「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」という野村克也さんの名言について

野村克也さんの名言?

元プロ野球選手で、監督だった野村克也さんが亡くなられてからひと月が経とうとしている。テレビでお馴染みの顔がもう見られなくなると思うと、あまりテレビを見ない僕でも、どこか寂しさを覚えるものだ。僕は彼の選手としての顔を知らない。生まれた時には、既に引退していたから。感情的な行動をとらず、いつも冷静な面持ちでボヤいている印象である。でも、何かを見つめている時の視線は鋭く、同じ空間にいたとしても、どこか深い別次元にいるかのような雰囲気を醸し出していた。

監督としての彼しか知らないので、「8年連続本塁打王に、そして、1965年には戦後初の三冠王に輝いた」実績など、知る由もなかった。ただ、ボヤいてるおじさんじゃなかったんだねぇ(当たり前だけど)。

そんなボヤきの中には、隠された名言みたいなものが、いっぱいあったんじゃないかって思う。氏の語録を見れば、簡単に推察できるよね。「うまくいっているときは、周りに人がたくさん集まる。だが、一番大切なのは、どん底のとき、誰がそばにいてくれたかや」とか、「ちっぽけなプライドこそ、その選手の成長を妨げる」とか。物事の本質について考え続けてきた人だからこそ、言えるごとなんだろうなってことがたくさんある。

その中でも感心させられたのが、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」って格言。勝ち負けに関する本質をついてるし、勝負事に対する、あるべき姿勢を説いている。

何度か聞いたことのあるフレーズなんだけど、よくよく調べてみると、元ネタがあったのね。引用することは何も悪いことじゃないから、野村さんの凄さが損なわれることは一切ないんだけどね。

元は、江戸時代中後期の肥前国平戸藩の第9代藩主、松浦清(まつらきよし)のものだったんだってね。号は「静山」だから、松浦静山で知ってる人も少なくないかな。彼は大名としてだけでなく、文学者としても秀でていたとか。『甲子夜話』や『剣談』など、重要な著作を残しているんだけど、『剣談』に出てくるのが、この「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」って言葉らしい。まさに慧眼の士。

 


「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」の意味

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」は矛盾?

たまに、「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」は、矛盾してるんじゃないかって話を散見するんだけど、とんでもない。言葉遊びにも程がある。勝負を、第三者の視点から俯瞰して見ると、同じ結果として表れる勝ち負けに、「不思議」に関する異なる属性が与えられているので、一見矛盾に見える。

でも、この格言は、少なくとも、野村さんが引用した意味では、あくまで主観的なもの(この点が、決定的に違う)。勝負事に関わる、ある1人の勝負師の視点(ワンサイド)から見れば、「不思議な(原因がわからない)勝ちはあるけれど、同様に、不思議な負けなどというものはない」ということになる。そう考えると、同じ結果として表れる勝ち負けに、一方には不思議という属性を与え、もう一方には、不思議という属性を与えないといったように、異なる属性を与えることはない。従って、矛盾は生じえなくなる。

問題なのは、勝敗に関わる当事者視点。勝負している当人から見たときの、自身の勝敗に関する認識。同じ勝負でも、ワンサイドから見る時の様相と、別サイドから見たときの様相は、著しく異なることが少なくない。 ものの見方は、主観に負うところが大きいという、ある種の哲学にも通底するところがある。

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」の意味

それを踏まえた上で、「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」という言葉の意味を考えてみる。スポーツや知的ゲームを含めて、色んな勝負事に関わってきた経験から言えば、勝負事とは、ロッククライミングでの競争に、その本質が表れていると思う。

クライミングの競争では、途中で諦めずに目的を完遂する能力(世間で言われるところの「自分とたたかう力」)と他人とスピードを競う能力の両方が試される。勝つときというのは、お互いが力を存分に発揮した上で、決着がつく場合もあれば、自分の登頂スピードがどれほど遅くとも、相手が不注意で滑落したり途中で諦めたりすることで、手中に収める場合もある。前者の場合、実力差で勝つわけだから、不思議ではない。しかし、後者の場合、ミスは相手の側にあるわけだから、こちらとしては、どうしてそんなミスがあったかなど知る由もない。そうなると、不思議な勝利ということなる。

かたや、負けた方の捉え方でいうと、実力差で負けたのなら、不思議ではないし、自分のミスで負けたのなら、そのミスには何らかの原因が考えられる。油断があったのかもしれないし、滑落するような登り方を選択した判断が間違っていたのかもしれない。ただ、自分の選択に関わることである以上、分析はできるだろう。そうなると、不思議で片付く問題でもなくなる。こうして、「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」という言葉通りの結果となるのである。

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」の精神

この言葉には、単なる叙事的な表現を超えるメッセージが込められている。それは精神論的なものである。叙事的な意味は既に述べた通りだが、そうした勝負観故の、優しい叱咤にも似たメッセージがここにはある。つまり、「 勝てる時は、実力によらず、幸運によって偶然起こることもあるが、負けることには自己責任以外の理由はありえない」というものである。

人は弱いもので、自分にとって不都合なことや、思い通りにいかないことがあっても、なかなか自分に原因があるとは考えない。わずかなプライドがあるから、自分の弱さを認められない。ちっぽけな自尊心のために、何かの、誰かのせいにしてしまう。でも、そんな心のままじゃ、何も変わらない。自分が負けるという状況から、いつまでも脱却できないでいる。

人間の心には自分を圧し潰そうとするものだけを運命と呼ぼうとする困った傾向がある。

(アルベール・カミュ著『フランツ・カフカの作品における希望と不条理』より)

このカミュの言葉が表すように、人間とは、「自分を圧し潰そうとするもの」が自分サイドにあるとは考えにくい生き物なのかもしれない。

ところが、負けの原因は自分サイドにあるというのが、現実だ。その事実を受け入れて、現状を打破しようと努力しない限り、勝利を手にし続けることはできない。「敗戦の中にいい教訓がある」と、野村さんが言っていたように、「その負けを分析し、考え、糧として、成長に繋げよ」という精神論的メッセージが込められているのではないかと思う。

 

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」を少しだけ哲学的に考えてみると…

勝ちに不思議の勝ちあり?

勝負事に関して、「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」というのは、至言とは思うが、勝負に対する心構えとしては、個人的には当てはまらないと思う。というのも、「勝ちに不思議の勝ちあり」とは思えないからだ。「不思議の勝ち」とは、言い換えると、「どうしてなのかはわからないけれども勝った」ということになるだろうが、そういう風には考えづらいからである。

確かに、こちらサイドに勝ちの原因がないこともある。しかし、それはやるべきことをやっている場合であることが多い。そうでない時は、自分サイドがやらかしたミス以上に、相手が更に大きなミスをやらかした場合か、そのミスがたまたまプラスに働いた場合に限る。

ミスをしてしまった場合には、反省すべき事柄があるのは言うまでもない。その場合では、譬え、結果が勝利に終わったとしても、勝利へのプロセスに恒常性(「いつだってそうなるよね」という物事の性質)がないので、大いに反省すべきである。次の勝利へと繋がらないからね。

そして、やるべきことをやっている中での勝利であるならば、それで何も問題はない。なぜなら、勝つために最も重要なことは、「やるべきことをやっている」という、恒常性のある勝利へのプロセスであり、勝つためには、事実としての原因などどうでもいいとさえ言えるからだ。そうした精神状態でいると、勝ったことは不思議でも何でもなくなる。勝ったのは、「やるべきことをやったから」という明確な原因が見出せるからだ。それが、たまたまであろうとなかろうと、最善を尽くした結果であるのなら、何ら問題はない。

さらに付け加えるなら、そもそも物事は不思議なものである。厳密に言えば、事実としての結果など、認識論的には誰にもわからない。私たちは単に物事がそうであると思い込んでいるだけで、真の意味で、そうあるのかは知りようがないのである(映画『マトリックス』の世界観を参照にしてみよう)。

つまり、物事はすべて不思議なもので、本当の意味で、どうだったかは知る由もないということ。したがって、より正確に言えば、認識論的には、「 すべての勝ち負けは不思議なもの」だということである。なんて言えば、身も蓋もなくなるので、より一般論的な話に戻そう。

勝つためにやるべきこと

勝つためにやるべきことを第一に考えるというのは、さほど難しいことではない。事実としての原因がどうこうというのは、それほど問題ではない。一番重要なのは、自分の行動が、どれほど結果に結びついているか?ということに目を向けることである。

確かに、原因を分析して、考えることは重要だ。原理的に物事を理解することは、知識を得るという意味では、十分有意義なことである。しかし、それが勝ちに結びついた行動に繋がらなければ意味はない。極端な話、「勝負事の前にカレーを食べれば勝てる可能性が極めて高まる」と、行動と結果に基づいたデータが示しているのであれば、勝つためにはカレーを食べるべきである(もちろん、科学的には、こういうゲン担ぎみたいなことは奨められないけどね)。千羽鶴を折って、勝てるなら千羽鶴を折れば良い。そこにどういった事実的因果関係があるかなんて問題じゃない。こうすれば勝てるという自分の中での不文律があるのなら、それに従えばいいというだけの話である。

運否天賦が関係することにしろ、勝負事に強い人間というものは確かにいる。そういう人間には、自分の中の行動規範というものがある。簡単に言えば、自分にとっての勝ちパターンというものを持っているのである。こういう状況になれば、負けないというものがある。問題は、どうやってそういった状況にもっていくか?である。

当然、それは人によって異なる。総合格闘技を例に考えるならば、打撃が得意であれば、打撃戦で相手とやり合えば良い。あるいは、寝技が得意であれば、相手をグラウンド戦に引きずり込むだけである。勝利を一義的に考えるのであれば、打撃が得意であるのにわざわざグラウンドで応戦する必要はない。逆もまた然りである。自分が勝てると思う、または勝つ確率の最も高い行動を選択することが、勝利へと繋がるのだから。そうした勝負観に基づくと、そもそも勝ち負けには不思議なものなどなく、ミスが認められるならば、その都度反省して、次の機会に活かそうね、という結論に至るのではないだろうか。

by    tetsu