「わかってくれない」と言う人が、なぜわかってもらえないかを哲学的に考えてみた

どうも。「ほとんどの人にわかってもらえない人間」日本代表のtetsuです。オリンピックの正式種目にあれば、代表どころか、下手すればメダル獲得は無理としても、入賞くらい簡単にやってのけられそうな気がしてやみません。

ゴミをポイ捨てしないとか、電車で老人に席を譲るとか、人としての常識は一通り身につけてはいるつもりですが、どうやら感覚が世間とはズレているそうで。どれくらいズレているのかと言うと、プレートテクトニクスにおいて、北アメリカプレートと太平洋プレートとフィリピン海プレートくらいズレまくってます。おかげで地震ならぬ自信はグラつきっぱなし。最近ではあまり気にならなくなってしまいましたが、過去を振り返れば、彼女、友人、後輩にまで、挙げ句の果てには生徒ちゃんに怒られることもしばしばありました。

まあ、怒られると言っても、感情的に怒鳴られたり、説教くらったりすることはそれほどありませんでしたが、笑いを交えて弄られる程度のことはしょっちゅうありました。今回は、「わかってくれない」と言う人が、どうしてわかってもらえないのかをテーマにしたいと思います。

 


「わかってくれない」と言う人

世の中には、「わかってくれない」と嘆く人が星の数ほどいます。実際、僕も言われた事があります。「どうしてわかってくれないの!?」と。そのほとんどは当時つき合ってた彼女からでしたが。しかし、同時に、僕自身がそれ以上にわかってもらえないことが多かったので、お互い様だったんじゃないかと。

いや、身近な人間に言わせれば、それは変わってるという僕の人間性のせいらしいのですが、事実がどうであるかなど所詮人間には知りえないという不可知論の立場から公平に物事を捉えると、一方的にそう言われるのはいかがなものかと思われるので、責任の所在がどうのとか、そんな話はなしにしましょうや。

まあ、こんな物言いからも、僕が「わかってもらえない」人間であることの片鱗が十分に伺い知れるのかもしれませんが、ここは一つ、どれくらい僕が「わかってもらえない」のかというエピソードでもお話しましょう。興味のない方は次の項目まですっ飛ばしていただいても構いません。

同時つき合ってた彼女に言われました。「アナタの誕生日だからお祝いしましょうよ」って。僕は返すわけです。「気持ちは心底嬉しいが、なぜ祝う?」と。当然返ってくるわけです。「いや、誕生日だからっつってんじゃん」と。これは異なことを、と思うわけです。そして、返します。「誕生日ではないが?」と。大抵相手は驚きます。「え?誕生日6月×日っつってなかったっけ?」なんて言いながら。だから、言います。「6月×日という日付だけを見れば、確かに誕生日と同じ日付だが」てなことを。このあたりから相手の困惑した様子が伝わってきます。「ん?てことはやっぱり誕生日なんだよね?」なんてことを呟きながら。「まあ一般的にはそういうことになるかな」なんて言うと、相手の頭の周りに無数の?マークが飛び交います。すると、「だったら合ってんじゃん。なにこのやり取り」なんて言葉を発します。

さて、ここからが「わかってもらえない」最大の山場が訪れます。

「確かに、6月×日というのは、誕生日と同じ日付だ。しかし、僕が生まれたのは19XX年の6月×日であって、20XX年の6月×日ではないのだよ。従って、正確には、今訪れている6月×日は僕の誕生日とは言えない…Q.E.D.」

言い切らない内に、お祝いモードだった彼女の顔からは、すっかり笑みが消えています。そりゃもう見事に。今確かに目に前にあったものが、ここまで跡形もなく消え去るのかってくらい、鮮やかに。前田知洋もきっとびっくり。怪盗キッドもきっとびっくり。

ムダに韻を踏む前に、彼女という虎の尾を踏んづけたみたいで。徐にバースデーケーキの蝋燭に火を点けて、「黙って火ぃ消せや」。真顔でそう言う彼女を前に、そりゃ見事に吹き消しました、一息で。「おめでとー」。ここまで棒読みの「おめでとう」を僕はかつて聞いたことがありませんでした。

いかがでしたでしょうか?楽しんでいただけましたか?楽しんではいただけても、おわかりいただけてはいないという根拠のない自信がそこはかとなし。でもね、話は最後まで聴いて。一期一会って知ってる?「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といった、茶会の精神からくる諺なんだけど、素敵じゃない?これに通底するものがあるよね?今日という日は二度と来ないんだよ?そして、過ぎ去った日々も二度と戻らない。ボクが生まれたあの日も、その日にしかない一生に一度の機会。それはこれから二度と訪れることはない。だからこそ、過ぎ去った日々も、今日というこの日も、かけがえのない1日なんだ。誕生日だから、特別なんじゃない。本当は何気ない毎日が何よりも尊くて、特別な瞬間の積み重ねなの!だから、アナタと会える何気ないこの日も、お祝いしたいくらい特別な1日なんだよ!

はい、わかってもらえませんね。知ってます。

まあこんなもんです。わかってもらえない人なんて。でもまあ自分の経験から言えることですが、「わかってくれない」と言う人が、なぜわかってもらえないのかということには、それなりの理由があるような気がします。そこんところを考えていきましょう。

 


わかってもらえない理由

(※注. ここからちょっぴり真面目になります)

「わかってくれない」と言う人が、わかってもらえないのはどうしてでしょう?もちろん、相手が変わった人だと、その人の行動原理や価値観を理解できないということも十分に考えられます。でもそれって何か違う気がするんですよね。だって、そもそもわかりようがない事柄について、「どうしてわかってもらえないのか?」を問うても答えなどなく、虚しいだけですよね?ですが、それ以前の問題もあるのではないかと思うこともしばしばあるので、そこんところを整理していきましょう。

 

表現能力の問題

高校生くらいまでの子ども(時には大学生を含む)と話をしていると、よくあることですが、そもそも何を言っているのかがわからない場合があります。表現能力に問題があるのです。とは言え、表現能力自体に問題があるのは、実は極めて稀で、「伝わっている」あるいは、「伝わって然るべき」という思い込みが原因であることが多いのです。

この思い込みが厄介なのは、発話者にその自覚がないというところ。だから、どれほど解釈を試みてもなかなか理解できないし、伝えようとしている当の本人も繰り返し伝えようとするのですが、修正するのが困難なので、堂々巡りになることが多いのです。しかも、「伝わって然るべき」から「わかるでしょ?」になり、「わかってよ!」と出世魚のごとく、この思い込みは変遷の一途を辿ります。その過程でイライラは募り、感情的になるが故に、伝えようとする丁寧さがますますなくなっていく。そんな悪循環に陥るのです。それでは、具体的に表現能力のどのようなところに問題があるのでしょう?それは、基本的な文の構成です。

日本語は、英語などの諸外国語に比べると、難しい言語だなぁと感じる時があります。その原因は、主語などの文の単語が省かれうることにあります。英文などで、表現する場合、会話においても主語が省かれることは少ないでしょう。しかし、日本語においては、そうとは限りません。「明日買い物行くんだけど、行く?」なんて会話で言われると、主語(意味上のものも含めて)省かれているので、このような表現に相手が不慣れな場合は、混乱を来すことになりかねません。省かれた主語を同一のものと見なすと、「買い物に行く」という確定情報を伝えているのに、文末に「行く?」と疑問符を添えているので、相手にしてみれば「何で発話者は肯定文と疑問文を同時に用いているのか?」となりかねません。

このようなやり取りに慣れていれば、前の動詞に対する主語は発話者を含む主体であって、後の動詞に対する主語が語りかけられている相手だということはわかります。しかし、文がより複雑な構造になり、複文や重文を含む会話になると、このように必ずしも伝わるわけではありません。お互いの意志疎通が図れている場合なら問題ないのですが、これが阿吽でわからない時は、文の基本的構造である主述関係を明確にして、相手に情報を伝えなければならないのです。

情報の基本は、「誰が」「いつ」「どこで」「誰(何)を/に」「どうした」です。特に、「誰が」「どうした」という主語と述語の関係は、情報においてはとても重要です。この関係がわからなければ、その情報には価値がないといっても過言ではありません。ですから、誰かに何かを伝える場合には、この主述関係が、はっきりとわかるように伝えることが肝要です。もちろん、「誰(何)を/に」という目的語も同じくらい大事です。でも、「わかってくれない」と言う人間に限って、このように情報伝達において極めて重要な文の目的語や主述関係を疎かにしている傾向があるのです。小論文試験における解答で、主述関係が読み取りにくい、あるいは誤解を招きかねない文を書いて「わかってくれない」と言うのと同じです。この場合、情報伝達の不具合は読みとり手の読解力にあるのではなく、筆者の表現能力にあると考える方が自然です。オブラートに包んで言うと、「自分の表現能力の拙さを棚に上げて、簡単にわかってくれないなんて言って、責任転嫁すんじゃないよ」ってことです。

では、どうすれば「わかってもらえる」伝え方ができるようになるでしょう?実際に、僕が生徒ちゃんや後輩を指導したり、話すとき、不明瞭なところがある場合は、「誰が?」や「何を?」とツッコミを入れるようにしています。そうすることで、自然と情報伝達における表現能力は向上し、「わかってくれない」から「わかってもらえる」話し方をすることができるようになるのです。ですから、難しいことは何もありません。

 

論理性の欠如

「わかってくれない」と言う人が、わかってもらえないもう一つの主な理由は、論理性の欠如です。論理性とは、言いたいことに理由や根拠をつけて、筋道立てて説明することで、多くの人が「確かにそうだ!」とか「尤もだ!」と納得できるような物事の成り立ちにおける性質、と言えます。「わかってくれない」と嘆く人間に限って、これが欠けていることが非常に多い。「○○だから」って言や、何でもかんでも納得すると思うなよってこと。

人によっちゃあ、「何で人を××したの?」と尋ねると、「太陽が眩しかったから」なんて言うムルソー君みたいに支離滅裂具合が半端ないのもいます。ええ、大迫並みに半端ないのが。「○○だから」って理由つけりゃ、何でもかんでも、誰もが納得できるって意味で論理的になるわけではないんです。太陽が眩しいからっつって人を××していいわきゃねぇだろってこと。

だから、大事なのは、わかって欲しい話の内容を、できるだけ多くの人に聞いてもらうことです。それで8割~9割くらいの人がわかってくれればそれでいい。それだけの人にわかってもらえるならば、その話をわかってくれない人には話してもムダです。なぜなら、わかるべき話をしても、わかりっこないからです。きっとその人、変わってます。恐らく、話の大元のところ、いわゆる価値観が多くの人間とはかけ離れているので、わかってもらうこと自体が難しいと思われます。

でも、注意しなければいけないのが、仲のいい人だけに話を聞いてもらわないこと。仲のいい人だと、その人が空気を読めれば尚更、共感を示すことが多いからです。「○○じゃない?」っつったら、大抵、「わかるわかるぅ~」なんて言うでしょ。こんな建前だけのやり取りに意味はありません。もちろん、親交を深めるコミュニケーションの手段としては良いでしょう。ですが、その話がわかってもらえる話なのかどうかを判断する手段として用いるのは、あまり賢明とは言えません。

多くの人に納得してもらえるような話し方ができているかどうかは自分だけでは判断しようがありません。ですから、時にはデリケートな話もあるでしょうが、なるべく多くの人に聞いてもらうことが大切です。冷静に努めて、論理的に話をしてみる。それを繰り返す。そうすることで、どうすれば話を人にわかってもらえるかということが自ずと身についていくでしょう。

 

本音を言わない

これは論理性の欠如に通じることなんですが、話をわかってもらえない原因の一つとして、本音を言わないということも挙げられると思います。人間ですから、人から悪く思われたくないというのが、心情でしょう。あるいは、プライドだってある。だから、本音で語るのは難しい。本音をヴェールで覆い隠す。その上、オブラートで包んだような表現や、婉曲的な言い方をする。結果、表面上は論理的に話しているようにみえても、内実は論理的に破綻していることが多い。こうなると、何がなにやらわからなくなる。だって、伝えたいことは本心ですもの。それを隠しながら、わかってもらえるように伝えるなんて、土台ムリなんです。卵を割らずに、黄身だけを食べるようなものです。

本音を言わない人間には、よく他人のせいにする人がいます。「皆が言っていたから」とか「(イニシアチブをとる人間として)□□さんが言っていたから」なんて理由付けをするんです。この発言、裏を返せば、不都合な事態が起こっても、「私のせいじゃありませんよ」ってことの表明なんです。自分の判断や発言に対して、責任を負えない人間がこのように言うことが多いのではないかと、個人的には思われます。そういう類の話は聞いていて、「だから何?」となります。他人が言っていることと、それが事実であることに、確たる保証的関係はありません。大切なのは、自分が見聞きして、判断し、どのように思っているかを言葉にすることです。でなければ、何も伝わりません。譬え違っていたとしても、それが取り返しのつかない間違いでなければ、素直に非を認めて謝ればいいだけの話です。伝えたい、わかってもらいたい大事なことは言葉にして、伝えるようにしましょう。何も言わず、忖度だけでわかってもらおうなんてムシが良すぎます。はっきり伝えなければ、わかってもらえないのですから。そうする覚悟がないのなら、わかってもらおうなんてこと自体思わない方がいい。「伝えないけどわかれ」、そんなのムリです。

まあ伝え方は、相手の気分を害することなく、柔らかい口調と表現の方がいいでしょうけどね。

 

価値観が違う

これ言うとね、身も蓋もないんですが、わかってもらえない原因でどうしようもないのが、「価値観が違う」です。価値観には、論理だの何だのが介在する余地はございません。単に、好きか嫌いか、快か不快か、感覚、感情や気分によって左右されるものだからです。理屈じゃないんですね。だから、納得してもらえるように伝えることができない。つまり、わかってもらえない事柄に関しては、わかってもらいようがないわけで。

でもね、これについては一度きちんと考えていただきたい。誰かにわかってもらえるように、納得してもらえるように伝えるには、柔らかく伝えるにしても、冷静に、論理的に、主述関係などの情報を明確に伝えなきゃならない。ですが、この論理的にってのがくせ者でして。譬え論理的に話し合ってもわかりあえないことなんてザラにあるわけです。何事についても「話せばわかる」ってのは嘘です。なぜなら、論理が有用なのは、ある前提を共有し合っている人の間で言えることですから。その前提が食い違えば、どれだけ厳密に論理的に話し合ったってわかりあえっこない。これは厳然たる事実なんです。

じゃあ、この前提はどうやって決まるのかって話ですが、これが価値観なんですね。そして、それは前にも述べたように、感覚、感情や気分によってもたらされるものなんです。だから、相容れない価値観であるならば、そもそも相互理解は成り立たない。つまり、「わかってくれない」と言う人が、どうしてわかってもらえないのかというと、そもそもわかりえない人間にわかってもらおうとしているから、ということが言えるのです。

 


まとめ

「わかってくれない」と言う人が、なぜわかってもらえないのか、おわかりいただけたでしょうか(ややこしくてすみません)?様々な原因が考えられますが、基本的なもので言えば、表現能力と論理性の欠如です。これは、日々の努力で何とでもなります。大したことではありません。

そして、本音を言わないという問題もあります。まあ、心情的にはわからないこともありませんが、やはりきちんと言葉にして伝えるということは、とても重要なことです。「ありがとう」と「ごめんなさい」がきちんと言えることが、人として大切なように。百害あって一利なしとまでは言いませんが、見栄や意地、プライドなんて何の役にも立ちません。全部取っ払って、表現には気をつけながらも、はっきりと伝えるようにしましょう。気が引けるなら、そういう相手にはわかってもらう必要もないでしょう。せめて、きちんと自分をさらけ出せる、大切な人にはわかってもらえるように頑張って下さい。

さて、最後が最も厄介な原因です。それは価値観が違うというもの。こればかりはどうしようもありません。わかるためには、筋道立てて、整理、区分された事柄を受け入れる必要がありますが、その手段である論理は、感覚、感情や気分によってもたらされる価値観によって規定される前提を、その出発点として要請するからです。つまり、価値観が違う人同士だと、わかってもらえることが極めて稀ということです。しかし、これについては別段悲観的になる必要はないと思われます。世の中にゃごまんと人間がいるんだから、わかってもらえる大切な人がいれば、それでいいじゃないですか。万人にわかってもらうなんて、できっこありません。だから、「わかってくれない」と言う前に、伝える相手が、わかってもらえる人なのかどうかを見極める必要があります。そうすれば、「わかっくれない」ということも、やがてはなくなっていくことでしょう。

by    tetsu