生きる意味について

エッセイ

病気になって思ったこと

 
なんで自分がこんなに苦しまなきゃいけないのか?

それがまず思ったこと。理不尽に思われることに遭遇すると、大体理由を訊くよね。訊いたからって状況が変わるわけでもないのに。まあ納得したら落ち着くってこともあるし…そう考えるとやっぱり人間て理性的な生き物なんだなって思う。

確かに、何事に関しても、再発防止って観点からは原因を突き止めるってことは大切なのかもしれない。でもね、自力ではどうしようもないことについて、あれこれ考えたって仕方ないんじゃないかな。

事実に原因を求めるのは無意味だ。寧ろ、その事実そのものが何かの原因となるだけである。

なんて最近では考えるようになった。旅行中に雨が降るからって「何で雨なんか降るんだ!?」なんて怒ってみたって仕方がない。事実、雨が降る(あるいは降っている)んだから、それを事実として受け入れて、「雨だから○○しよう」って考えた方がよっぽど生産的。だったら、病気のことも一緒。「何で自分が病気なんかにならなきゃいけないんだ!?」とか、「どうしてこんな体に生まれてきたんだ!?」なんて考えるよりも、「病気になった」という事実を受け入れて、「病気になったからこうしよう」って考えた方が良いと思うんだよね。
 

苦しみの日々

地獄のような日々でした。そんな喩えをすると仏さんに叱られるやもしれませんが、まあしんどかったですね。まず満足に呼吸がでない。後々、病院で検査した結果、通常の呼吸値の10分の1程だった。例えば、吸って吐くという行為を3秒で行うとしよう。てことは、27秒息を止めて一呼吸する。それを日夜一週間ほど繰り返す。そんな生活を強いられるということになる。すると、呼吸が満足にできないもんだから、上半身の筋肉が何としてでも呼吸しようと変に力が入りっぱなしになる。緊張と酷使と酸素不足で首・肩・胸部・背部の筋肉がずっと激痛を走らせる。激しい頭痛を伴って。
 
発作が始まると変な汗が出てくる。30℃を越えた部屋の中で息も絶え絶え、意識は朦朧。ただ耐えるしかない。
当然、何も喉を通らない。無理矢理通しても全部リバース。無駄に体力使うだけ。最初の方は飢えや渇きを覚えた。でも、2日ほど経つとそんな感覚はなくなる。ただただ苦痛を取り除いて欲しい。それだけを思う。3日も経てば感覚は鈍くなる。苦痛に身体が慣れてしまったのだろう。このあたりになると最早どんな物も欲しなくなる。ただ半開きの眼がぼやけた視界を映すだけ。

でも、一番辛かったのは、楽な姿勢というものがない、ということ。風邪を引けば寝てればいい。立つのに疲れたら座ればいい。だけど、この時は楽になれる姿勢がない。寝れば、圧迫感から呼吸ができない。だから、座ろうとするけど、身体が痛みに悲鳴をあげる。呼吸が比較的楽になるのは狛犬みたいに手を突いて、下を向くこと。でも、そんな姿勢が長く続けられるわけもない。重い頭部を支えるために首や肩は軋み、限界を超える。

 

命の終わりを覚悟した

大袈裟かもしれないけど、命の終わりを覚悟した瞬間がある。ある時、発作が始まり、この時ばかりは一切呼吸ができなくなった。
洗面台の前に立ち、鏡に映る顔を、瞳を凝視する。粘つく汗は上半身を覆い、紫色の唇に最早感覚はない。

息苦しさが生を分かつ分水嶺を越えて、一切の苦痛がなくなった。と、同時に下腹部(丹田あたり)がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。そこで、ふと脳裏をよぎった。

ああ…このまま終わるのかな。
 
不思議と恐怖はなかった。信じられなかった。命の終わりはずっと怖いものだとばかり思っていたから。いつか見たロバート・バートンの言葉を思い出す。今ではそういうことだったのかなって思う。抗うことができる時には、終焉の影に怯える。でも、その指先に触れられて、本当にどうしようもないって気づいた瞬間、幻想的な恐怖は霧散する。
 
ただ、圧倒的な現実としての終わりを待つだけの静寂が訪れる。

やがて、少しだけ呼吸ができるようになる。すると、また苦痛が蘇ってくる。まるで、自分の命が誰かに弄ばれてるんじゃないかとさえ思える。

 

生きる意味

こんな経験をしてると、色んなことを考えるようになる。特に、次のような問題について。

 
自分が生きる意味とは何か?
 

自分は何のために生きているのだろう?

 

ええ、凡そ思春期真っ只中の青少年が取り憑かれそうな問題でございます。でも真剣に考えちゃうの。同じようなこと考えてる人、他にもいると思うんだ。そして、その答えはきっと千差万別。だから、以下に記すのはあくまで僕個人の経験から導き出した答えであり、こんな風に考える奴もいるのかぁ、ってな感じで気楽にご覧ください。結論から言います。

 
別に生きる意味もなければ、何かのために生きているわけでもない。
 

こういった経験から感じたのは、生きることが全てなんだなってこと。これまでは何かのために生きるって曖昧ながらも思ってた。でも、そうじゃないって思えるようになった。

苦痛の泥沼にはまってた時に感じたのは食欲でも睡眠欲でもない。生きたいという欲求だけ。ただ生きることを欲し、自分の存在を願うだけだった。生きるってのは何かのための手段なんかじゃない。生きるために食べ、生きるために飲み、生きるために眠り、生きるために愛する。歌うことも笑うことも学ぶことも遊ぶことも踊ることも悲しむことも。全ては生きるための営み。少なくとも僕にとっては。生きるってことは何かの手段ではなく、それ自体が目的なんだ。そう思えるようになった。

意味だってそう。大切なのは意味なんかじゃない。生きること。実在的な意味なんて存在しないと僕は思ってる。誰にとっても同じだっていう、客観的な意味なんてどこにあるだろう。意味は与えるものであり、見出すものだ。生きるために様々なものについての意味を探せればいいや。そう思ってる。

勿論、そんな考えに異を唱える人はいるだろう。それも当然で、結局、人は自分の経験からしか得心する答えを導き出すことができないからだ。
僕はこんな地獄のような経験から、自分が生き物である以上、生きることが第一義的なんだと感じた。他の物は生きるためにあるに過ぎない。だからこそ、当たり前にある日常が何よりも有り難く感じられる。
あるようにあるあるがままにしかありえない。そう考えると、以前ほど何かに執着することはなくなった。どうせ命が終わればすべて無に帰するわけで。そうすると、心も体も何だか軽くなったように感じられた。

地獄ってのは、転生する可能性の最も高いところだって何かの文章で読んだ記憶がある。ひょっとしたら、自分は現世の地獄の中で生まれ変われたのかもしれない。そんなことを思いながら、冷たいグラスを独り傾ける。

by tetsu