ディベートと話し合いの違いとは何か?それぞれの意味と目的から考えてみよう

この人、話が通じないんだけど…

こんな風に思ったことはありませんか?論理的なレベルが違うことも原因ではありえますが、そもそも話し合いという事を勘違いしている可能性があります。

そういう相手と話をしなければならない場合、相手がどのように考えているのかを知ることで、少しは対処しやすくなります。

 

ディベートとは何か?

ディベートとは、もともと英語の“debate”に由来します。和訳すると、「討論」と表されますね。辞書で意味を調べてみると、次のような説明がなされています。

その問題について是非を議論すること

(Oxford Languagesの定義による)

あるいは、 否定側と肯定側に分かれて討議をする仕方などとも説明されることもあります。漢字の意味からもわかるように、論をもって討つということですね。

つまり、ある程度の勝ち負けがそこには生じるということです。だから、ディベートには競技としての大会があり、優劣を決することができるわけです。

それではその優劣は何によって決められるのか?主張する内容の妥当性です。それは論理の正確さと客観性と言い換えることもできます。

簡単に言うと、ディベートとはどれだけ説得力があるかということを競い合うものなのです。話を聞いている第三者が「確かにその通りだ」と納得させられる方が勝ちというわけですね。

(論理について、詳しくは「論理とは何か?」についての記事を参照して下さい)

論理とは何か?論理の意外な落とし穴について事例を交えて解説

もっとも、競技としてのディベートは、最も狭い意味でのものだという考え方もありますが、討論というものが、ある程度の勝ち負けを含むものであるということに変わりはありません。

その目的は相手を論によって屈服させること、つまり、勝つことが第一と言えるのです。

話し合いとは何か?

それでは、話し合いとは何でしょう。これは説明するまでもなく、話し合うことですね。同語反復的で説明になってませんが、これ以上端的に、この言葉を表現することはできないと思います。

その内容は様々でしょうが、基本的には、 相手に自分の感じていることや考え、思いを伝えることです。場合によっては、お互いに知らない情報を交換し合うということも含みます。

そして、その目的は、自分のことを相手に理解してもらうことであり、関係する人たちにとって、より良い結論にたどり着くことです。ここがディベートとは決定的に違うところです。

ただ感情的になると、話し合いは意味をなしません。話し合いは生産的でなければいけません。

十分に話し合った結果、望ましくない結論に至っても仕方ありませんが、相手を打ち負かすのではなく、あくまで相手に理解してもらおうとすると同時に、相手を理解しようとする姿勢が不可欠なのです。そうした相互理解への姿勢から新しいステージへと至ることが生産性のある話し合いへとつながるのです。

(生産的な話し合いをするための注意点は、「生産的な話し合いのために意識するべき大切なこと」の記事を参照して下さい)。

生産的な話し合いのために意識するべき大切なこと

ディベートと話し合いの違いについて

これまで述べたように、ディベートと話し合いには大きな違いがあります。ディベートは優劣を決すること、相手を論破することを目的とします。

かたや、話し合いは相手との相互理解を深め、より良い結論へといたることを目的とします。似たような行為ですが、そこで求められる姿勢は180°違うと言っても過言ではありませんね。

例えば、2人で行く旅行の行き先を決めるシチュエーションを思い浮かべて下さい。1人は海へ行きたいと思っており、もう1人は山へ行きたいと思っているとします。

ディベートでは、お互いに行きたい場所に対する素晴らしさをプレゼンし合うでしょう。海や山の素晴らしさを語り、レジャーに対する経済的・時間的合理性を主張し、時には相手の行きたい場所に対する批判を始めます。

そうして相手を論破し、自分の主張を認めさせ、己の意志を通すことを試みるのです。

一方、話し合いにおいては相手の意見を、そして時には感性を含む人格を否定するようなことはしません。自分の意見は主張するものの、歩み寄れる妥協点を模索します

「今回の旅行は海にする代わりに、次の機会では山にしよう」というように(その逆もしかり)。あるいは、海の魅力と山の魅力を持ち合わせた最善の場所を探すように力を合わせることもあるでしょう。いわゆるアウフヘーベンの一種ですね。

ここでは、お互いに敬意を払い、相互理解を深めようとする姿勢をみて取ることができます。

別に、ディベートが攻撃的で悪いというわけではありません。確かに、場合によっては、相手の人格攻撃へとつながる危険性はあるでしょうし、喧嘩別れにつながることもあるでしょう。

しかし、間違いを正すこともありますし、そこから学べることも大いにあるはずです。問題なのは、話し合いと称しながらも、ディベートの姿勢で話し合いに臨む人がいることです。

もちろん、話し合いの中で明らかに話の筋が通らない場合は、その間違いを指摘することもあるでしょう。でも、それはより良い結論へといたりたいがためになされることであって、相手を打ち負かそうとするためになされることではありません。

ところが、人間ですから、自分の意見を認めて欲しいという感情的な部分があることも事実です。それゆえ、間違いを指摘されると、ある種の防衛本能的が働き、相手を論破することで、自分を守ろうとする人もいます。

逆に、話し合いと言いながらも、ハラの中では、自分の意見を通そうとすることを目的に話し合いの場に居合わせる人もいます。

厄介なのは、そのことを自覚しないままでいる人がいるということです。そうした人と話し合いをしようとしても、あまり有益とは言えません。なぜなら、聞く耳を持たないからです。

歩み寄りもせず、生産的なものの見方で新しい考えにも及ばず、たとえ間違っていたとしても己の主張を曲げない。こんな人と付き合っていても時間のムダでしょう。最後には、感情的になって、大声でヒステリックに叫ばれるのがオチです。

自分がそうなっていないかを自問することも重要ですね。何でもかんでも譲歩すれば良いというものでもありません。やはり、こだわりもあるでしょうから。

ただ、譲れないものがあるなら、そもそも、話し合いのテーマとして持ち出さない方が賢明です。相手に伝えるのは大事かもしれませんが、何かを解決するための話し合いの場には適さない可能性が大きいです。

繰り返しになりますが、ディベートは 相手を打ち負かすことを目的としますが、話し合いでは、 相互理解と歩み寄りを目的とします。そうした、ディベートと話し合いの違いをしっかりと認識した上で、その場に望むようにしましょう。

by    tetsu