事実と真実。一見似ているようですが、大きな違いがあります。間違った説明がなされていることもありますので、きちんとおさえておきましょう。
目次
事実と真実の一般的な意味
事実と真実の違いを知る前に、それぞれの意味と用例をおさえておきましょう。
事実の意味と用例
事実の意味
「事実」を辞書で調べると、次のように説明されています。
①本当にあった事柄。
②時間・空間内に見出される実在的な出来事または存在。
(『新村 出編 広辞苑 第二版』岩波書店)
日常的には、①の意味で用いられることがほとんどです。②は、やや哲学的な意味ですね。哲学者のウィトゲンシュタインに言わせると、「事実とは、世界を構成し、規定するところのものである(『論理哲学論考』1.1~1.2参照)」という意味になるでしょう。
いずれにしろ、 世界で実際にある、または起こっている事柄と捉えられます。
事実の用例
「公文書を偽造するということは、事実をねじ曲げることにほかならない」
「君が仕事で目まぐるしい成果をあげたということは、周知の事実だ」
「私が不正をはたらいたなどとは、事実無根だ」
「彼にリベートを支払うことで、私たちが蜜月関係にあったという既成事実を作り上げてしまおう」
「あの試合は、事実上の世界一を決める戦いと言えるだろう」
こうした用例を見れば、おわかりのように、「事実」という言葉は、客観的な事柄(誰が見ても、確かにそうだなぁと思われる事柄)を表す場合、あるいは客観性に重きを置く場合に用いられます。
真実の意味と用例
真実の意味
「真実」の意味は次のように説明されています。
①いつわりでないこと。ほんとう。まこと。
②絶対の真理。真如。
(『新村 出編 広辞苑 第二版』岩波書店)
(※注. 「真如」とは、仏教用語で「ものの真実の姿」を意味する言葉)
②の意味は、仏教的な意味で表されていますね。私たちが日常的に使うのは、①の意味でしょう。 嘘やいつわりのない事柄というのが、「真実」の意味と言えそうです。
少し紛らわしいのは、「事実」に記載されている①の意味の「本当に…」と、「真実」に記載されている①の意味の「ほんとう」という説明が、重複していることです。確かに、日常においても、ぱっと聞いた感じでは、事実も真実も似たような印象を受けますね。
しかし、「既にある、あるいは、起きた事柄」という意味での「本当」と、「いつわりがない」という意味での「ほんとう」は、意味合いは異なります。詳しくは、後述することにします。
真実の用例
「誤解を招いた一連の騒動について、真実を打ち明けよう」
「研究成果が世界的に認められたことで、ノーベル賞を取るという彼の夢物語が、真実味を帯びてきたぞ」
「真実を語ることが、必ずしも良い結果に繋がるとは限らない」
このような用例を見ればおわかりですが、「真実」という言葉を用いる際には、誤解や勘違いといった人々の解釈の問題が、しばしば付きまとうこととなります。そういう意味では、やや主観的な事柄とも言えそうですね。
事実と真実の違いについて
事実と真実の違い
言葉の用法的観点から
こうした事実と真実の意味を、あまり深く考えずに捉えると、事実と真実の違いは、単に客観的か主観的かという問題にあると思われるかもしれません。しかし、それはいささか本質を欠いた解釈と言わざるをえません。事実と真実の本質的な違いはそこにあるわけではないのです。では、両者の違いはどこにあるのか?それは用法です。
言葉について欠かせないのは、用法を考えることです。なぜなら、言葉が表す内実は、1つとは限らないからです。言葉には、主に2つの内実があります。それは、意味と意義です。
(※注. 意味と意義の違いについては、「言葉の意味と意義を考える」の記事を参考にして下さい)
簡単におさらいしておくと、「意味」とは、その言葉が指し示す対象(物事)を表します。一方、「意義」とは、その言葉が背景や文脈において持つ内容を表します。
例えば、明けの明星と宵の明星という言葉は、用いられる時間的な背景、文脈が違います。明けの明星は 朝方に見られる星を、宵の明星は 夕方に見られる星を表します(それぞれが「意義」)。しかし、これらは共に同じ金星という天体(対象)を表します(これが「意味」)。つまり、同じ意味を持つ言葉だからといって、同じ意義を持つとは限らないということです。
(※注. このような言葉の意味と意義についての捉え方は、フレーゲの“Über Sinn und Bedeutung”(1892)によります)
したがって、言葉を捉える時は、どのようにしてその言葉が用いられているのかに配慮する必要があります。
真実の意味と意義
それでは、話をもとに戻しましょう。まずは、真実の意味と意義について考えます。真実の意味は、すでに述べたような辞書的意味で構いません。「 いつわりのないほんとうのこと」という抽象的な概念を指し示すものです。問題は意義です。
意義とは、その言葉が用いられる背景や文脈によって規定される言葉の内実です。明けの明星や宵の明星が、時間的背景によって異なる意義を持つように、用いられ方によって異なります。
さて、真実という言葉は、どのような意義を持つか?それは、 真偽の判定に関わる事柄において、事実と一致するというものです。つまり、判断する側の人間の主観的な解釈によるものではないということ。コレがポイントです。「真偽を確かめる」なんて表現を使いますよね?「真である」ということは、 それが事実であると客観的に判断されることを表しているのです。つまり、言葉の意義を考えると、真実という言葉は、完全に主観的なものとして捉えることはできないということです。
事実と真実の違い
事実と真実の違いは、そこに客観的に判断することが難しい主観的な要素が含まれているかいないかというところにあります。その違いを整理するために、それぞれを表した記述で捉えると、わかりやすくなります。
事実とは、 世界で実際にある、または起こっている事柄のことでしたね。だから、それを表現するとき、 あるがままの世界の記述となります。「太陽は東から昇る」というように、世界、またはそのあり方と一致するわけですね。
かたや、真実を捉える場合、あるがままの世界を記述しただけでは、真実は表現できません。そこには、 主観的判断の入り込む余地が残されていなければならないのです。
「AがBの消しゴムをつかんで、持っていった」という記述を考えてみましょう。これは事実についての記述です。この文の内容が世界と一致していれば、事実として認定されるだけの話です。これを真実についての記述として捉えるのは、難しいでしょう。なぜなら、ここには、主観的な判断の入り込む余地が残されていないからです。しかし、次のような文の場合は、真実かどうかを問うことができます。
「AがBの消しゴムを盗むために(盗むつもりで)、持っていった」
この場合、盗むという観念的な行為に、当事者であるBの主観的な意識が入る余地があります。もちろん、盗むつもりで持っていったなら、この記述内容は真実ということになります。しかし、借りるつもりで持っていったとしたら、これは真実とは言えなくなります。
この記述には、「AがBの消しゴムを持っていった」という事実としての記述に、「盗むつもり」だったのか、「借りるつもり」だったのかという、完全には客観的に判断するのが困難な主観的要素が含まれていることがわかります。その判断に対して、事実と一致すれば、それは真実として判断されることになるのです。
事実として記述されたもののうち、真か偽かを問うことができるものに対してこそ、真実という言葉は用いられなければならないのです。こうしてみると、言葉の用法を考えることが、その言葉を知るという意味で、とても重要だということがよくわかりますね。
事実と真実の間違った用法
そうであるにもかかわらず、事実と真実の違いを述べる際に、本質的な違いを捉えずに、誤った使い方をしている事例があるので、それをみていくことにします。
事実の誤った解釈とその事例
事実とは、 ありのままの世界の記述(あるいは、記述できる事柄)です。ですから、当然、主観的な要素が含まれてはいけません。にもかかわらず、明らかにおかしな説明がなされていることがあります。
よくある間違いが、構造的な解釈の間違いです。主観的要素があるものを事実と捉えたり、事実の詳述を真実と捉えるような構造的な間違いであったり。
あるケースに関する説明があったので、それを例に考えてみましょう。
「AがBの命を奪った」というのは「事実」です。「Aは暴力を振るってくるBを避けようとしたところ、Bが足を滑らせて頭を打ち命を落とした」は「真実」です
これは完全に捉え損ねた事例でしょう。まず、〈「AがBの命を奪った」というのは「事実」です〉とありますが、これこそが真実かどうかを判定しうる記述なのです。
というのも、「奪うつもりがあった」なら真実でしょうが、「奪うつもりがなかった」のなら、それは真実ではないということになるからです。真実でない場合、それはこれは単なる虚偽、あるいは、誇張表現として片づけられます。
そして、〈「Aは暴力を振るってくるBを避けようとしたところ、Bが足を滑らせて頭を打ち命を落とした」は真実です〉とありますが、これこそが事実です。ありのままの出来事を表してますからね。もちろん、このような出来事がなかったのなら、それは事実ではありません。
要するに、事実のレベルで記述されるべき事柄と真実のレベルで記述されるべき事柄を取り違えた説明になっているわけです。
真実の誤った解釈とその事例
真実の解釈についても、誤った説明がなされていることがあります。確かに、真実は解釈という主観的な事柄を含みます。だからといって、 主観的な解釈と同じように、真実がいくつもありうると考えるのは大きな間違いです。
あたかも真実が、判断する人(主体)と同じ数だけありうるという類の説明がなされていることがありますが、それも間違いです。 事の真偽判定が事実と一致しているかどうかの判断である以上、真実は量産されてはならないのです。
例えば、校庭を掃除している少年がいたとします。彼は奉仕の精神で自ら掃除をしているのかもしれない。単に、清掃時間だから仕方なくしているのかも。あるいは、先生に叱られて、罰として、1人で掃除をさせられているのかもしれません。様々な解釈ができるでしょう。
こうした解釈がすべて真実だという意見を散見しますが、これはとんでもない間違いだと言わざるをえません。なぜなら、すべてが真実であるとすると、矛盾が生じるからです。
この少年が「自ら掃除をしている」ということと「先生に掃除をさせられている」という事態は両立しえません。「自主的に行う」ことと「強制されて、している」ことは、明らかに矛盾するのです。 物事の真偽において、実際にその物事が成立するためには、矛盾する事柄が共に真であってはならないのは自明の理です。
ここでのポイントは、掃除をしている(あるいは、させられている)少年が、どのような思いで行動しているのか(これが主観的要素)ということです。少年が自ら掃除をしていると意識しているならば、それが真実。させられているという意識でしているならば、それが真実となります。させられているにもかかわらず、「自主的にしている」と捉えるのは、真実なのではなく、単なる誤解や思い込みに過ぎないのです。
解釈の主観性の問題は、それを見ている人間の解釈なのではなく、行為にたずさわっている人間の解釈によるのです。それを取り違えてしまうと、真実は人の数だけあるという誤謬に陥ることになります。その根本的な原因は、実在的な世界の問題を独我論的な世界で捉えようとしているところにあるのですが、それはまたの機会にしましょう。
事実と真実の本当の意味
事実と真実の本当の意味を知るためには、2つの言葉の用法的観点、意味と意義の違いについて構造的におさえておく必要があります。
事実は、 世界で実際にある、または起こっている事柄、あるいは、 世界のありのままの記述内容です。そこに、事実として表される事柄を判断する主観的要素が含まれるとき、それが 事実と(つまり、世界と)一致するかどうかの真偽判定の1つの結果が真実なのです。
このように、よく似た言葉でも、その内容は大きく異なっていることがあります。その違いを知るためには、それらの言葉の用法、意味や意義をきちんと理解する必要があるのです。
それは何も言葉本来の内容に限った話ではありません。たとえ、ネガティブな言葉でも、使い方によってはポジティブに捉えられることがあります。それを理解するためにも、きちんと文脈をおさえることが重要になるのです。
by tetsu
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