多くの人が「One for All, All for One」といえば、ラグビーの精神論に由来する言葉で、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という意味だと捉えていると思います。
実は、私もそう思っていました。
しかし、本当の由来と意味は全く異なるものなんです。しかも、「One for All, All for One」というラグビーの精神論は日本限定のものだそうです。
というわけで、今回は「One for All, All for One」の本当の由来と意味について徹底解説します。そして最後に、この文に続けるべき言葉についてご紹介したいと思います。
・One for All, All for Oneの由来と本当の意味
・One for All, All for Oneに付け加えたい言葉
目次
本当の由来について
「One for All, All for One」といえば、ラグビーの精神論に由来すると思っている方がほとんどだと思います。しかし、本当は違います。
この言葉は、アレキサンドル・デュマ(フランスの作家)の小説「三銃士」の主人公ダルタニヤンと三銃士の誓いの言葉(1884年出版)として出てきています。
もっとさかのぼれば、ヨーロッパの30年戦争(1618~1648年)の発端となった「プラハ窓外投擲事件」における決起集会でもこの言葉が出てきています。もちろん、言語は英語ではありませんが…
したがって、「One for All, All for One」という言葉はラグビーの精神論に由来するわけではないと言えるわけです。ラグビーの原型の発祥は1823年と言われていますし。
しかも、意外なことに「One for All, All for One」がラグビーの精神論となっているのは日本だけです。
類語について
実は、日本語にも「One for all, All for one」に似た言葉があります。それは、石田三成の家紋という説もある「大一大万大吉」です。
この意味は、「万人が1人のために、1人が万人のために尽くせば、政治や国家は良くなる」というものです。考え方は非常によく似ています。
「One for all, All for one」というワードが生まれたのは1618年頃ですので、起源的には石田三成の「大一大万大吉」の方が早いと言えるかもしれません。石田三成が世に出たのが1574年と言われているので…
ですが、この種の格言はもっと昔からあると考えるのが妥当だと思います。そりゃ、昔から人は個人と集団という二つの側面を持って生きてきましたからね。
個人的には、文字が発明されるよりも前からある言葉ではないのかな?と思っています。
「One for All, All for One」の本当の意味
現在一般的に知られている「One for All, All for One」の意味は本来の意味とは異なります。
本当の意味は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」ではなく、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」です。
おそらく、英語→日本語への翻訳過程においてニュアンスに違いが生じてしまったのでしょう。同じ英文を訳しているだけなのに、全く意味が変わってしまうのは驚きです。
とはいえ、「One for All, All for One」は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」で間違いないのではと考える人も多いかと思います。
しかし、一般に知られている訳より「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」と訳したほうが「プラハ窓外投擲事件」・「ラグビーの精神論」を考えてみてもしっくりくるのです。
プラハ窓外投擲事件の場合
この事件を要約すると、宗教対立により迫害された民衆が支配者層に反乱を試みたという事件です。
その反乱側の決意表明文の中にラテン語で「Unus pro omnibus, omnes pro uno」というものがありました。もちろん、この文章の英訳は「One for All, All for One」です。
もし、「みんなは一人のために」と訳してしまうと、反乱民衆は「一人のために」行動するということになります。しっくりきませんよね?
反乱民衆は「支配層打倒という目的のために」行動しているはずですからね。
以上のことからも、「みんなは一人のために」よりも「みんなは一つの目的に」という訳のほうが妥当だと言えます。
ラグビーのチームワークの場合
ラグビーにかかわらず、スポーツは「勝利」を目指すものです。そして、アスリートはその勝利をつかむために日々の鍛錬に勤しんでいるわけです。
もちろん、ラグビーなどのチームスポーツの場合は、チームとして勝利目指すということになります。そして、メンバーはチームの勝利という目的のためにそれぞれが出来ることに全力を尽くします。
以上のことからも、「One for All, All for One」の「All for One」の部分はみんな(=メンバー)は一つの目的(=チームの勝利)と訳した方が良いと言えるのではないでしょうか?
その後に続く言葉
Mr.Childrenの「掌」という曲の歌詞に次のようなものがあります。
all for one for all but I am one
all for one for all but you are oneMr.Children「掌」より
この歌詞を意訳すると、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために、だけど僕は僕だ。一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために、だけど君は君だ。」となります。
これが、私が思う「One for All, All for One」の後に続けたい言葉です。
ビジネスであろうと、スポーツであろうと、1つの組織に意識を向けすぎると「自分の存在」と「組織における自分の存在」が同化してしまいます。
しかし、人間存在の悲劇性の記事にもあるように、自分の存在は常に「ゆらめいているもの」であり、所属する組織によって同じ人でもいくつもの顔を持ちます。
家庭においては、親として、配偶者として、子として…。仕事においては、上司として、部下として、顧客として…。スポーツクラブでは、キャプテンとして、エースとして、補欠として…。
人はなんらかの組織に属する以上、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」頑張ることになります。そのため、「その人の存在価値=チームへの貢献度」と考えてしまいます。
しかし、「その組織における自身の存在」と「自分の存在」は全く異なります。
例えば、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的に」という精神に則って、ベンチ入りの選手はレギュラーのために、練習の手伝いをします。だからといって、甲子園出場選手のほうが偉いわけではありません。出場できる選手もできない選手も同じ一人です。
会社の中における階級では、平社員より社長のほうが圧倒的に偉いですが、どちらも一人の人間であることに変わりはありません。甲子園に出場できない選手にも平社員にも家族や仲間がいて、家族や仲間にとってはかけがいのないOneなんです。
「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」頑張ることが大切なことは間違いありませんが、「みんなを構成する一人一人がそれぞれ誰かにとっての特別なOne」という目線も決して忘れてはならないと思います。
だから、僕は「One for All, All for One」の後に、「But, I am One / But, You are One」と続けるべきと考えるわけです。
まとめ
- 「One for All, All for One」の由来と類語
本当の由来はラグビーではなく、プラハ窓外投擲事件。日本語でも、石田家の家紋とされている「大一大万大吉」という似た言葉がある。 - 「One for All, All for One」の意味
本当の意味は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」ではなく、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」 - 「One for All, All for One」に続けるべき言葉
続けるべき言葉は「But, I am One / But, You are One」。その理由は、「みんなを構成する一人一人がそれぞれ誰かにとっての特別なOne」であるから。
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