価格と価値の関係や違いについて―物の価値を見極めるのは人それぞれということ

ピラミッド

久し振りにテレビをつけたら、ピラミッドの特集をやっていた。ギザの三大ピラミッド、特にクフ王のピラミッドに焦点が当てられていた。学生の頃に、ピラミッドは奴隷に作らせた王墓だと習った記憶があるのだが、どうやらそうではないらしい。

ピラミッド内部にある広間にクフ王のミイラがないこと、内部に壁画が描かれていないこと(その他の墓と考えられている遺跡には様々な壁画が描かれている)、副葬品がないことから、クフ王のピラミッドはクフ王の墓ではないということらしい。ピラミッドに関するエジプト考古学の権威と呼ばれる吉村作治教授のおっしゃることだから、恐らくそうなのだろう。今現在では、クフ王の墓はクフ王のピラミッドとカフラー王のピラミッドとスフィンクスから等距離のエリアにある広場の地下に眠っているのではないか、ということだった。吉村教授の研究チームが発掘権を得て、数年の内に発掘調査をするらしい。

じゃあクフ王のピラミッドとは一体何だったのか?という話になるが、太陽信仰の象徴なのだそうな。なるほど、確かに当時絶大な権力を誇っていたクフ王の墓にしては内装が地味過ぎるし、証拠となるミイラも見つかっていないのだから、墓ではない何かと考える方が得心がいく。勿論、ピラミッドの知られざる内部構造にクフ王の墓室が隠されているという可能性は否定できないかもしれないが…

(※注.  太陽信仰の象徴としての建造物であるというのは、クフ王のピラミッドのことであって、ピラミッド一般ではないことに注意してね。たぶん、個人的見解というか偏見ですが、墓であるピラミッドもあるだろうし、墓でないピラミッドもあるだろう思います)

しかし、何より驚いたのは、ピラミッドの建造には奴隷ではなく、労働者としてきちんと契約した国民が携わっていたということ。しかも、休耕期の農民や、働き場所のない国民のための失業対策として、雇用していたというのだから、驚きを隠せなかった。当時のエジプト経済を支え、今なおピラミッド関連の観光収入により経済を支え続けている。一体何千年エジプト経済を支え続けるつもりなんだ?これを見越して建造したとしたら、クフ王ってのはバケモンだな…

なんてことを考えながら、また塗り替えられる歴史にしみじみと感じ入るのでありました。

 


金銭的価値について

副葬品の価値

まあいろいろと目から鱗ものの内容でしたが、その中で特に驚かされたものの一つが、副葬品の金銭的価値。クフ王の副葬品は見つかっていないのだが、もしあればとんでもない価値になるとのこと。ちなみに若年で即位したツタンカーメンでさえ、すべての副葬品の価値は300兆円を超えるとのこと。確か日本の国家予算の一般会計の歳出額がだいたい100兆円くらいだよね?その3倍!?

絶大な権力を誇っていたクフ王なら、その比ではないらしい。一体何円になるのやら…

だが、このツタンカーメンの副葬品の金銭的価値というのは(ツタンカーメンに限った話ではないが)、どのようにして決められたのだろう?勿論、金から作られていれば、物質的な価値もあるだろう。あるいは、歴史的資料としての価値もあるので、考古学的価値もあると言える。他にも、展覧会などが開かれたりする際のレンタル料、もしくは、入場料などによる収入も見込まれるため、商業的価値もあると言えそうだ。これらをすべて金銭的価値に置き換えたのだろう。しかし、そもそも物の金銭的価値とはそのようにして決められるものだったか?

 

価格の決まり方

需要と供給

金銭的価値の、つまり価格の決まり方は、自由競争という市場原理に基づくと、需要曲線と供給曲線の一致によって決まるものだとされている。

例えば、何てことのないある壺を100万円で売りたいと考える人がいたとしよう。だが、そんな物はそうそう売れはしない。なぜなら、その壺を100万円という金額を払ってでも欲しがる人間が少ないからだ。そこで、全然売れないので、売りたい側は価格を下げることになる。10万円、1万円、1000円…価格が下がるに連れて、欲しがる人も増えることになる。

逆に買いたい側は、1円で壺を買うことは難しい。なぜなら、そんな価格で売りたいと思う人が少ないからだ。そこで買えないので、買いたい側は妥協することになる。1円が無理なら、10円、100円、1000円…価格が上がるに連れて、売りたい人も増えることになる。

そうして、売りたい側と買いたい側の双方の供給価格と需要価格が一致するところで取引は成立することとなる。売りたい側が増えれば、価格は下がっていき、買いたい側が増えれば、価格は上がっていく。双方の折り合える点が売買価格となるわけだ。

売買の前提

だが、上述したような価格の決まり方には暗黙の前提がある。

1つ目は、当然のことながら、売買が前提となっているということ。売り手側に売ろうとする意志があまりなければ、価格が下がることはない。寧ろ、本来ならばより安価に売買が成立するであろうと予測される物に対しても、理不尽なまでの高値が付けられることもあるだろう。当然、逆の場合もありうる。

2つ目が、自由競争という市場原理が成立する程度には、売られようとする品が一定数あること。でなければ、買いたい側が足元を見られることとなり、そのものの価値に対する価格というよりも、この時の買いたい側がどれだけお金を出せるかということが基準となってしまう

物の価値の捉え方

以上のように考えた場合、ツタンカーメンの副葬品は価格が付けられなくなる。まず、所有者(この場合はエジプトという国家になるんでしょうけど)に売る気は恐らくないだろう。よって、1つ目の前提が崩れる。そして、自由競争が成り立つ程度に一定数の品数はないだろう(お土産用の複製品でない限りは)。よって、2つ目の前提も崩れる。従って、ツタンカーメンの副葬品の適正な金銭的価値は算出できないことになる。

それならばということで、前述したような考古学的価値や商業的価値を金銭的価値に置き換えても致し方ないのかもしれない。しかし、そうだとすると、ツタンカーメンの価値を金銭的価値に置き換える意味などあるのだろうか?

 


物の価値について

価値の相対性

ある物がどれほど重要か、ということをその物の価値とするなら、価値というのは2つの点で相対的だと言える。

1つ目が、人によって違うということ。子供にとって玩具は価値ある物と言えそうだが、大人にとっては一部のマニアックな人間を除いて、それほど価値ある物とは言えない。辛党の人にとってお酒は価値ある物であろうが、僕にとってそれほど価値はない。寧ろ、辛党の人からすると大して価値がないと思われそうな甘い物が僕にとっては価値がある。水不足の地域の人たちからすると、水はとても価値ある物だが、僕たち日本人からすると、「湯水の如く使う」と表現するように、それほど価値ある物とは言えない(勿論、生きるためには重要だが)。あるいは、現代人からすると金やダイヤモンドは価値ある物とされるが、トマス・モアの『ユートピア』に出てくるユートピアの住人からすると便器の材質や奴隷の拘束具に用いるほど価値のない物である。

同じ物でも、その物に対する価値観は人によって大きく異なることがある。

2つ目が、時と場合によって違うということ。寒い季節や地方では温かい飲み物などは価値ある物だが、逆に冷たい物にはそれほど価値はないと言えそうだ。乾期には水は価値ある物だが、雨期にはそれほど価値があるとは言い難い。子供の頃にはお菓子に付いてくるオマケのシールなど価値があったが、大人になるとそれほどではない(思い出の品という意味で価値があるかもしれないが)。

同じ人が同じ物に接する場合でも、その物に対する価値観は、時と場合によって大きく異なることがある。

以上の2点から、物の価値というものは極めて相対的なものだと言える。

 

価格の相対性

価格というものもまた、相対的なものだと言わざるをえない。

例えば、山の上で食べられる食べ物や飲み物は高い傾向がある。昔、春先に六甲牧場に行った際、何の変哲もないかけうどんが一杯千円近くしたのを今でも覚えている(今現在どうなっているかは知らんけど)。あるいは、富士山頂付近で売っていた飲み物がすごく高かった記憶がある(記憶違いかもしれんけど)。

または、買う側からするとヒドい話だが、昔はボーリング場の自販機の飲み物は、なぜか1.5倍近い値段で売られていた(これは間違いない。関西地方だけかもしれんけど。そして、今現在どうなっているかは知らんけど)。

同じ場所でも価格が違う場合がある。スーパーマーケットでのタイムセールや、服屋などでの売り尽くしセールがそれにあたる。

このように、同じ物に対する価格が場所や、同じ場所であっても時によって大きく異なることがある。

 

価値と価格

このように、共に相対的である価値と価格だが、価値の指標の一つとして価格があるということに異論はあるまい。ところが、両者に必ずしも相関関係があるわけではない、というのが面白いところである。

価値と価格が完全にリンクしているのであれば、変わっていく価値と共に価格が常に変動していかなければならない。だが、現実は違う。例えば、暑い地方よりも寒い地方の方が温かい物が高いということを聞いたことがない。冬よりも夏の方がアイスが高いということも。

勿論、価格が需要曲線と供給曲線との釣り合いだけで決まるものではないことはわかる。商品には原価があり、そこに人件費などの必要経費を上乗せしていくことで価格は決定される。そして、その価格で買う人が現れると売買は成立する。但し、この場合はその物の価値が直接価格に反映されているわけではない。

興味深いのは、価格が本来的には価値の一つの指標として機能しながらも、その物の価値自体とは切り離された指標としても機能しているということである。そうなると、価格は価値を超え、恣意的に決定される場合がある。

 

物の価値

芸能人やなんかが、「これは○○億円の腕時計」なんて自慢気な話をしているのを耳にすることがしばしばあった。そんな時、心の中では「そんなにするわけないでしょ」って思ってた。だってそれを店やなんかに実際に売りに行っても、きっとその人が買ったであろう○○億円という価格は付けられないと思うから。大体、良くて元値の7~8割で買い取られるのがオチでしょ?それに、誰も欲しがらなければ、値が付かない(=0円)ということだってありうる。

だから、例えば、その時計が1億円で購入したものであったとしたら、それは「1億円で購入した腕時計」と表現すべきであって、「1億円の腕時計」と言うべきじゃない。

勿論、逆の場合もある。何てことないただのバットであっても、イチローが長年愛用したバットであれば、元値よりもずっと高値で売れる可能性がある。極端な話、そのバットを欲しがる人たちが競り続ければ、1億円の値がつくことだってありうる。それは、そういった人たちがそのバットにどれほどの価値を見出し、どれだけ支払うことができるかによって決まるだろう。

そして、その後は「1億円の腕時計」と同じ事が言えるようになる。売ろうと思っても他に欲しがる人がいなくなれば、やはりそのバットは値が付かない(=0円)ということになる。だから、そのバットも「1億円のバット」と言うのではなく、「1億円で購入したバット」と表現されなければならない。

だったら、物の価値って何なんだって話になる。これほどまでに価格が相対的であるのなら、やはり、その物の価値はある価格によって画一的に表されるものではないのだろう。そして、価値もまた、相対的である。

価値とは、実在的なものではない。それは人が見出すものに過ぎない。

僕はそう思ってる。もし、そうだとするなら、価格はその物の価値を表すものではなく、人がその相対的な価値を置き換えた任意の指標に過ぎないのだ。

そうであるにも関わらず、僕たちは日常、物には「○○円の価値がある」と錯覚する傾向がある。問題なのは、あらゆる物の価値を金銭的価値と同一視し、様々な価値を見出そうとしない、心までもが資本主義に支配された人間の貧困な精神性にあるのではないだろうか?

by    tetsu