最近の若者は愛社精神が低下傾向にあります。
実際、内閣府の「平成30年度子供・若者白書」によると、転職に否定的なイメージを持つ若者(16~29歳)は17.2%となっています。
愛社精神があれば、転職に否定的なイメージを持つはずです。もちろん、私も否定的なイメージを持っていません。また、愛社精神も全く持っていません。
会社に対する感謝の意はありますが、自分の身を犠牲にしてまで会社に貢献したいとは思えません。
というわけで、今回は「なぜ若者が愛社精神を持たず、むしろその言葉に違和感を感じるのか?」について解説したいと思います。
目次
組織と自己の価値同一化
自己のアイデンティティは、周囲との関係によって定義されます。
息子・娘としての自分、父親・母親としての自分、会社員としての自分、学生としての自分、日本国民としての自分など様々な組織から自分のアイデンティティは構成されます。
そのため、自身と組織の価値を混同するケースがあります。
その例が、愛社精神(会社と自分の同一視)であったり、愛校精神(出身高校・大学と自分の同一視)であったり、ナショナリズム(国家と自身の同一視)であったりするわけですね。
より具体的な例として、次のことが挙げられます。
東証一部上場企業の○○株式会社に部長として勤めているから、一般市民よりも凄いんだ。
東京大学を卒業したから、東大卒以外のやつよりも偉いんだ。
父親が大手企業の役員だから、自分も偉いんだ。
日本は世界に誇る国家だから、その国民である自分は凄いんだ。
このように、人には、属する組織の優秀さを自身に同化させる性質があります。もちろん、悪いことではありません。しかし、この傾向が極端になれば、周囲に傲慢さを振りまくことになります。
会社と個人の成長速度の逆転
「自己と組織の価値の同一化」をしないから、若者が愛社精神を無くしたわけではありません。
実際僕も、愛校精神やナショナリズムのある若者は多くいます。
では、なぜ愛社精神を持てなくなっているのでしょうか?
それは、会社と個人の成長速度の逆転です。
高度経済成長期(1955~1973年)には経済成長率が年平均で10%を超えていました。昔の会社は今では想像できないほどの速度で成長していました。
つまり、個人の成長<会社の成長という構図になります。もちろん、社会も急速に発展したので、個人の成長<社会の成長となっていました。
そのため、個人は社会の成長と同化し、幸福を感じていたのです。
一方で、現在の経済成長率は横ばいです。つまり、会社はほとんど成長していないのです。
もちろん、伸びている企業もありますが、高度経済成長期と比較すると極めて少数です。しかし、若者はいつの時代も成長するものです。
そのため、個人の成長>会社の成長という構図になります。
つまり、現代の会社に若者の拠り所になれていないのです。会社の成長と共に自身が成長して成功をつかむという絵を描きにくくなったのです。
それゆえ、若者は自分たちの拠り所をプライベートに求めるのかもしれません。その証拠に次のような内閣府の調査結果があります。
引用:内閣府(特集 就労等に関する若者の意識)
たった6年で仕事より家庭を優先する人の割合が10%も伸びています。高度経済成長期やバブル期のデータと比較できたら、もっとも面白いことになるかもしれませんね。
まとめ
「最近の若者は~」というレッテル張りはよくありませんが、世代という単位だからこそ分かることもあります。
そして、世代における違いは、教育状況・政治状況・経済状況などに起因します。そりゃ、教育も政治も経済もその国に住むすべての人間に影響を与えますからね。
就職氷河期なんてもっともな例だと思います。
そう考えると、時代が若者に愛社精神を持たせなかったということかもしれませんね。
私も20~30年ほど生まれるのが早ければ、会社のための身を尽くす人になっていたかもしれません。
愛社精神とは何か?
会社を愛する気持ち。自分の身を犠牲にしてでも、会社に報いようとする精神のこと。その根源には、自己と組織の同一化と成功報酬の大きさがあります。
若者に愛社精神がない理由は?
個人の成長>企業の成長となったことや年功序列制度・終身雇用制度の実質的な崩壊により、企業に若者の心の拠り所になれるほどの力が無くなったためです。
つまり、会社と自己の価値を同一化するメリットが無くなったからです。そのため、若者は自らの拠り所をプライベートに求めるようになりました。
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