テレビの「やらせ」という問題を哲学的に考えてみた

やらせ問題

最近ニュースを観ていると、某番組内でのやらせ問題が取り沙汰されている。僕はテレビをあまり観ないので、一般的な感覚とのズレが生じていることは否めない。だが、何がそれほど問題視されているのかがいまいちぴんとこないというのが正直な感想である。

テレビのやらせ問題というのは今に始まったことではない。ネットで検索しても簡単に、このての記事は見つかる。枚挙に暇がないほどだ。例えば、あるサイトでは「やらせ問題」とされる様々な問題が列挙されている。

「ほこ×たて」という2時間番組での『スナイパー軍団vsラジコン軍団』における問題。あるいは、「発掘!あるある大辞典Ⅱ」という番組での『納豆ダイエット』における問題。また、さらには「たけしの超常現象特番」における問題。例を挙げるとキリがない。

(https://matome.naver.jp/m/odai/2135001895562800301 参照)

真偽のほどは僕にはわからない。それにテレビの演出との線引きも容易ではないだろう。それでは何が問題とされているのか?今回のニュースとなった問題を振り返りながら考えてみたいと思う。

 


やらせ問題となった祭り

ことの発端は「世界の果てまでイッテQ!」というテレビ番組の5月20日放送分にて、ラオスにおける橋祭りなるものを紹介したことにあるらしい。

この祭りにおいて、ある芸人の方が現地人に交じって、祭に参加した様子を放映したようだが、どうやらこの祭りが現地の祭りではなく、テレビ局側が企画したものではないかという疑惑が浮上したことが問題なのだそうだ。

「ラオスの祭りでも文化でもない」と、ラオス政府関係者が祭りの存在を否定したと報道されていることからも、その内容が事実だとするなら、やらせではないかということらしい。

ラオス情報文化観光省の関係者が発したとされる、「“祭り”を紹介する企画だと事前に知っていたら、許可は出さなかった。なぜなら、このイベントは本当の祭りではないからだ」というコメントは「番組サイドで企画したり、セットなどを設置した事実はなく、ラオスの情報文化観光省には、番組の趣旨を十分に説明し、正式な手続きをへて、当局の許可をいただいた」とするテレビ局側の説明内容と食い違っているとみられている。

そうである以上、「橋祭り」が「ラオスの祭り」かどうかについて、テレビ局側の明確且つ簡潔な説明が求められるのは必至である。

 


祭りか文化か

この「橋祭り」なるものがラオスの文化でないのは間違いなさそうだ。ブリタニカ国際大百科辞典には以下のように記されている。

文化とは、「人間の知的洗練や精神的進歩とその成果」であり、「今日ではより広く,ある社会の成員が共有している行動様式や物質的側面を含めた生活様式をさす」ものだと、ブリタニカ国際大百科辞典では説明されている。

(https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96-128305 参照)

「精神的進歩とその成果」と書かれてあるということは、ある程度の時間的な流れを前提としていることは間違いない。つまり、この定義からすると、これまで一度も行われていなかったり、これから継続的に行われない単発のイベントなどは文化とは言わないということだ。しかし、これからある程度の頻度をもって毎年開催され続けるならば、文化として根付いていくていくことは否定できない。尤も、ラオス側の主張を鑑みるに、この「祭り」が文化として根付いていくとは考えにくいだろうが…

では、祭りとは言えるのだろうか?どうやらそうも言えなさそうである。

祭りとは、「神を迎え供献侍座して神と人とのつながりを深める宗教行事」であると、同じくブリタニカ国際大百科にはある。

例えば、収穫祭という祭りは以下のように記されている。

農作物の収穫にかかわる祭りや儀礼の総称。本格的な収穫期を前に少しの稲穂を刈って神に供える祭り…

「神に供える祭り」とは立派な宗教行事と言えそうだ。では、「橋に見立てた全長25メートルの板を自転車で渡り、そのスピードなどを競う」ということが、どのような宗教的意味合いを持つというのだろう?そこで、ラオスに見られる宗教的背景というものが呈示されない限りにおいては、やはり、「橋祭り」が祭りであるとも言い難くなる。

 


何が問題だったのか

やらせとは何か

ついでに、「やらせ」とは何かについても調べてみた。

「やらせ」とは、「マスコミにおいて,過度な演出や演技などによって虚偽を表現しているにもかかわらず,あたかも事実であるかのように見せること」と一般的には認識されているだろう。つまり、虚偽の事柄を事実として放映することがやらせを意味するということだが、今回の放送にやらせがあったのか?

少なくとも、「橋祭り」なるものが開催されたことは事実である。そういう意味ではやらせではない。ということは、それが祭りとして放送されたことが問題視されているのだろう。だとするなら、ここで「祭り」とは何か、を考える必要がある。

 

祭りとは何か

「祭り」が何であるかは、先程述べたように一種の宗教行事と考えられている。しかし、世の中で「祭り」として行われている行事のすべてが「宗教行事」として開催されるものだろうか?

祭りは英語で言うとフェスティバル。だが、例えば、「音楽フェスティバル」と銘打って行われる行事が全て何らかの宗教的意味合いを持っているだろうか?全てを詳細にわたって調べ上げたわけではないから確実なこととして述べることはできないが、どうも僕にはそうは思われない。宗教的意味合い云々ということで考えるなら、フェスティバルというより、寧ろ、イベントと表現する方が適切であるように思われる。

言葉は生き物とはよく言われることだが、僕もそう思う。この「祭り」という言葉もその例として考えられるのではないだろうか。確かに、伝統的な祭りというものは何らかの宗教的意味合いを持っていると捉えられるだろう。しかし、現代において行われる祭りという行事のすべてがそのような意味合いを持っているとは思えない。行事の宗教性が失われていくということは十分にありうるからである。

例えば、クリスマスという行事についてはどうか?もともと、クリスマスとはキリストの降誕を祝う祭りであった。しかし、現代の日本において、そのようなクリスマスの持つ宗教性が尊重されているとは到底思えない。子供にとってはサンタクロースがプレゼントをくれて、家でご馳走やケーキで祝う特別な日であろうし、カップルにとっては二人の絆を確かめ合う聖なる夜、という程度にしか認識されていないのではないか?(勿論、敬虔なクリスチャンにとっては原義通りの宗教行事であろう)

別に、その善悪を判断する気など毛頭もない。ただ、世の中で行われる祭りの宗教性が失われたものもある、ということが言いたいだけだ。本来ならば、単なるイベントととして執り行われる行事も、祭り、あるいはフェスティバルと銘打たれることで、「祭り」や「フェスティバル」という言葉の意味から宗教性が剥がれ落ちていったのではないだろうか。

 

問題点

そう考えると、今回の「やらせ問題」とされることの何が問題なのか、が見えにくくなってくる。「やらせ」という言葉が「虚偽の事柄を事実として放送すること」という意味であるならば、そこには「やらせ」の要素が見当たらない。

なぜなら

①「橋祭り」なる行事は行われた。

②「祭り」という言葉が世間一般で用いられているような、単に「イベント」を意味する言葉と同義的に用いられた。

と考えるならば、「橋祭り」はやらせとは言えなくなるからである。

勿論、テレビ局側が「祭り」という語をいかなる意味合いで用いたのかは確認する必要がある。それが宗教行事としての「祭り」を意味するなら、あるいは「橋祭り」をラオスの文化だとか伝統的な催しだと放送していたとしたら、やらせをしたとして断罪されるべきであろう。または、そのような直接的な表現がなくとも、ある種の誤解を視聴者に与えてしまったというなら、そこは反省すべき点だと言える。

だが、メディアというものは多かれ少なかれそういう性質を宿命的に負っているので、それほど取り立てて大騒ぎするほどのことでもないような気もするのである。

 


事実を哲学的に考える

世間の反応

ニュースでは様々な意見を紹介して、世間の反応を取り上げていたが、要約すると、大体次のようになる。

批判的な意見を述べる人たちは、「虚偽を事実と誤認させたこと」それ自体に対する批判を展開したり、「やらせによる日本やメディアの信用の失墜」を危惧しているようである。一方で、擁護派の人たちは「テレビという娯楽なんだから、面白ければある程度の演出は構わない」と考えているようだ。

驚くべき(?)ことに、批判側も擁護側も「橋祭りは事実ではなかった」という前提で各々の主張を展開しているようにみえる。擁護側に「橋祭りは事実としてあったんだ!」と主張している人は見受けられなかった。

(勿論、世の中のすべての意見を調べたわけではないが)

ならば、問題となっているのは「事実ではないこと」に対する賛否ということになる。冒頭において、僕が「いまいちぴんとこない」と表現したのは、まさにこの点に関してなのだ。

 

事実とは何か

「事実ではないこと」に対して何らかの主張をしていることに、僕は違和感を覚えている。なぜなら、彼ら(批判側、擁護側問わず)は事実というものが、あたかも誰にとってもそうであるかのように振る舞っているからだ。

人はどうして事実を事実として認識できるのか?視覚や聴覚といった五感を用いてか?あるいは、それ以外の直感力によってか?

胡蝶の夢の故事にあるように、人が「起きていて」現実にいるのか、蝶の夢を見ているかはわからない。確かに、今僕はこの文章を書いている現実を事実として認識しているが、ひょっとしたら、映画『マトリックス』の世界にいるのかもしれない。もし、そうなら僕が認識している「現実」は事実とは言えないということになる。

ヴィトゲンシュタウンという哲学者は思考の限界の線引きを試みた名著『論理哲学論考』において、成立している事態を事実ととして規定しているが、僕たちがどうして事実を事実として認識しているか、という認識論的な話はしていない。なぜか?わからないからである。

譬え、ラッセルのセンスデータをもってしても事実などはわからない、という他はない。更に、僕たちが事実をある種の直観(直感ではない)によって把捉するというなら、他者からの情報が事実判定に直接影響を及ぼさないということは言うまでもない。

「話が極端」だと言われるかもしれない。「君が言うのは真実であって、事実ではない」と。ならば、問う。真とされない事実にどれほどの価値があるというのか。虚偽でも良いと言うのなら、蜃気楼のような世界に生きることと何ら変わりないではないか。

事実とは何か?それは、確実には知りえないものである。

 

事実の意味

あることが「事実であるかないか」ということに、一体どれほどの意味があるというのだろう?こういったこと(「やらせ」等の報道における問題)が取り上げられる度に僕が抱く率直な感想である。

確かに、日常生活における情報の虚偽性は深刻な問題となりうる。例えば、薬の効能や服用方の記載に誤りがあるなら、命に関わる危険性がある。だが、自身の日常生活に直接の関わりがないことについて、それが事実ではないからといって、どれほどの問題が生じるというのか?

歴史的事実というものは、時代によって変わりうる。僕が学生の頃は鎌倉幕府の成立は1192年と教わった。しかし、今では1185年ということになっている。あるいは、足利尊氏や西郷隆盛本人を描いたものとされている肖像画が偽物だということが判明したという。

科学的な世界においても正しいとされる理論も変遷していく。天動説から地動説へ、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論へ。

科学理論などの抽象的な分野であれ、歴史という具体的な分野であれ、事実とされていたことは時代とともに変遷する傾向がある。そして、恐らく、そういったことはこれからも十分に起こりうることなのだ。だとすると、これまで事実に基づくとされていた知識が不確かなものの総体であることは否めない。果たして、そのようなものにどれほどの意味があるというのだろう…

 


情報との接し方

事実の確定は困難である。その上、自身の日常生活に直接的に関わる事柄でなければ、情報に虚偽性があっても実害は生じない。にもかかわらず、人が「事実であることに価値を見いだしている」というこの現実に、人の性(さが)を見た気がした。

地球が本当は丸くはなく、平べったいのかもしれない。アメリカの大統領はトランプではなく、別の人物かもしれない。ひょっとしたら、宇宙空間など存在しないのかもしれない。僕はわりかし本気でそう思ってる。なぜなら、自分で実際に確認し、事実認定したわけではないからだ。

勿論、地球が球形に近く、アメリカの大統領がトランプで、宇宙空間は存在していることは、恐らく事実であろうとは思っている。しかし、本当のところ、それらが事実であるかどうかはわからないし、どうでもいいとさえ思っている。

やや極端な話となってしまったが、とどのつまり、情報との接し方はこれくらいの距離感をもって臨んだ方が良いのではないかということだ。一般的な感覚で言うなら、新聞やテレビなどのメディアで「AがBをした」というニュースを見聞きしたら、それを事実として受け入れる人が多いのではないだろうか?特に、その情報を人に伝える際に、「『AがBをした』んだよ」と伝える傾向にあると、経験的に思う。

だが、僕の場合は違う。「AがBをした」という事柄を事実として受け止めるのではなく、あくまで「『AがBをした』ということをあるメディアが報じていた」としか言いたくないし、そのようにしか受け止めない。

今日のような情報社会では、様々な情報が玉石混交となっている。フェイクニュースが社会問題として取り上げられたことも記憶に新しい。だからこそ、悪質な情報に惑わされないためにも、このような情報に対する適度な精神的距離感が重要なのではないか。また、それがプロパガンダから身を守ることにも繋がるのだと思う。

by    tetsu