ノラ・ジョーンズとジョン・フルシアンテと桜井和寿と

ノラ・ジョーンズ

ああ、今日も1日が終わった。だが、18時を過ぎても沈まぬ太陽。林立するコンクリートのビルとアスファルトの照り返しで、外はすっかり溽暑の模様。数分ほどの夕立では、暑さを抑えることができず、逆に湿度を上げただけで、火に油を注ぐ結果となった。幼い頃の記憶に残る夏の夕景は、これほどの暑さを感じさせるものではなかった。温暖化が徐々に深刻化しているからなのか。落日の街並みには、涼の気配はない。

暑さと仕事で疲れた体を引きずりながら、電車の乗り継ぎのために都市の中心部へと向かう。不自然に冷えきった車内には、憔悴した顔がちらほら散見される。皆、この暑さにやられているのか。それとも仕事のストレスだろうか。車窓を過ぎゆく暗闇に浮かぶ自分の顔にも精彩はない。

ターミナルステーションへ到着すると、各車両が乗客を吐き出していく。降車客の足並みに合わせてゆらゆらと車体を揺らしていた列車が、疲れて眠るように動きをとめる。

都市に季節感はまるでない。ただ暑い日と、寒い日と、暑くもなく寒くもない日がだらだらと繋がってるだけだ。デデキントでも切断できない日常が。「有利」に働くこともなく、「無理」を押し付ける現実が押しつぶそうとしてくる日々は連綿と続いていく。

少し疲れたこんな日は、独りで静かにグラスを傾けながら、何も考えず、ただ落ち着いた空間に身を委ねていたい。そう思い、都心部から少し離れた場所にある、地下へ通じる階段をおりる。取っ手に手をかけると、重々しい音と共に、木製の扉が開いていく。

電車の車内とは違った、涼やかな空気が顔の表面を流れていく。何人かの先客が店内の空気に静かに溶け込んでいる。バーテンダーに促されて、カウンターの隅に腰を落ち着ける。ドライマティーニを注文する。

グラスを軽く傾けると、ほろ苦さが舌に広がる。一息つくと、ため息と共に1日の疲れが少し出て行ったように感じられた。葉巻の煙が漂う奥の方から、音色が聞こえる。ノラ・ジョーンズ。そう言えば、「ニューヨークのため息」なんて呼ばれてると、いつか友人が言っていたな。ニューヨークのため息と言えば、ヘレン・メリルの代名詞かと思っていたけど、ノラは二息目ってことかな。

ため息なんて言われれば、あまり誉められた気がしないもんだ。もちろん、「ため息が出るほどの美しさ」なんてポジティブな遣われ方もする。でも、実際、側でため息つかれると、あまり良い気はしない。

不思議なもんだ。それでも、ノラの声を聞くと、それが誉め言葉だとわかる。それだけ美しいってわけじゃなく、声の響きがそれほど優しいってことなんだろうなぁ。

 

ジョン・フルシアンテ

ジョン・フルシアンテ。Red Hot Chili Peppersの元ギタリストにして、世界現代三大ギタリストの内の一人。彼がRed Hot Chili Peppersに加入してから、『Stadium  Arcadium』以後に脱退するまで、ずっと聴いてた。ソロになってからも、かなり聴いていた。車のBGMは、常に『Shadows  Collide  with  People』。『Inside  of  Emptiness』を含む、2004年に立て続けに発表されたアルバムの幾つかは、今でもずっと聴き続けている。

Red Hot Chili Peppersを聴くきっかけになったのは、『Californication』の“Around  the   world”のイントロで、フリーのベースを聴いたことだった。それまでベースと言えば、バンド内でも「かなり地味な存在」程度にしか思ってなかった。花形はボーカルとギター。ドラムスはまとめ役。ベースは…?って感じで。

でもフリーは違った。それまでも、日本のバンドの黒夢のベーシスト、人時の音は存在感あってスゴいなぁなんて思ったりしたことはあったけど、フリーはこれまで自分が聴いたことのあるベーシストの中ではぶち抜けていた。まるで、異世界の住人だった。そう感じるほど、彼は圧倒的だったんだ。

自由なんだけど、確固とした基盤を曲に与えている。重厚にしてグルーヴィーなんだけど、ギター顔負けにメロディアスなサウンドを奏でる時もある。ほんと脱帽ものでした。

まあそんなフリーとバンドの双璧をなすギタリストってんだから、スゴくないわけがない。でも、18歳の頃からバンドに加入して、ロックスター街道をひた進んできた彼にも挫折があった。薬に溺れてしまったんだ。

ふつうならそれで終わる。コナンの映画シリーズで爆発シーンがあるように、天才的なミュージシャンてのは夭折するのが相場、みたくなっている。ポール・コゾフ、トミー・ボーリン、滝廉太郎、ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリクス、カート・コバーン、ジャニス・ジョプリン、シューベルト、ジョン・ボーナム、チャーリー・パーカー、ダニー・ハサウェイ、モーツァルト、エルビス・プレスリー、フレディ・マーキュリー、ナット・キング・コール…。残念ながら、才能ある者が若くしてこの世を去るという例には、枚挙に暇がない。

しかし、ジョンは違った。かつて、人生のどん底にいた彼は、愛用のギターを売り、住処も何もかも失い、文字通り、心身はボロボロの状態だった。でも、彼は帰ってきた。そして、またこれまで通り、いやこれまで以上のサウンドを奏でることとなった。

復帰直後の彼のプレースタイルは、かなり変わっていた。おおよそ2年にも及ぶブランクがあるのだから、当然と言えば当然かもしれないが、これまでのテクニカルなプレースタイルは鳴りを潜め、実にエモーショナルなサウンドを奏でるようになっていた。音楽をやっていた知人曰わく、「復帰後のジョンのギターは、欲しいところで欲しい音を持ってくる」のだとか。“Californication”や“Scar  Tissue”を聴けば、その特徴がよくわかる。そんな彼の奏でるサウンドは、「枯れたギター」や「枯れた音色」などと形容されることが多い。

普通、「枯れた」などと言われれば、ネガティブな意味で捉えられることが多いのではないだろうか。一昔前に、高齢者運転手のマークが「枯れ葉マーク」と言われ、改定されたのは記憶に新しい。しかし、ジョンについては、そうではない。形容する方も、リスペクトの念を込めているし、実際に彼の奏でる音色を聴けば、その様に形容することが言いえて妙だということがよくわかる。

復帰後の彼のソロ作品を聴いても感じられることだが、哀愁漂う、そして時にエネルギッシュな旋律は、燃えるような紅葉の美しさに喩えられるのが相応しい。「才能溢れる旋律」と「枯れた」という一見相反する2つの言葉が、見事にアウフヘーベンしていると言えるだろう。

 

桜井和寿

桜井和寿については、これまでも幾度となく取り上げてきたから、詳細は割愛させていただくとしよう。Mr.Childrenの『Atomic  Heart』から『SENSE』までの素晴らしさは、もはや言うまでもない。メロディーセンスもさることながら、何といっても桜井和寿の歌詞の秀逸さには脱帽させられる。

『深海』から『DISCOVERY』発表まで、恐らく私生活においても呻吟してきた彼だが、ポジティブに生を捉えていこうとする姿勢は、音楽性に表れている。〈言葉狩り〉の記事でも書いたが、「しるし」に書かれた、本来ネガティブな「どうせ」という言葉のポジティブな用法には、ハッとさせられた。やはり、ネガティブな事よりも、ポジティブな事の方が、見聞きしていて気持ちが良いもんだ。

桜井和寿については、ノラやジョンのように、プレースタイルにおけるニックネームのようなものはないが(あったらゴメンナサイ)、ネガティブなものをポジティブなものへと変えてしまったという点では、共通していると言えるかもしれない。

物事は捉える視点によって、様々な表情を見せるのだなと、改めて感じさせられる。彼らの作品に触れていると、僕のようにちっぽけでくだらない存在でも、何かと使い道があるのかもしれない、なんて救われる気がするんだ。

 

by    tetsu