信じるという言葉には、実は、疑いが含まれているというちょっぴり悲しい事実について

やわらかい哲学

信じているであろう間柄でも、実はそれほど信じていないんだなぁと思うことがある。

ある統計の結果から

あるモバイルリサーチを行っている会社の統計によると、「恋人の携帯をこっそり見たことがあるか?」という問いに、回答者の内、「見たことがある」と答えた人の割合が男性で21%、女性で39.8%になったという。また、前の問いに、「見たことがない」と答えた人に、更に、「恋人の携帯をこっそり見たいと思ったことがあるか?」と問うと、「見たいと思ったことがある」と答えた人の割合は、男性で46%、女性で32.1%に及ぶという。ということは、「見たこともないし、見たいと思ったこともない」人の割合は、単純に計算しても、男性で42.66%、女性で40.8758%ということになる。

何事においても、統計の数字を鵜呑みにすることはできない。調べていくと、別の結果によれば、「見たことがある」と答えた男性の割合が12%で、女性の割合が63%というものもあった。2つの結果の差が、誤差の範囲を越えているし、母数や回答者の質(年齢や嗜好性という意味で)という観点からも、こういった類の統計が真実を表すかと言えば、必ずしもそういうわけではないだろう。しかし、モバイルリサーチの結果を元にするなら、恋人のいる人の約6割近くが、恋人の携帯を見たいと思ったことがあるか、実際に行動に移しているということになる。

 

だからといって、人として信じていない相手と付き合っている恋人の割合が過半数にのぼる、などと短絡的な事を言う気はない。信じる事と相手の携帯をこっそりチェックする(あるいは、したい)事との間に、直接的な繋がりがあるかどうかなどわからないのだから。相手の事をもっと知りたいという、人間として当然ともとれる欲求からくる、ある種の好奇心がそう思わせることもあるだろう。仮に、そのような繋がりがあったとしても、そもそも人を信じるということ自体が、ごくまれにできることであって、人と信頼関係を築く事がとても難しいことだと考えることもできるかもしれないわけで…

それでも、ある程度の割合の人が、何らかの疑念を持っていると考えることはできるかもしれない。あくまで個人的意見ではあるが、相手を信じているならば、実際に、携帯をこっそりチェックする必要性が感じられないから。

 

信じることは難しい?

この問いに答えてくれた人に訊いてみたいことがある。相手のことを信じているかどうか。「信じている」と答える人が、どれほどの割合でいるのだろう?携帯をチェックする(したい)と答えた人の割合と一致するだろうか?ひょっとしたら、その割合よりも少ないかもしれない。だとしたら、信じることのできない相手と付き合ってる恋人が、世の中には多いということになる。いささか、寂しい結果だ。あるいは、その割合よりも多いかもしれない。となると、やはり、恋人を信じている人が多いということ。携帯をチェックするのも、ある種の好奇心からか、「信じてる。信じてるんだけど、ちょっとね…」という感じなのだろう。

この「ちょっとね…」の後に続く言葉が、何らかの疑念、とまではいかないまでも、その種から発せられるものであるとしたなら、完全に相手を信じるということは、やはり難しいのだと、感じずにはいられなくなる。

もちろん、人間なのだから、何事も完全にするということは極めて難しい。時には、そういった疑念の種が発芽するかもしれない。信頼し合った関係でもそんな場面が訪れる事もあるだろう。であるなら、そもそも信じるということはどういうことなのか?という疑問が生じてくる。果たして、信じることは可能なのか?

 

信じるということ

対人関係以外であるなら、信じることは容易である。そもそも、私たちはそれを自然に行っている。というか、生きている以上、それなくしては成り立たない。私たちは、日常、様々な物事を信じながら生きている。地球がある事を信じているし、明日もまた、太陽が昇ることを信じている。自分が存在することを信じているし、いずれ終わりが来ることを信じている。

 

果たして、そうだろうか?

 

辞書的な意味合いでは、「本当と思うこと・そうだと疑わないこと」と記されている事が多いが、上述したような場面において、「信じる」という言葉を用いることに、どうしても違和感を感じてしまう。

例えば、目の前にあるペンをつきつけられて、「あなたはこのペンがある事を信じますか?」と訊かれれば、奇妙に感じたりはしないだろうか?普通の人ならば、「何を言っているんだこの人は?」と思うだろう。「どうしてそんな当たり前の事を?」と。

そう。事実として思うということは、その物事を、当たり前のものとして、捉えるということである。地球がある事も、明日太陽が昇る事も、自分が生きている事も、やがて終わりが来る事も。私たちはすべて、当然の事実として、受け入れているのだ。

事実として受け入れる事柄については、「信じる」も「信じない」もない。なぜなら、それは当然の事実だからだ。違和感の原因はそこにあった。

目の前にあるペンを、事実として認識する場合、「私は、目の前にペンがある事を信じている」とは言わない。「私の目の前にはペンがある」と言う。疑わないとはそういうことである。

 

言葉の不思議な両義性

言葉には不思議な両義性がある。その言葉が意味するところとは反対の意味を必然的に内包している、という逆説的な両義性だ。言葉の避けられぬ宿命といってもいい。

例えば、「右」という言葉は、それだけでは成り立たない。「左」という言葉があってはじめて成り立つ。「左右」の区別があるからそれぞれの言葉があるのであって、絶対的な意味での「右」など存在しない。そのような意味において、「右」という言葉は、「左」という言葉の意味を含んでいるのである。

それは何も、方向という相対的な概念を表す言葉に限った話ではない。「光」があれば「闇」があるように、「権利」があれば「義務」があるように、「親」があれば「子」があるように、物事を表す言葉はすべて、対義をその内に含んでいるのである。

物事を理解するために言葉があるのだとしたら、言葉は世界を分節化し、分けるためにあると言える。そうして、言葉によって分けられた世界を、私たちは理解する(分かる)のである。

「信じる」という言葉も例外ではない。それが分けられた言葉である以上、分けられた対のものも存在する。それが「疑う」である。「信じる」という言葉には、「疑い」もまた、必然的に含まれているのである。

 

人を信じるということ

人を信じるということは、先ほど挙げた、ペンなどの例とは些か様相が異なる。というのも、人のあり方というものは、地球があるように、太陽が昇るように、変わらぬ事実としてあり続けるという類のものではないから。

人間は良い意味でも、悪い意味でも変わる生き物だ。成長もすれば、堕落もする。時間と共に変わっていく。だから、ある時点で信じられる人が、この先もずっと信じられるかどうかはわからない。そこに、人を信じることの難しさがある。

 

「信じてる」と言われた事がある。だが、僕はその言葉を心から受け入れることができなかった。言葉にしたい気持ちはわかる。でも、本当に信じているなら、そんな言葉は出てこない。そんな言葉は必要ない。信じているなら、それはその人にとっては当たり前の事なのだから、口にすることが奇妙にさえ思えてくるはず。

同様に、「信じろ」という言葉にも意味がない。言葉にした瞬間、それは疑いを含む。本当に信じられる関係というのは一朝一夕にできることではない。信じられる言動の積み重ねの上で、事実として認めてもらうしかない。

人を信じ、人に信じられるというのは、とても大切なこと。信頼ある人間関係が、人生を豊かにするということに異論はない。だから、これからも大切な人との信頼関係を築いていこうと思う。そのためには、不思議なことに、「信じる」という言葉が出てこないくらい、当たり前の事として、信じてもらえるようにしなくてはならない。

 

かつて、「信じている」と言われたその言葉は誰に向けられたものだったのだろう?ひょっとしたら、「信じたい」という願望の表れだったのかもしれない。だとしたら、そんな言葉を口に出させてはいけなかったんだ。特に、大切な人からは。

「信じる」という言葉を口にすると、「疑い」が生まれる。でも、時には、言葉にしたいこともあるよね。そんな、ちょっぴりもどかしい話。

 

 

by    tetsu