことがあります。それは、論理と正しさは別物であるということです。ロジハラとは別の話ですが、論理的であることが常に正しいとは限らないのです。
「雨が降る」という出来事に関して、論理的である文を次の中から選んで下さい。
①空気中の水蒸気が上空で冷やされて水滴となり、雨雲ができて、それらの水滴が地球の引力に引きつけられて地上に降り注いだ。
②雷様がシャワーのように細かい水滴を地表に注ぐから、雨が降った。
③空が泣いたから、その涙が雨となって地表に降り注いだ。
おわかりですか?そうです。答えは、全部です。ひょっとすると、驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。なぜなら、②と③は、現代の科学的なものの見方からすれば、荒唐無稽に思われるからです。
でも、思い返して下さい。論理とは何でしたか?構造ですよね?そう、 原因と結果にわけてとらえることのできる構造を論理というのです。だから、②と③がどれほどデタラメであろうと、構造的であるという要件を満たしているので、両方とも論理的であると言えるのです。つまり、論理的であることと内容の正しさには、直接的な関係はないのです。
ここはかなり誤解されやすいポイントだと思われます。論理と聞くと、「正しい」や「難しい」というイメージを喚起しやすいですからね。もちろん、正しいことや難しいことが、論理的に述べられることはしばしばありますが。
論理の正しさは、内容の客観性によります。客観性とは、 誰がみても「確かにそうだなぁ」と思える度合いです。それは、再現性がある事ととらえることもできます。同じ条件下では同じことが起こるということが第三者的視点から確認されるということですね。
そういう意味では、②と③の内容は正しくないと言えます。①に関しては、再現性があり、確認することもできるでしょうが、②と③は、確認できませんからね。恐らく、再現性もないでしょう。
気を付けていただきたいのが、論理が正しさを持つイメージでいると、落とし穴にハマる危険性があるので、内容(特に原因とされる事柄)について、十分注意することです。さすがに、今回の②と③の例のように、荒唐無稽なことを信じることはないでしょうが、それらしいことにうっかり騙されることもありますので。
論理の内容が正しいかどうか判断するためには、表された構造について、因果関係が成り立ってるかどうか?相関関係やただの偶然ではないか?といった点に気を付けて下さい。考える力を身に付けることで、こうした判断力も培われるようになります。
by tetsu
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