不動の動者が不動である理由に対する反証可能性―運動・静止という概念を考える

始まり

年末になり、いつもより乗客の多い夜の電車から降りると、少し火照った顔に冬の涼気が心地よい。白い息を弾ませ、帰路に就く。冬日和の空の下では、もう太陽のぬくもりは届かない。夜になればことさら寒さは増すばかり。手袋をしていても寒気は指先を刺してくる。移りゆく季節に感じ入る。

もう今年も終わるのか…

あと数日もすれば新しい年が明け、年度末には新しい元号へと移ってゆくだろう。新しい時代が始まろうとしているのだ。澄み渡った星空の下でそんなことを考えていると、不思議な感覚に襲われたことがある。

いったい何が始まるというのか。

吐息の先に霞む月は細く欠けたまま。一斉に芽吹く花もなく、星は日々少しずつ位置を変えながら、今も荒れ果てた戦地や被災地の頭上を巡っている。こんな世の中で、いったい何が始まろうというのか?

新しい季節やなんかが始まると言うのなら、あらゆるものが日々始まりと終わりを迎えていると言える。始まりに埋め尽くされた世界の中では、「始まり」という言葉は本義を失う。世界は相も変わらず世界としてあり続けているに過ぎず、そこに人が「始まり」を見出そうとしているだけだ。だから、きっと何も始まりはしない。新しい年という極めて曖昧なもの以外は。

なぜ、始まりを求めるかはわからない。でも、人は本性(ほんせい)的に始まりを求める生き物なんだと思う。言葉で世界を分節化し、切り取った世界を認識する。切り取られた像には始まりと終わりがなければならない。そうでなければ、受け入れることができない。人は無限を「呑み込むこと」などできないから。そうして人は世界を理解しようとするのである。

 


不動の動者

第一原因としての不動の動者

世界の始まりに何があったか?ある者は神と言い、またある者はビッグバンと言う。呼び名こそ違えど、本質的には何ら変わりない。つまるところ、それらは世界の「始まり」というだけのこと。

古代ギリシアにアリストテレスという哲学者がいた。彼は、世界の始まりは「不動の動者」によってもたらされると考えた。

物事には何らかの原因がある。当然、あらゆるものの運動も例外ではない。当時、アカデミックな分野において、地球を中心として世界乃至宇宙が動いているという天動説が支配的だった(と考えられている)。そんな中で、天の運動は、第一の運動と考えられる円運動によって規則正しく地球の周りを回っている、とアリストテレスは考えた。あらゆるものに原因がある以上、この第一の運動にも、当然、原因がなければならない。つまり、究極的な第一の原因、「不動の動者」である。

すべての始まりとなる究極的な原因はあるはずだ。でなければ、無限後退に陥ることになる。あるものが成立しているのは○○だから、といった理由を遡り続けて辿り着くものが、究極的な原因であり、第一の原因なのである。このように考えなければ、世界は理解できなくなる。因果の鎖が無限の彼方に呑み込まれるなど、あってはならないことなのだ。

世界において、動いているあらゆる動者には、その運動を与える、原因となる別の動者が存在しなければならない。そして、その究極的な原因となる存在は不動でなければならない。というのも、もしその存在が動いているとするなら、その運動を与える別の動者の存在が要請されるからである。従って、第一原因としての動者は不動でなければならないのである(第一の動者が不動でなければならない理由は「現実態」という観点からも述べられるが、ここでは割愛させていただく)。

アリストテレスの考える始まりとしての不動の動者は、「神」という概念と同義的であった。彼のこのような考えは、神の存在証明を行った神学者トマス・アクィナスの思想及び著作に多大な影響を与えることとなる。

(アリストテレスの不動の動者の概念については、彼の著作『自然学』及び、『形而上学』参照)

 

不動の動者に対する反証可能性

究極的原因に対する反証可能性

何も創造主としての神の存在を否定しようとは思わない。神が存在し「ない」ことなど証明できるかどうかもわからないし、物事を考えるのに原因が必要である以上、始まりとしての原因を否定することには些かの抵抗を感じるからである(勿論、無限後退についての問題も大いにある)。

究極的な原因としての始まりがあろうがなかろうが、どちらでも構わない。あったとして、それが何であるかはわからない。だが、第一の原因としてアリストテレスが規定した不動の動者という概念には疑義を呈さざるをえない。

これから展開しようとしているのは、神などの究極的な第一の原因の存在に対する反証可能性ではない。譬え、アリストテレスが神という概念と同義的に扱っていたとしても、述べようとしているのはあくまで不動の動者という概念に対する反論である。

運動という概念

運動とは何か?字義通りに解釈すると、 ものが動くことであり、時間の経過とともに空間的位置を変えることである。しかし、もう少し意味を詰めて考えてみたい。

空間とは何か?空間自体について言うなら、「 対象にとっての存在の場」と言えるかもしれないが、それが私たちにとって何らかの意味を持つ場合、空間とは 諸対象の配置が示すところの相と捉えられるだろう。例えば、「店内の空間」とか「街の空間」と言う場合、それは何もない宙空の空間そのものを意味しているわけではない。店内であれば照明や絵画、テーブルなどのインテリアの、街であれば建物や道路、街灯などの配置が見た目として訴えかけるものを意味しているのである。

このように空間を捉えた場合、運動において重要となるのは、時間の経過と共に変わる空間的位置そのものではなく、空間における他の対象との相対的な位置の変化である。

例えば、何も基準となる他の対象が存在しない無限に広がる空間において、任意の点が別の(と表現することさえ最早無意味となるような)点に移動したとして、何か意味があるだろうか?何も違いはないという点において、無数にある点は、認識主体が恣意的に区別しない限り、同じものとして扱われなければならないのである。簡単に言えば、そんな空間においては何の区別もつかないのだから、どこも一緒だし、どの点も皆同じ、ということになる。従って、そんなところでは回転しようが直進しようが曲がろうが無意味だし、そもそも運動しているのかどうかさえ認識する側もわからない、と言える。

以上のように考えると、運動とは時間の経過と共に単に空間的位置を変えること、とはならない。その有意味性における本質を考慮すれば、運動とは 他の対象との空間的位置の変化であり、諸対象との空間的配置を変えることで、異なる相を表すこと、となるのである。

運動の相対性

運動の本質を空間的位置の相対的変化とすると、面白いことが言える。どちらが動いているかがわからない、ということだ。

例えば、何も目印のない空間に2つの点があるとする。

・ ・

それが、次のように変化したとしよう。

・   ・

この時、動いたのは果たしてどちらか?

右の点が動いたとも言えるし、左の点が動いたとも言えるだろう。あるいは、両方の点が動いたのかもしれないし、2つの点が動いたわけではなく、間にある空間自体が膨張したのかもしれない(勿論、空間が膨張しただけであっても点が動いたことには変わりないのだが)。重要なのは、何を基準にするかである。右の点を基準にすると左の点が動いたことになるし、左の点を基準にすると右の点が動いたことになる。または、2点の間を基準にすると、2つの点が両方動いたことになる。このように、視点をどこに固定するかによって、結論が変わるのである。

天動説?地動説?

以上のような運動の相対性は、天体の動きにも当然当てはまる。

ここで問題。天動説と地動説、正しいのはどっち?

答えは、どちらかわからない、である(あるいは、どちらとも正しいと言えるかもしれない)。勿論、教科書やなんかには地動説が正しいものとして説明されている。一般的な常識としてもそうだろう。だが、よくよく考えてみてほしい。地動説が正しいとされる根拠は?

合理的だから、と答える人が多いだろう。確かに合理的である。太陽やその他の星々が地球の周りを回っていると考えるよりも、地球が太陽の周りを回っていると考える方がシンプルでわかりやすく説明ができる。このシンプルさこそが科学的真理の信条なのである。

だが、複雑になっても構わないのであれば、導円や周転円などを用いて太陽系惑星の動きを、地球を中心とする視点から説明できないことはない。事実、サイモン・シンの『宇宙創成』にも書かれている(余談であるが、サイモン・シンの著作は非常にわかりやすく、興味をそそるように書かれているので、是非ともお勧めする)。シンプルさという合理のヴェールを取ってしまえば、天動説が間違いである、とは強ち言えなくなるのである。本当は地球以外の全ての天体が動いているだけなのかもしれないのだから。

静止について

さて、長々と運動についての話をさせていただいたわけだが、本題はここから。運動の対義的概念である静止について、である。言うまでもなく、運動が本質として相対的であるならば、その対となる静止もまた、相対的でなければならない。つまり、視点が固定された側の基本状態が静止なのである。

そう言うと、どこか逆説めいて聞こえる。それも尤もで、ある視点から動いていると認識される対象も、別の視点からは静止していると見なされうるのだから。

ならば、本義的な意味での静止、つまり、相対的ではない絶対静止などということがありえるのだろうか?

私たちにとって、静止とは極めて困難な行為(?)である。私たちは常に動いている。じっとパソコンの前に座っていても指や目をずっと動かしている。寝ている時でさえ眼球は動き、呼吸に胸は上下する。目を閉じて息を潜め、じっとしていようとも、微かな筋肉の震え、心臓の鼓動、血管の収縮と常に体は動き続けているのである。

生物にとって困難ならば、無生物にとってはどうか?陸地は人間には知覚できないほどゆっくりと動き続けている。海の水も川の水も流れ続けている。湖の水は、そこに住む生物によって動き、風によっても動かされる。そもそも動く地球の上にある時点で、地球と共に動いていると言える。つまり、静止などありえないということになる。

一つのものとそれ以外の対象との間に空間的配置の変化があるとするなら、それが動いているのか、それともそれ以外の全てのものが動いているのかが規定できない以上、絶対静止などということは言えなくなる。

つまり、静止とは、あらゆる対象の空間的配置に一切の変化がない時に認められる状態をいうのである。

第一の動者は不動なのか?

不動を静止と捉えるなら、第一の動者が不動であるとは言えなくなる。なぜなら、動いていると認められる諸対象が存在するから。

それでいて、第一の動者が不動であると言うのは、地上で逆立ちをして「地球を持ち上げている」と言うことと本質的には変わりない。地球に視点を合わせると、その行為者は逆立ちをしていると認識されるであろうし、その行為者に視点を合わせると、確かに地球を持ち上げていると認識されるであろう。

運動が諸対象の空間的配置の変化とみるならば、画一的にどちらが動いているとは断言できないのである。

もう一つ考えなければいけないことがある。それが存在者の本性(ほんせい)的状態である。なぜ、アリストテレスは存在する対象の本性的状態として、不動を考えたのか?

彼は全てのものは他のものによって動かされている、と考えていたわけだが、これは元々存在しているものが止まっていると考えていたから動かされていると言ったのであろう。つまり、諸対象は止まっているのが基本状態と考えていたわけだ。それはなぜか?

運動と静止(不動)という概念が、人が何かを認識する際に基準として用いる単なる形式に過ぎないとしたら?例えば、上下という概念と同様である。上下という概念は本質的に実在的なものではない。認識する主体にとって、視界の基準として形式上用いているだけであって、宇宙空間に漂っていればわかることだが、どちらが上でどちらが下かというような普遍的な規定はないし、実体的な状態でもない。重量の支配下において共通了解ではあるものの、上下という概念は認識する主体の側から恣意的に決めた形式に過ぎない。運動と静止という概念も、このように単なる形式に過ぎないのではないだろうか?

そう考えると、静止という実在的な状態などなく、運動という状態が、存在する対象の本性的な基本状態だとしたら、第一の動者が不動であるとは言えなくなるのである。

 


日々かけがえなく

神の存在を否定しようとは思わない。始まりがあったことを認めたくないわけじゃない。ただ、第一の動者が不動であるということに異論を唱えたいだけだ。理由は主に2つ。

・運動が相対的なものである以上、静止もまた相対的でなければならない。従って、第一の動者だけを静止している(不動である)とは言えなくなる。

・運動と静止という概念が、人間の認識形式に過ぎず、静止状態などなく、「動いている」と言われる状態こそが、存在する対象の本性的な基本状態である可能性がある。

この2つの可能性を否定しない限り、「不動の動者」は不動であるとは言えなくなるのだ。

こういった考えは全て幻想であるとさえ、僕は思っている。運動と静止も。始まりと終わりも。運動と静止という二項対立的に物事を捉え、始まりを規定することで世界を切り取り、理解しようとする。これがカミュの言う「明晰を求める願望が激しく鳴り響いてい」る状態なのだろう。だけど、そこには何もない。あるのは、ただ圧倒的な現実だけだ。

人間は観念的な生き物だ。それ故に、世界を彩ってみることもできるのだろうけど、またそれ故に、現実を蔑ろにするのだと思う。現実をありのままに受け入れることは難しい。ただ、始まりがあって、やがて終わりがくるのなら、かけがえのない日々をいかにして生き抜こうか。寒空の下で、そんなことをぼんやりと考える。南の空にシリウスが一際大きく輝いていた。

by    tetsu