幸せの不思議さについて

やわらかい哲学

幸せとは何か?

幸せとは何か?時として、脳裏をよぎることがある。誰もが一度は考えたことのある問いじゃないかな。少なからず、幸福を得るために生を送る人はいるだろう。意識的にであれ、無意識的にであれ。

別に、不幸のどん底にいるというわけでもない。誰かを羨むということも。世間的にはどうかはわからないが、今は幸せな生活を送られていると思う。それでも、いや、だからこそか、そんな問いがふと浮かんでくるんだ。

10代から20代前半にかけては、こうした人間における根元的(と思われる)問題について、よく考えたものだ。もちろん、こうした哲学的な問いに答えが出るとは限らない。それでも、考えた。暗闇を手探りするような覚束なさで、観念の海を泳いだ。

思考のきっかけを探して、色んな本を繙いてもみた。ラッセル、アラン、ショーペンハウエル…様々な哲学者の思想に触れても尚、私の求めていた何かを掴むことはできなかった。心は渇いていた。ずっと。そうあって欲しいと望む「何か」が見つからないから渇いていたのか、探していた「何か」が見つからないから渇いていたのか。観念の世界にいて、自分が何を求めていたのかさえ、時として、わからなくなっていった。

不思議なことに、誰かの考えに触れれば触れるほど、渇きは増していった。海で泳ぐと、喉が渇くように。思考の大洋に呑み込まれそうになりながら、辛うじて消え入りそうな自我を保ちながら、心が満たされることはなかった。

それでも、幸福でなかったというわけではない。そんな渇いていた状態であっても、きっと私は幸福であったに違いない。非生産的ともとれる「遊び」に興じていられたのだから。生活がいっぱいいっぱいであったのなら、そんな余裕はなかったはずだ。そうした幸福な状態にあって、それでも幸福を求めてしまう。私にとっての幸福とはどんなものだろう?

心の平安を保っていられることか?それでは、毎日が休日である時のように、きっと精神がダレてしまう。喜びも悲しみも含めて、様々な感情の起伏を味わうことか?それが幸せと言えるのは、「終わりよければすべてよし」となった時ばかりで、ネガティブな精神状態で終わりを迎える場合、そんなことはとても言えそうにない。愛する者のぬくもりを感じていることか?充実感をもって、何かに打ち込んでいられることか?そんなことを考えていると、すべてが幸せにも思えてくるし、すべてがそうでもないようにも思えてくる。人生経験を積むにつれて、幸福という観念がゲシュタルト崩壊を起こしていく気がする。

「幸せとは何か?」このシンプルな難問が私を悩ませるのは、それが確かに存在するのにも関わらず、確かに存在するとは言えないところにある。自家撞着に陥っているようだが、決してそういうわけではない。そこが、幸せの不思議なところである。

 


幸せの不思議さ

幸せな時間が訪れようとしている時、胸は高まる。家に帰れば、優しいキャンドルの灯りの中で、Miles Davis を聴きながら、葉巻を片手にグラスを傾ける。帰途につきながら、その瞬間を想像すると、自然と足が速まる。日本の原風景を眺めながら、美味しいお茶を飲むのも良い。幸福な瞬間を前に、浮き立つ心を抑えきれない

そして、幸せの時が訪れる。ささやかではあるけれど、生きていて良かったと思える瞬間を迎える。しかし、ある時を境に、その幸福感は、得体の知れぬ恐怖によって、取って代わられる。初めは、ほんの一滴の不安に過ぎない。でも、それが心の水面を揺らすと、たちまち浸食していく。よほどの覚悟がなければ、逃れることはできない。

濃度は人によってまちまちかもしれない。それでも、やはり、得体の知れない影は、心を覆っていく。やがて、心は覆い尽くされ、その影が剥がれることはない。幸福の中にあって、私たちは幸福を見失う。そして、やわらかな絶望の中で、幸福の時は終わりを迎えるのである。

幸福の時の終わりを知るということは、幸福感の終わりを意味する。その終わりへの予感が、幸福感に取って代わると言う方が正しいのかもしれない。それは、無情にも、私たちが幸せの真っ只中にいる時に訪れるのである。そこにこそ、幸せの不思議さがある。

休日の前日は、楽しいものだ。休日という幸せが訪れる期待の中で、時を過ごすことができるから。逆に、休日の夕方は、少し憂鬱な時を過ごすことになる。楽しい、幸せな時間が終わりを告げようとしているから。その時点では、まだ、終わりを迎えているわけではないのに。

人は想像する生き物だ。だから、現実との間にギャップが生じる。始まったわけでもないのに、まるで始まっているかのような、あるいは、終わったわけでもないのに、まるで終わったかのような錯覚に陥る。そうすると、幸せの時が、どこにあるのか、とは一概には言えなくなる。確実に訪れる幸せを待つ時間の中に、人々が幸福を見出すならば、同じように、確実に訪れる終わりの前には、幸福は逃げ出しているのだから。

幸せとは、ある意味で、無理数に似ている。「3.14159265358979…」と、どれほど数を無際限に書き加えようとも、円周率には届かない。譬え、この世界を埋め尽くすほどの数を、小数点以下に続けても、決して、円周率には至らない。実数直線上に確かにあるはずの「π」に辿り着くことはできないのだ。

そこにあるはずのものに、実体としての本質がない。確かに、そこになければならないもののはずなのに。そう考えるのは、単なる錯覚に過ぎないのかもしれないけれども。幸せとは、心の外にあるものか?心の中にあるものか?心の中にあるとするなら、それはある種の、ポジティブな意味での幻想なのかもしれないね。

最後に、スヌーピーの名言より。

「幸せとは、あなたが愛した誰かであり、あなたが愛した何かなんだよ」

譬え、それが失われることになろうとも、そんなことばかり心配して、肝心の幸福から目を背けても、どうにもならないよね。

by    tetsu