「努力は報われる」/「努力は裏切らない」というのは本当だろうか?―適切な方法論について

「努力は報われる」とは限らない

少し聞いただけでは、腑に落ちない言葉というものは数知れず。ご多分に漏れず、この言葉もそんな類の一つでして。巷で言われる「努力は報われる」や「努力は裏切らない」といった事は、本当にそうなんでしょうか?

教育関連の業界で仕事をしていると、よく耳にする言葉です。自分が学生だった頃から数えると、耳にタコができそうなくらい聞いた記憶があります。朝礼における校長の挨拶、生徒指導の教師の訓話、進路指導の教師の説教。指導者側にまわってもこの言葉からは逃れられません。熱く、時には気持ち良さそうに、子どもたちに語っている先生方がいらっしゃいます。

そんなことないって知ってるくせに。

あの言葉を聞くと、ついそんなことを思ってしまいます。だって、本当に「努力は報われる」んだったら、きっとほとんどのオリンピック選手が金メダル取れますよね。野球選手は皆メジャーリーガーですか?現実はそんなことないでしょ?そうなんです。「努力は報われる」とは限らないんです。

真面目な話、これは子どもたちにも教えてあげないといけないと、私は思います。「努力は報われる」とか「努力は裏切らない」とか信じ込んで、努力する子がいたとしましょう。でも、現実ってのはそんなに甘くありません。すぐに現実の厳しさを思い知らされることになります。場合によっては、その際に味わう絶望感は、心を挫いてしまうかもしれません。そうなると、立ち直ることは難しいでしょう。

特に、真面目に努めてきた人間にとってはシリアスな問題となります。これまで「努力は報われる」だの「努力は裏切らない」だのといった言葉が正しいと教えられてきたから、報われなければ「自分の努力が足りないからだ」とか「やってもできないなんて自分はダメな人間なんだ」なんて思いこんでしまいます。真面目だから。この言葉が間違っているなんて夢にも思いません。真面目だから。「間違っているのは自分だ」なんて思い込みます。真面目だから。

そんな真面目な人間は、立ち直るのは難しいんです。下手すると、何かに挑戦しようとか、頑張ってみようなんてことを、もう思わなくなるかもしれません。向上心なくしてしまってもおかしくないよねってレベルなんです。

世の中には自分の思い通りにいかないことがあるものです。譬え、それがどんな権力者であっても。誰も太陽を西から昇らせることなんてできやしません。それは、努力すれば何とかなるなんてもんじゃない。そもそも、そういう類の話じゃないんです。

そういったことを教えた方がいいでしょう。世の中には、どうにもならないことがあると。そして、そのどうにもならないことを受け止める勇気が必要だと。それだけで心が軽くなる時もあります。「努力しなければならない」という呪縛から抜け出せる。そこから新たに始まる何かがある。別に、それにこだわり続ける必要なんてないんです。

 


努力はムダ?

だからといって、努力がムダか?と言えば、決してそんなことはありません。向上心をもって何かに取り組むってことは素晴らしいことだし、努力はするべきだと思います。「若いときに流さなかった汗は、老いてから涙となって返ってくる」って言いますもんね。何だか、道徳の授業みたいな話になっちゃいました。でも、話はそんなに単純ではありません。

「努力が報われる」とか「努力は裏切らない」とか、一般論的に努力を極論で語ろうとは、さらさら思いません。物事をそんなシンプルに割り切って捉えきれるとは思いませんし。

確かに、努力は報われない時もあります。努力に裏切られることもあるでしょう。しかし、報われない時があっても、裏切られることがあっても、それでもやはり努力は重要なんです。

努力した者が全て報われるとは限らん

しかし!

成功した者は皆すべからく努力しておる!!

(『はじめの一歩』鴨川会長のセリフより)

これ、「努力しない人は成功しません」て言われてるようなものですね。やっぱり、努力って大事なんですよ。

 


間違った努力の仕方

これで、はっきりしたことがあります。

①.努力は報われないことも、裏切ることもある。

②.報われないことも、裏切ることもあるけど、それでもやっぱり努力は大事

さて、ここからは、哲学者的な頭脳がうずきます。じゃあ、何で同じ努力でも、報われる努力もあれば、報われない努力もあるんだ?って具合に。

思うのですが、努力の中にも「正しい努力」と「間違った努力」ってもんがあるんじゃないかと。まあ、「正しい努力」ってのがあるのかどうかはさて置き(そんなもんがあって実践してたら、さっきの話じゃありませんけど、皆オリンピックで金メダル取れますもんね)、少なくとも、「間違った努力」ってのはありますよね。

例えば、ハンマー投げの記録を伸ばしたいのに、100m全力で走る練習ばっかりしてても仕方ありませんよね?100mをクロールで速く泳げるようになるために、反復横飛びばかりしていてもほとんど意味がないように。極端な話、将棋を強く指せるようになるために、フリッカージャブの練習しても、強くなれるわけがありません(ボクシングは強くなるかもしれませんが)。

100mを全力で走り続けることも、反復横飛びばかりすることも、フリッカージャブの練習をすることも、それぞれの目的に適った練習方法とは言えません。これらは、いわば、間違った努力と言えるのではないでしょうか?

恐ろしいことに、気付かなければ本人は努力してるって思えるかもしれないんです。しかも、それぞれの行為自体は決して楽じゃない。だから、時には汗水垂らして、苦しい思いをして、努力してると錯覚する。そして、その結果どうなるか?

そりゃ、100mを走るのは確実に速くなるでしょうし、反復横飛びだって、素早くこなせるようになるでしょう。フリッカージャブだってトーマス・ハーンズ並にとはいかなくても、それなりに繰り出せるようになるかもしれません。

しかし、確実に言えるのは、ハンマー投げで記録が伸びることはないでしょうし、クロールだって下手すりゃ100mどころか50mさえ泳ぎきれないかもしれない。将棋に至っては、駒を動かすときにフリッカー使う感じで変な動作を繰り出してしまうかもしれません。

まあ、これだけ極端な例だと、これらの努力が間違ったものであることは容易に察しがつくでしょう。しかし、それほど極端なものではなくとも、それっぽく見える努力だとしたら、果たして、間違ったものだと気付くことができるでしょうか?場合によっては、難しいかもしれませんね。

 


適切な努力

報われない全ての人が間違った努力をしているのか?と言われると、あながちそうとも言いきれないかもしれませんが、その可能性は大いにあるでしょう。特に、勉強に関しては、顕著かと思われます。

例えば、小論文の試験に合格しようとします。どうれば、良いか?ただ、闇雲に参考書を買って熟読する?そして、テキストを買って問題を大量に解く?ありがちですね。これに関しては、ほぼ確実に言えますが、そんなことしたって受かりません。もし、受かったとしたら、その人は端からそんなことせずとも受かる人間です。

参考書を読んで問題を解く。典型的な勉強法のように見えますが、これは小論文に関しては、少なくとも、正しい努力とは言えません。なぜなら、そこには適切な方法論がないからです。 方法論とは、 いかなる目標に向かって、どのような道筋をたどって実現するかということを規定する基礎であり、土台のようなものです。しっかりとした土台がなければ、積み上げていっても、ぐらつくばかりで心許ないですよね?場合によっては、せっかく積み上げても、簡単に崩れ落ちちゃいます。

では、大学入試や入社試験、あるいは社内における昇級試験にも課される小論文の基礎とは?それは、論理性です。

小論文における論理性とは、 自分の考えや感じたことを、筋道立てて相手に伝えることを言います。筋道立てて説明するから、説得力がある。小論文の試験では、書くことを通して、相手を説得しなければならないのです。もちろん、大学教授や、会社の試験担当官を説得するのは容易ではありません。ですが、少なくとも、一般的には説得する力があるということくらいは示す必要があるのです。

ちなみに、小論文に関して、「説得すること」ではなく、まれに「自分の意見を伝えること」が重要という説明を目にしますが、それは正確ではありません。自分の言いたいことを伝えるだけでは、そっぽを向かれるだけです。あくまで、相手に納得してもらえるように伝えることが重要なのであり、筋道立てて説明することで初めて、それが可能になるのです。

さて、ここで問題。相手を説得するための実践的な練習を一人でできますか?

まあ、おわかりでしょうが、答えは当然否です。二人でしなければならないことを、一人でできるわけがありません。一人でジャンケンするようなものです。ですから、相手を説得するための実践的な練習は、誰かとしなければならないのです。相手を想定して書く。どうすれば相手に伝わりやすいかを考えながら、納得してもらえるように筋道立てて書く練習をする。その過程で、試行錯誤を繰り返す。書いたものを相手に読んでもらい、納得いくものかどうかを判定してもらう。そうして初めて、論理性を培うことができるのです。

参考書を読んで問題を解く。確かに、一人で学習するこの過程も大切なことではあります。文章を書く上での最低限のマナーを身につけたり、語彙力を高めたり等々。しかし、努力するといっても、これだけを反復したからといって、合格できるような小論文が書けるようになるかというと、そういうわけでありません。小論文を勉強するのが難しいと言われる所以はここにあるわけです。他の科目だと、正解とされる答案の書き方はほとんど1つだけですもんね。多彩な解答が可能な小論文ならではの難しさと言えるでしょう。

まあ、これ以上は本筋からはずれてしまうので詳述は控えますが、努力の仕方には適切なものがあるということ。それは 理に適った努力であり、 どこに力を入れれば最も効率的に目標が達成できるかが考えられた上で行われる努力のことです。そういった努力を心がけることで、「努力に裏切られる」ことも少なくなるのではないでしょうか?

 


報われる努力をするために

報われる努力というものがあるとするなら、それは 「何をすれば目標が達成できるか」がしっかりと考えられたものだと思います。それが、しっかりと考えられていないと、「フリッカージャブを繰り出すかのように将棋の駒を動かす」なんて珍事に陥りかねません。ですから、目的意識をきちんと持ったまま、努力を積み重ねることが重要になります。

大きな目標を達成するためには、小さな目標を達成していくことを繰り返すということが有効である場合が多いです。通過ポイントを定めて、ルートを選んで山頂を目指そうということですね。

では、小さな目標とはどのように決められるのでしょう?それは、分析によってです。分析とは、 全体をいくつかの構成要素に分けること、または分けることによって全体の構造をはっきりとしたものにし、捉えやすくすることを意味します。

小論文を例に考えてみましょう。小論文を書くためには、様々な能力が求められます。主語と述語を含めた文を書く力。漢字を書く力。接続語や指示語を適切に用いる力。物事を筋道立てて考える力等々。このように、小論文を書くという行為を全体として捉えた場合、各々の力に分けて捉えなおすことができますが、これを分析と言います。そして、分析によって分けられた構成要素が達成すべき小さな目標となるのです。

今回の例でいうと、小さな目標は個人的に努力することで達成されるでしょう。漢字は問題集で覚えられますし、接続語や指示語の用い方も、それぞれの意味を覚えた上で、どのように用いられているかを様々な文章を読むことで学んでいくことができます。ですが、それだけでは足りません。ここに綜合という行為が必要となります。

綜合とは、 各部分に分けられた要素をつなぎ合わせて、1つの全体にまとめることです。せっかく達成した小さな目標も、大きな目的達成のために活かされなければ意味がありません。小論文で言うなら、1つの文章を書く場合に求められる能力、すなわち、語彙を駆使し、接続語や指示語を適切に用いて、物事を筋道立てて説明するという各々の力をバランスよくこなさなければならないのです。

「何をすれば、目標が達成されるか?」を考える場合には、この分析と綜合の能力は欠かせません。まとめると、次のようになるでしょう。

1.大きな目的を達成するためには、何ができなければならないのかを分析する。

2.分析によって、小さな目標を設定する。

3.小さな目標達成に向けて、実践する。場合によって、更なる目標の細分化が必要であれば実行し、より小さな目標の達成を心がける。

4.小さな目標が達成されたら、それらを綜合する。そして、綜合的なアウトプットの訓練を積み重ね、大きな目的達成を試みる。

もちろん、これら全てのステップを踏んでいくからといって、どんな目的でも達成されるかというと、そんなことはありません。今から、私が将棋タイトル七冠を達成できるかと言えば、無理です。世の中には才能という壁も立ちはだかっているのですから。

それでも、継続は力なりと言われるように、努力の積み重ねは、時として、大きな成果をもたらすことも事実です。それが、理に適った努力であるなら、尚更です。だから、「努力をすれば夢は叶う」とか「努力は報われる」なんて安易に言うよりも、「どういう努力をすれば、目的は達成されやすいのか」ということを教えることの方が、よほど為になるわけです。

by    tetsu