足立美術館―借景を特徴とする日本庭園を見て思うこと

旅行

足立美術館へ

つい一年前かな。足立美術館の庭園が、日本一美しいとも言われているようなので、是非とも見たいという衝動に駆られて、島根県まで行ってきた。島根って言っても、静岡みたく東西に長いから、関西からなら下手すりゃ6~7時間くらいかかるんじゃないかなんて心配してたけど、かなり東に位置してたので、それほどかからなくて済んだ。

元々、枯山水や借景に興味があったので、日本一ならば、ということで足を運んだわけだ。八百万の神の国、出雲にも興味はあったし、全部まとめて見てみようというわけで、車で行ってきました。

しかし、神の国とはよく言ったもので、神話的な雰囲気が山林のあちらこちらに漂っている。雨後というわけでもないのに、靄や霧が山峡に立ちこめている。この地方独特のものかはわからないが、圧倒的な存在感を放つ自然が、沈黙を守る「ナニモノか」を潜ませているかのような雰囲気である。

そんなことを考えていると、空から周りを睥睨するかのような光が。神が降臨するんじゃないかってその時は本気で思った。

夏の日差しに煌めく青田の眩しさはどこへやら。この荘厳なる雰囲気は神話の国のなせるわざか。心地よい風に誘われて周囲をぶらついてみる。何の施設かはわからないけれど、日本家屋がひっそりと建っている。

白鷺が一羽青田に降り立つ。羽を休めるためか餌を見つけるためか。しばらくすると、再び飛び立つ。山々の稜線に沿うように遠ざかる。やがて、点となり、見えなくなるまで僕の視線は釘付けになっていた。

田園風景に白鷺という素朴な美しさに、僕は魅入っていた。そういえば、「白鳥ロード」と名付けられたら道を通ってきたことを思い出した。近くには「さぎの湯温泉」なるものもあるらしい。察するに、ああいった白い鳥たちの有名な生息域なのかもしれない。

 


借景を特徴とする日本庭園

借景とは、造園技法の一つ。庭園外の風景を、庭園の景観の一部として、取り入れたもので、修学院離宮なども有名。

なるほど、これが借景か。足立美術館に入ると、絵の鑑賞もそこそこに、日本庭園の前へとやってきた。確かに、庭園の景色は、奥の風景が見事に取り込まれている。どこからが人工物としての庭園で、どこからが自然なのかわからない。人工的な部分と自然との明確な境界線が認識できない。明確な境界線に対する曖昧模糊とした意識は日本に特有の意識なのかもしれない(中国の庭園にも共通するみたいなので、東洋的といった方がいいかもしれないけど)。

日本家屋では部屋を仕切る時、衝立や襖を用いることがある。それは部屋と部屋との境界線としての役割を果たすが、取り外し可能という意味において、非常に柔軟な境界線だと言える。

区切られたその空間は個室としての機能を有するが、一度それを取っ払うことによって、例えば、宴会場などに容易に様変わりする。同じ空間であるはずなのに、異なる機能性を与えられた異空間へと変容するかのように。それを可能ならしめるのは、ある程度恣意的に決定可能な空間意識であり、それを体現することのできる衝立や襖といった建具なのではないだろうか。なるほど、確かに借景という庭園の技法もそのような柔軟な空間意識のなせる技なのかもしれない。

西洋の庭園といって思い浮かべるのは、整然と区画化された植え込みや花壇。噴水や建物の幾何学的に対称的な配置。それらは自然を対象化し、人工的に加工した結果であろう。そこには、克服し、征服さえする対象として捉えようとする自然への意識があるように思われる。

それに対して、日本庭園は異なる様相を呈する。確かに、人工的に加工する部分はあるものの、自然は決して征服する対象などではない。御しきれないからこそ、人工的なものの内部にではなく、外部にそれを置き、あくまで「借りる」にとどめるのである。

人間はあくまで自然の一部であり、自然を人間の手の中に閉じこめることなどできはしない。そういう自然観が僕は好きだ。アンチテーゼであったとしても、科学がそのような自然観に基づいたものであったなら、レイチェル・カーソンの言う「沈黙の春」は訪れなかったのかもしれない。

 


日本庭園の裏側へ

庭園側の裏には小さな川(というか用水路というか)が流れている。風雨に晒され、錆びた柵に荒れ放題の雑草。庭園を鑑賞する側からは、それらが松などの木々によってうまい具合に隠されていたんだ。そして、山側は…

ガードレール、電柱に電線、古びたバス停。おまけにこの道路、とぎれる間もないくらいに車が走っている…

山や滝だけを遠景として利用している。その手法は見事というほかはない。空間的奥行きを感じる庭園の眺めの裏側に、まさかこんなにも生活臭漂う風景が隠されていたとは…。見えるとこだけ綺麗ならば良いのか、とは思わず、寧ろこんな風景を一枚の絵画のように切り取ったことに、不思議と尊敬の念を覚えまた。

 


物事の見え方、現れ方

この貴重な経験を経て、物事は見る角度や位置によって本当に違った顔を見せるんだなって今更ながら痛感した。僕たちが何か物事を見る場合、当然のことながら、その視点は固定されがちだ。なぜなら、物事を見る観察者はある空間の一点に位置していなければならないからだ。従って、観察される物事は決まった角度から眺められることになる。その結果、観察者か、或いは観察される対象が動かなければ、その対象の見え方は一面的になる。だけど、物事は通常色んな面を持っている。

大学で学べた数少ない教養の中に「フランクルの次元人間学」というものがある。人間の表象として現れる事柄は、譬え同じであっても、異なる精神的な原因がある、というものだ。逆もまた然り。異なる表象であったとしても、同じ精神的な原因による場合がある。

例えば、幾つかの立体を考えてみよう。球、円柱、円錐があるとする。それぞれ上から光を当てると下の平面には円い影を落とすだろう。このように、高次のもの(この場合は三次元の立体)を原因として、より低次のもの(この場合は二次元の平面)に表象として現れる場合、異なる原因であっても(球、円柱、円錐は異なるもの)、現れ方が同じになることがある(3つの立体の影は円いという意味で同じ)。

逆もまた然り。同じ四角錐という立体であっても、その影は、上から当てると下には四角形に、横から当てると、横の平面には三角形に映る。

このように、精神を人間におけるより高次のものと捉えると、その現れ方は様々だということだ。同じ原因であっても同じ現れ方をするとは限らないし、異なる原因であっても、異なる現れ方をするとは限らない。

つまり、これと似たような話で、物事というものは捉える角度によっては様々な様相を呈するものなのだと思う。そして、その角度は物事を捉える観察者と対象との相対的な位置関係によって決まるのである。

人間だっていろんな面を持っている。普段は理不尽極まりないジャイアンだって映画の中じゃ友情に厚い良いやつになる。環境についても、そう。同じ雨でも水害などの起きた地域にとっては冷たい雨。でも、乾燥地帯や干魃の地域にとっては恵みの雨。

置かれた環境や状況、あるいは位置関係によって、物事は色んな顔を見せる。だから、変わらない日常にうんざりした時、何かに行き詰まった時なんかは様々な物事との位置関係を見直してみよう。たった一歩動くだけで全く違った景色が見えるかもしれないしね。でも、危険な一歩は踏み出さないでね。

 

by    tetsu