神の存在証明が成り立たない理由について

はじめに

神の存在証明については様々な哲学者、思想家が試みてきた。アクィナス、カント、デカルト…。西欧哲学で言われるような「 理性による神の存在根拠の提示」をその存在証明とするならば、唱えた者たちは、十全的に成したと考えたに違いない。しかし、積み上げられたこれらの証明とされるものは、燦然たる理性の石碑などではなく、シーシュポスの岩に過ぎないのである。

宗教的な神を否定する気はない。神の存在は信心による。誤解を与えぬよう予め断っておくが、私がここで否定しようとしているのは、神の存在そのものではなく、これまで幾星霜試みられた(そしてこれからも試みられるかもしれない)神の存在証明についてである。それを目にして尚、神の存在を信じるかどうかは、個人の裁量による。私自身は無神論者ではあるものの(と言うよりは、その存在証明が不可能である以上、積極的にその存在を肯定できない、と表現する方が正しいのかもしれない)、他人のそれを否定しようとは思わない。それが救いとなる可能性もあるからである。

しかし、宗教的にではなく、思想的に行われてきた神の存在証明は否定しなくてはならない。なぜなら、それは理性の過信へと繋がり、過度な明晰故の逆説的な盲目へと人々を陥らせる危険性があるからだ。条理があって人間があるのではない人間があって、条理があるのである。私はそこに人間存在の根元をみる。人間存在は、決して、理性の前に全面的に平伏してはならないのだ。

 


神の存在証明に対する反証

神の存在証明には、典型的なパターンとして、主に4種のものがある。自然神学的証明存在論的証明宇宙論的証明道徳論的証明がそれにあたる。前三論はカントによって論駁されたと言われている。彼は、理論的な理性による神の存在証明は不可能だと考えた。そして、四論目の道徳論的証明に至ったという。しかし、私はカント哲学に立脚した上で、語ろうとは思わない。なぜなら、最低限の論理的形式を有する文章のあり方を、 自明である共通認識であるところの前提を有するという意味で、理論的であるとするならば、「証明」の名を冠するものはすべて理論的でなくてはならないし、非理論的である主張は一般性を有しないが故に、語る価値もない(ヴィトゲンシュタイン風に言えば、「語りえない」)からである。

念のために言っておくが、理論的である事が、あらゆる表現に対して要請されるべきというわけではない。個人的な立場でいうと、論理に対するアプローチは、極めてヴィトゲンシュタイン的ではあるが、「語りえぬものに対して、沈黙しなければならない」とまでは言うまい。語りえぬものに対する言明乃至非言語的表現が、感性からの共振により、理性と感性を綜合する精神に強く働きかけ、カタルシスを惹起し、ある種の解放的快楽へと我々を導くことも否定はできないのだから。

 

自然神学的証明に対する反証

自然神学的証明の概要は、「 これほどまでに世界が精巧で、且つ、規則的にあるのは、神が創造したからに違いない」というもの。すべてがある目的を有し、理に適ったあり方をしていると捉えられることから、目的論的証明とも呼ばれる。証明としては、帰納的方法によるものである。この証明が必然的に不完全であることは言うまでもない。というのも、数学的帰納法とは異なり、現実に関する帰納法を、証明方法として機能するために十全的に適用することはできないからだ。

帰納法を成立させようとするならば、すべてについて、そうあると言えねばならない。だが、すべてについてそう言えることなどできるだろうか?例えば、生態系におけるエネルギーの源は、太陽光にあると考えられてきた。酸素を供給し、食物連鎖の根底をなす植物は太陽光なくしては存在できないのだから。しかし、そういった生物学の根底を覆す生物の存在が知られることとなった。岩石独立栄養生物である。岩石独立栄養生物は、文字通り、岩石などの無機物から、自ら有機物を合成して生命を維持するものだ。これは、あらゆる生態系のエネルギーの根源が、太陽光にあるという生物学的常識を覆した一種のコペルニクス的転回である。こうした事例をみると、すべてについて然々であると思われていた「事実」とされるものが如何に脆弱な認識基盤の元に建てられた砂上の楼閣に過ぎなかったを思い知らされる。

また、別の例をみてみよう。海洋上の光合成生物の大多数を占めるプロクロロコッカス属のシアノバクテリアの存在が知られるようになったのは1980年代も後半になってからのこと。海洋上に漂う、多数を占める生物の存在でさえ、知られるようになったのはここ30年の出来事である。我々にとって未知の存在がどれほど世界にあることであろう。

現代においては正しいと認識されている科学的真理も、カール・ポパーが言うように、「帰納的飛躍によって設定された仮説」に過ぎず、その正しさは数ある反証の失敗から「消極的にしか認識されない」のである。つまり、すべてを把握しきることなどできない我々人間からすると、「取り敢えず(今のところは)正しいのであろう」という程度の確度でしか、物事は推し量れないのだ。このような意味での消極性を、帰納法は宿命的に負っているのである。

従って、このような帰納法に依拠する自然神学的証明は十全的とは言えない。だが、問題点はまだある。それは、物事が規則的に見えるからといって、事実として、物事が規則的であるとは限らないということ。例えば、次の数に続く数を想像していただきたい。

2、4、6、…

比較的多くの人が「8」を思い浮かべるのではないだろうか?しかし、この数列が規則的であったとしても、次の数は「9」ということだって考えられる。その場合、その次にくる数は、「11」である。そして、これで数列は完結する(これらがどのような規則に則っているかは、カレンダーを見ればわかるであろう)。

重要なのは、譬え、規則的であったとしても、あるがままのものとは異なる、別の規則を当てはめようとする心理にある。そう、人間とは、事物に規則を見出そうとする生き物なのだ。当然、無秩序な場合も想定される。カントが言うように、我々は「もの自体」を認識することはできない。それと同様に、事実自体をも認識することはできないと言える。ましてや、物理学におけるミクロな世界において、物質の振る舞いは無秩序であるという話さえある。それがマクロ的視点においては規則だっているという。人間が現実において観察可能な世界だけが規則に基づいているとするなら、世界が確かに規則的とは言い難いのではないだろうか?

以上のように、帰納法における、我々人間の認識能力の不完全さと、それ自体知ることのできない事実の本性としての規則性の曖昧さという2つの観点から、自然神学的証明が成り立たないということが言えるのである。

 

存在論的証明に対する反証

デカルトの存在論的証明

存在論的証明については、「 〈存在する〉という属性を最大限に持ったものが神である」などという観念的な説明を多分に見かけるが、これでは正直、意味がわからない。そもそも、「属性」という概念が如何なるものかが明記されない以上、言語規定は曖昧なままで、議論が霧中に帰すことは明白である。従って、ここでは存在論的証明を行った哲学者の代表格として、ルネ・デカルトの証明を例に考察していくことにする。

デカルトの存在論的証明は、『方法序説』の第四部、及び、『哲学の原理』の第一部「人間的認識の原理について」において、展開される。

…、私は私自身より完全な何ものかを考えることをいったいどこから学んだのであるか、を探求することに向かった。そして、私は、それが、現実に私より完全であるところのなんらかの存在者から、でなければならぬことを明証的に知った。〈中略〉。なんとなれば、より完全なもの(神の観念)が、より不完全なもの(私の存在)の結果であり、これに依存するものである、というのは、無からあるものが生ずる、というのに劣らず、矛盾だからである。したがって、当の観念は、私よりも完全でかつ私が考えうるあらゆる完全性をみずからのうちにもつところの存在者、すなわちひとことでいえば、神であるところの存在者、によって、私のうちにおかれたものである、というほかはなかった。

『方法序説』デカルト著(2001年8月10日中央公論新社発行 訳者―野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎)第四部(p43l6~p44l6)より抜粋 

(※注.〈〉内表記は筆者による。)

十七 われわれの観念のいずれにおいても、その表現的完全性が大きければ大きいほど、その観念の原因もまたそれだけ大きくなければならない、ということ
〈中略〉
〈われわれのうちにある〉観念に含まれている表現的完全性が多ければ多いほど、それらの原因はそれだけ完全でなければならない、ということがわかる。これはちょうど、だれかがあるきわめて精巧な機械の観念を持っている場合、彼がその観念をもつにいたった原因は、いったいなんであるかと当然たずねることができるのと同じである。〈中略〉。というのは、この機械の観念のなかに、たんに表現的に、すなわちいわば映像におけるがごとくに、含まれている精巧さはすべて、その観念の原因のなかに―その原因が結局どのようなものであろうと―含まれていなければならず、しかも少なくとも第一の主要な原因の中では、ただに観念的に、すなわち表現的に、含まれているばかりではなく、さらに現実的にも、形相的または優勝的(1)に、含まれていなければならないからである。
(1)原因が結果におけると同等の実在性をもつとき、原因は結果を「形相的に」含むといい、原因が結果よりも多くの実在性をもつならば、原因は結果を「優勝的に」含むという。
十八 ここからふたたび神は存在するということが結論される、というこ
このようにして、われわれはみずからのうちに、神の観念、すなわち最高の存在者の観念、をもっているのであるから、どのような原因によってこの観念をもつにいたったのかを当然調べてみることができる。〈中略〉。このような観念は、真にあらゆる完全性を余すところなく包括したものによって、すなわち現実に存在する神によって、われわれのうちに賦与されたのでなければならぬということを、まったく確信せざるをえないのである。なぜかというに、無からは何ものも生じないということ、また、より多く完全であるものが、より少なく完全であるものから、これを作用因かつ全体因として、産出されることはないということ、そればかりでなく、われわれのなかにはなんらかの事物の観念あるいは映像があり、しかも、それによってあらわされているすべての完全性を現実に含んでいる原型ともいうべきものが、われわれ自身のうちにであろうとわれわれの外にであろうと、どこにも存在しないなどということは不可能であるということ、これらのことは、自然の光によってきわめて明白である。
 
『哲学の原理』デカルト著(2001年8月10日中央公論新社発行 訳者―野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎)第一部「人間的認識の原理について」(p140l11~p142l12)より抜粋
 
(※注.〈〉内表記は筆者による)

デカルトの存在論的証明に対する反証可能性

しかし、カントは『純粋理性批判』において、真っ向から反論している。カントからすれば、デカルトの存在論的証明における存在とは、観念的存在と現実における実在とを混同したものに過ぎないのだ。従って、証明は成り立たないというのである。

それも一理はあろう。だが、観念的存在と現実的存在との明確かつ厳密な区別など、そもそも可能なのだろうか?例えば、ごく稀に、夢の中で「夢」を見ることがある。夢の中で見る「夢」も、その時見ている夢も、非現実であることには変わりはない。しかしながら、同様に我々が生きる、現実と思しきこの世界が、胡蝶の夢でないとは言い切れないのではないか?

デカルトの行った方法的懐疑は、まさにこのような点から、出発している。つまり、この世界について、疑おうとすればどこまででも疑えるという事実から。確からしいものなど何もないのではないか?このような懐疑の果てに、彼は、超越論的に、主体としての自我の存在に辿り着いたのである。

しかし、彼の辿り着いた確固たる自我という道標は、現実における、つまり身体を含む物質的な自我ではなかった。あくまで、観念的、精神的、理性的主体であり、実在的なものではなかったのである。ここに、デカルトの心身二元論の根元が見られる。つまり、疑いえない自己の存在と、疑いうる物質世界の狭間に、確実性の分水嶺が、屹立しているのである。

であるとするならば、実在と観念的存在とを混同しているとは一概には言えなくなる。というのも、実在たる何かを、確実に把捉できる保証などないのだから(だとすると、すべての存在は、観念的存在とならざるをえない)。これに関しては、夢と「現実」との確実性の区分について、『方法序説』第四部において、次のように述べられている。

…、夢に現れる思想のほうがしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上、夢の思想のほうが他より偽であると、どうして確かに知りうるであろうか。

『方法序説』(2001年8月10日中央公論新社発行 訳者―野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎)第四部(p48 l10~12)より抜粋

このことを考えると、デカルト哲学における存在論は、当の存在が観念的か現実的かといったことについての確実なる区分が認められない以上、極めて観念的であると言わざるをえない。方法的懐疑という名の、哲学的思考実験の必然的、論理的帰結として、自己の存在が認められたに過ぎず、実在と観念的存在との区別は、依然として、不確実なままなのである。これは、実在と観念的存在の混同などでは、決してない。

しかし、デカルト的存在論が観念的なものにとどまるかと言えば、そういうわけではない。我々の観念や概念についての実在性をデカルトは認めている。しかし、それはあくまで神に由来するのである。

…、われわれの観念や概念は、それらの明晰判明な部分のすべてにおいて、ある実在性(観念的または表現的実在性)を有し、かつ神に由来するからこそ、その点において真ならざるをえないのだ、ということになる。〈中略〉。しかし、われわれの内にあって実在性を持ち真であるところのすべてのものは、完全で無限な存在者から由来すると、われわれが確かに知るのでなかったならばわれわれの観念がいかに明晰で判明であろうとも、それら観念が「真である」という完全性をもつことを、確信しうる理由を、われわれはもたないであろう。

『方法序説』デカルト著(2001年8月10日中央公論新社発行 訳者―野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎)第四部(p49 l2~l4及びl9~l13)より抜粋。

(※注.〈〉内表記は筆者による)

デカルトの方法的懐疑によって確立された世界論は、「疑いえない自己」に立脚している。そこを足掛かりに、「完全で無限な存在者」であるところの神へと至り、「われわれの内にあって実在性を持ち真であるところのすべてのもの」は、その神がいるからこそ、そのようなものとしてあるのだということを、我々は確信するのである。

以上の事から、デカルトが観念的存在と実在とを混同しているとは一概には言い難い。というのも、そもそも我々の内にある観念乃至概念を実在性あるものとして真たらしめているのは、他ならぬ神だからである。そのような実在性の原因に対して、観念と実在とを混同しているというのは如何なものか。むしろ、このような二元論的な捉え方は、実在と観念とを峻別していることの証となりはしないか。

また、実在性を与える究極的原因としての完全なる存在者に、実在性の欠如を見出すことも困難である。なぜなら、そのような存在者は、実在性においても完全でなければならないからである。そもそも、そのようなものが空想の産物であり、観念の域を出ないという批判も考えられないことはないが、それはデカルトの存在論的証明に対する直接的な反証にはあたらない。そのような反証を可能ならしめるのは、かの存在者の完全性に対する批判をおいて他にはないのである。

デカルト哲学における神の存在証明に対する反証

デカルト哲学における存在論的証明は、我々の、つまり、主体として疑いえぬ自己の内に存在する神の観念から始まる。そして、その神の観念が何によってもたらされたのか、その原因に迫る。「無からは何ものも生じないということ、また、より多く完全であるものが、より少なく完全であるものから、これを作用因かつ全体因として、産出されることはないということ」から、完全なる存在者としての神の観念が我々の内にある以上、それは他ならぬ(現実に存在する)「神によって、われわれのうちに賦与されたのでなければならぬ」と言うのだ。しかしながら、ここには大きな問題が隠されている。人智の限界である。

我々人間は有限な存在だ。従って、真の意味で、無限を知覚することはできない。譬え、何か無限なるものがあったとしても、その当のものが正に無限たるかどうかなど判別しようがない。なぜなら、我々人間の知覚能力は有限であるから。

では、なぜ我々は無限なるものを知った気でいるのか?それは言葉によって知覚できていると錯覚しているからである。我々は、言葉によって世界を認識しているところがある。全てとは言わぬまでも、世界だと思っているところのものは、たいてい言葉によって結びつけられた心象の総体である。ところが、これが世界と完全に一致するかと言えば、そういうわけではない。譬え、客観的だと思われている観念についても、我々が知りうるところのものは、個々人の主観的な経験の集積から導き出され、一般化されたものに過ぎない。いわば、虚構と現実の狭間に、我々はいるのである。

これは、ある有名人について、その人の事を知っている、という場合に、よく似ている。例えば、イチローを知っていると言う時、恐らく大半の人間は、彼が偉大な元メジャーリーガーであったという、ほんの一面についてしか知らない。息子としての側面も、夫としての側面も、友人としての側面も、何も知らない。にも関わらず、彼のことを知っているか、と問われれば、実に多くの人間が、知っていると答えるであろう。彼という人間の、ほんの一端しか知らないにも関わらず。

我々は言葉によって物事の大半を知覚する。しかし、それが即世界というわけではない。その意味では、世界を知っているとは言い難い。フェイクニュースによって欺かれることもある。その場合、我々はフェイクの内容を世界の内実として、自身の世界観を形成する。我々の内にあるのは、あくまで心象としての世界の総体であり、世界自体ではない。その主観的とも言える心象と現実世界が一致することもあればしないこともあるということである。

言葉は、世界の内実と一致しない限りにおいては、形骸に過ぎない。これは無限という語についても言える。人間の知覚能力が有限である以上、我々が真の意味で無限を捉えることなどできはしない。譬え、連続体仮説のような無限を扱う式が証明可能であったとして、それを数式で表せたとしても、それは我々が扱いうる無限のある側面を数式に落とし込んだだけで、決して、無限自体を有限の檻の中に閉じ込められたというわけではない。我々が内なる概念として、捉えているのは、空蝉の如く、「無限」の形骸に過ぎないのである。

以上の事から、デカルトによる存在論的証明が成り立たない事が明らかとなる。なぜなら、無限という概念を必然的に内包すべき「完全」という概念が、あるいはその語自体が、形骸化したものに過ぎないということが、今や認められるからである。それは、何かを指示する(bedeuten)わけではなく、否定的且つ消極的に、つまり、何か欠けているところのものを想定し、「そのように不完全ではない」という仕方で、我々が十全的に知りえない、直接知覚することのできない何かを表しているに過ぎないのである。

であるとするならば、「完全で無限な存在者」であるところの神が、我々の内にあると考えることが、不可能であることは、もはや自明となる。我々は、「無限」も「完全」も知覚することは決してできない。なぜなら、我々の存在自体が、有限で不完全であるから。我々の内にみる神は、畢竟、不完全にならざるをえず、それは神の一側面であり、陽炎の如く揺らめき消え行く残像に過ぎない。

「完全」についての補足

以上のことから、デカルトの存在論的証明が誤謬であることが示された。しかし、存在論的証明が瓦解する原因となった、デカルトの「完全」という語に対する用語法的誤謬について、今一度、補足しておかねばならない。

『方法序説』を読む限りにおいて、彼は「完全」という概念を捉え損なっていると言わざるをえない。なぜなら、トートロジー(同語反復)ではあるものの、 「完全」という語は「完全」を指示するのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。にもかかわらず、彼は、上述したように、「…より多く完全であるものが、より少なく完全であるものから、これを作用因かつ全体因として、…」と述べている。完全の内に、「より多く完全」であったり、「より少なく完全」であることなどありえない。仮に、何かを付加しうる、より少ない完全性なるものがあったとしたら、それは最早完全などではない。というのも、それは当の完全が、欠けていることを認めることになるのだから。

無限に関する、数学的事実からの反論はどうか。つまり、無限に何を足しても無限、引いても無限という具合に、完全にも加えたり引いたりしても変わらぬ完全があるのではないかと。これは成り立たない。確かに、神における完全の概念は無限を内包するものの、それだけが完全を完全たらしめているわけではないからだ。

完全という語には、機能に対する意味合いが含まれている。機能とは閉鎖的なものだ。即ち、逆説的ではあるが、完全とはある意味において、閉鎖的なものなのだ。そして、ある物が完全に機能するためには、過不足なく働かなければならない。仮に、引いて完全であるというのなら、そもそも当の完全が余計なものを内包していたということになる。いわば、蛇足を含んでいたのだ。足して完全になるという場合は、当のものが未完、乃至不完全であったということに他ならない。従って、完全は閉鎖的な意味合いにおいて、過不足なく完全でなければならず、それ以上でもそれ以下でもあってはならない。即ち、デカルトが言うように、「より多く完全」であったり、「より少なく完全」であるような完全などありえないのである。

 

宇宙論的証明に対する反証

宇宙論的証明に対する反証の仕方も、自然神学的証明に対するのと似ている。自然神学的証明とは、概ね、「これほどまでに世界が精巧で、且つ、規則的にあるのは、神が創造したからに違いない」というものであった。精緻かつ規則性を有するという、このような世界観は、単なる人間の認識形式の1つの可能性に過ぎないということで、自然神学的証明を退けたわけだが、このような反証法は宇宙論的証明についてもあてはまる。

宇宙論的証明とは、「 因果律に従って、物事の原因を無際限に遡っていくと、宇宙(世界)についての究極的な原因があるはずだ。その究極的な根因が神である」という形式をとる。例えば、アリストテレスによる不動の動者の概念が、宇宙論的証明による神に近い。

物事の根因がなければ、無限後退に陥る。それは、真理を求める哲学者にとっては不都合だった。確かな真理を追求するのに、その真理が確固たる基盤としてのいかなる基礎をも持たねば、それは価値ある真理たりえない。蜃気楼のような、あるいは、根無し草のごとき真理は、彼らにとって、何の意味も価値もないのである。従って、無限後退は容認できるものではない。故に、理論的必然性に要請されて、認められたものが神となるのである。

もちろん、こうした世界観は、可能性の1つに過ぎない。原因があって結果が生じるという因果律も、何かに保証されているわけではないという意味で、決して確かなものとは言えない。それは科学の歴史を紐解いてみればわかる。科学的真理は、誤謬の連続であった。刷新される科学史観は、より正確な真理探求のための始まりに過ぎなかった。それは、世界の実在的な因果を、我々が捉え損なった可能性も否定はできないが、そもそもそのような規則、仕組みが存在しなかったという可能性もある。それは何によっても判定しえないだろう。

仮に、何か判定可能な基準があったとして、次はその基準に対する保証が求められることとなる。そして、それは絶えず繰り返され、無限後退へと陥っていくのである。となると、どこかで何かしらを無条件に受け入れざるをえない。結局、全ての始まりは信仰によらざるをえないのだ。

 


まとめ

既に詳述したように、神の存在証明を省みる際、「証明」という名を冠するにあたって、私はいわゆる道徳的証明を排した。その上で、3つ証明の不完全さを示した。自然神学的証明と宇宙論的証明においては、規則性や因果律における実在性の不確かさを、存在論的証明においては、人間の認識能力の限界からくる、実体の伴わない言語世界の空虚さの可能性を示すことによって。

もちろん、厳密な意味での完全な反証がなされたわけではない。完璧に為そうとするならば、因果律の矛盾や限界、或いは、言語と世界との関係について、より詳述せねばならないだろう。だが、それらを述べるには、余白が余りにも狭すぎる、とフェルマーの表現にも似た言葉をここでは申し添えておこう。ただ、論理というものが宿命的に負っている限界、つまり、規則性や因果律の実在性を述べることが論理自体ではできない、というより、無意味であり、何の力も持たないということは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の根本的な思想にも通底するところであり、看過できないのは事実である。

しかし、それが即ち、神の不在性を証明することにはならないし、個人的にも、神の存在を否定しようとする試みでないことは申し上げねばならない。救いとなる神は、人々の心にあるかもしれないし、何より、真の無神論者は、その無神論の最果てに、神の影をみることになるであろうから。

by    tetsu