「よう知らんけど」って言う関西人について

こないだ関西とは違う地域にお住まいの方に訊かれました。関西の人がよく使う「よう知らんけど」(関西弁で「よく知らないが」の意)って表現は何なのかって。確かに、よく言ってる気がします、よう知らんけど。今回は、そんな「よう知らん話」どす。

 


関西人の気質

正直?

ストレート。開けっぴろげ。表現は様々かもしれませんが、「正直」と言うこともできるかもしれません。個人的な経験則ではありますが、「よう知らんけど」という表現は、伝聞による情報を口にする場合に、言われているように思われます。「○○が言っていた。まあ、直接見聞きしたわけではないから、確かなことはわからないが…」こんなニュアンスが、込められているのではないでしょうか?

確かに、自分の目や耳で直接確認した事以外は、発話者からすれば、確実なこととは言い難いですね。それを素直に伝えているのであれば、正直と言えるのかもしれません。

 

話したがり?

基本的に、関西人はお喋りが好きというイメージがあります。そして、個人的な経験則で言うと、このことは概ね正しいと言えそうです。だから、何でも話します。そう、譬え「よう知らん話」であっても!

さんざん延々と長話を聞かされた挙げ句、〆の言葉が「よう知らんけど」だったなんて経験が、おばちゃん相手に何度もありました。いついつ誰々がどうのこうの…と、恰も自分が見聞きしてきたように詳細を話し、最後が「よう知らんけど」って…。「自分の目や耳で直接見聞きしてきたように詳細にわたって話してきた事が、実は人伝の話ですか!?」とか、「その詳細にわたる情報量をもってしても、よう知らんなんてレベルなんだったら、知ってるって言えるためには、どれだけのことを把握してないかんのですか!?」なんて、ツッコミに困ってしまうわけです。

どちらにしろ、話したいんですよね。人伝で聞いた不確かな情報であろうが、そこまで知ってるって言えるくらい知識量がなくとも。話せることを話したい。そういう人たちが多いんです。だから、何か話した後に、「よう知らんけど」って付け加えて話せることを話すんです。ま、最後に付け加えるあたりは、やっぱり正直とでも言うんでしょうか。

 

責任逃れ?

これは結構あるかもしれません。責任逃れ。何やかんやと話す人らは何も深刻に物事を捉えていないのです。だから、件の付け足しは、話すだけ話すけど責任は負わんで、という意思表示として捉えることもできます。

例えば、20年程前に、こんな会話を耳にすることがしばしばありました。

「何や、1999年にノストラダムスの大予言なるものがあるみたいやな。」

「へぇ。」

「それによると、1999年の7の月か8の月に、世界が滅亡するらしいで。」

「何やえらいコワい話やな~。」

「よう知らんけどな。」

最後の文句は、この話の内容を真に受けて、当時、「どうせ世界は滅亡するんだから」なんて言って、放蕩生活をして堕落したとしても、それは自己責任でお願いします、というメッセージだと捉えることができます。ですから、「あんさん、こないだ言いましたやん!」と詰め寄っても、「だから、よう知らんけどって、ちゃんと言いましたやん!」と反撃を食らうだけなんですね。この辺りの自己防衛策に抜かりはありません。

 


確かなこととは?

しかし、この「よう知らんけど」という言葉は、実は、哲学におけるある種の核心をついた表現なんです。考えてもみて下さい。果たして、絶対確実なことなど世の中にあるのでしょうか?

この難問に立ち向かったのが、かのフランスの哲学者デカルトです。「この世の中に、絶対確実なことなんてあんのかいなー!」と悩み続けます。「何やかんや言うて、全部夢落ちちゃいますのん?」とか「嘘なんちゃいますのん?」などと言って、かなり穿ったものの見方で哲学を実践します。これを方法的懐疑と呼びます。「全部夢とか嘘っぱちやとして、確実って言えることに何があんのやー!?」と悩み苦しむ事、はや7年。そこで、かのレジェンド級の閃きが起こります。

「何やかんや全部疑ってみたけど、疑ってる間には、疑ってる私がいるがな。これだけは間違いない真理やー!」と。これがかの有名な、〈我思う故に我あり〉なわけです。これ、実は、かなり凄いことです。それまで、確実性の問題は、あくまで実在的な世界側の問題であり、認識主体の問題ではなかった。それを、混沌かもしれない世界の中に、自我を確立させたのです。それも絶対確実なこととして。哲学における、コペルニクス的転回ですね。

でも、ここからがまた大変なんです。デカルトは、確たる自我を確立させると、世界論を展開させて行くのですが、そこから確実なこととして語りうるものは、正直何もありません。彼は、存在論的に神の存在を証明し、数学的に宇宙論を展開しますが、この証明には穴があるばかりではなく、数学も絶対的なものではありません。無条件に受け入れるべき思考の前提、公理が正しくなければ、数学もまた力を失うのです。従って、数学の公理は自明とは言われていますが、前提ありきのもの。数学による世界の展開は、「我思う故に我あり」ほど、強い証明法とはなりえず、確実なこととは言い難いというのが実情なのです。

さらに、この「我思う故に我あり」は、あくまで「思う」間には少なくとも疑いえない自我があるものの、一度思うことを止めてしまえば、その存在もまた確実なものとしては霧散してしまうというのが実情です。こうしたことを考えると、世の中に絶対確実なこととが如何に少ないか、ということがご理解いただけるかと思います。

だとしたら、関西人が日常的に用いる「よう知らんけど」という言葉は、正に、正鵠を射た表現と言えるのではないでしょうか?というのも、私たちには確実にそうだと言えることなど極めて少なく、必然的に私たちは世の中の事を「よう知らん」ということになるのですからね。つまり、関西人の「よう知らんけど」という言語表現は、哲学的には厳密な意味で、理に適っているということになるわけです。

よう知らんけど。

by    tetsu