どこでもドアで本当にどこにでもいけるのか?少し哲学的に考えてみた

僕はドラえもんが好きだ。子どもの頃から、ずっとドラえもんを観て、読んで育ってきた。木多康昭が100巻までは誰よりも『こち亀』を読んできたと豪語するように、僕も、大長編で言うと、『のび太のドラビアンナイト』までは誰よりも読んできたんじゃないかって言えそうなくらい読んだ記憶がある。あの物語には、子どもの夢と男のロマンが詰まっているだ。

とまあ、暑苦しい話はこれぐらいにして、以前にも記事で書いたが、そんなドラえもんの道具で何が欲しいと訊かれれば、どこでもドアが欲しいと答える。なぜか?だってあんなに便利なものはないからだ。あれさえあれば、どこにだって秒で行ける。しかもタダで。どこでもドアが開発された暁には、例えばイニシャルトークで申し訳ないが、あの素晴らしき「JR」などの公共交通機関の経済状況がのっぴきならないことになろうとも。

しかし、だ。子どもの夢であり、男のロマンを象徴する、かのドアは、いつだって心の中にあるものという常識はさて置き、果たして実在しうるのだろうか?どこにでも行けるものとして、どこでもドアは存在しうるのか?つまり、「どこでもドアで本当にどこにでも行けるのか?」という、青春時代に誰もが避けては通れない疑問について、少し哲学的に考えてみようと思う。

 


どこでもドアとは

もはや説明不要な気もするが、念のため。その名の通り、大体の場所ならどこにでも行けるドア。ドラえもんの秘密道具の1つ。ドアのノブに意志を読み取るセンサーが内蔵されており、使用者の行きたいところに通じてくれる。カラーバリエーションや大きさは様々(ミニドラも持ってるため)。但し、本当にどこにでも行けるかと言うと、そうではないらしい。①過去や未来といった時間を超えた場所。②10光年離れた目的地。これらの場所には設定上、行けないことになっている。

(これ以上に詳しい情報に関しては、適当にググッてくれ。わかりやすいサイトへとGoogle大先生が導いてくれる。そういう意味では、Google大先生もネット世界でのどこでもドアかも!?)

この時点で、もう「どこでも」ドアじゃねーだろってツッコミが聞こえてきそうだが、まあ落ち着け。大体、言葉で表されていることなんて、厳密にそうかって言われるとそんなわけがない。これは言葉の現実的な用法における宿命のようなものだ。「10年に1人の逸材」とか言ったって、本当に10年に1人かどうかは、厳密に統計を取ったわけじゃないから、正しいとは言えない。そんなことは言ってる方も、言葉を受け取る方もわかってる。要は、それくらいスゴいんだよってことさ。まあでも、昨今の言葉のデフレ具合には些か問題があるような気もするけど。例えば、「1000年に1人の美少女」なんて表現を見たことがあるんだけど、なんぼなんでもそりゃ言い過ぎじゃないかな(あくまで個人的意見なんで「1000年に1人の美少女」ファンの方、ゴメンなさい)。あまりに行き過ぎると、そのうち、「1000万年に1人の美少女」なんてのが、出てきそうな気がする。そうなると、もはや人類の歴史超えちゃってるよね。

話を戻そう。どこでもドアってのは、「どこでも」って表現したくなるくらい、大体の場所に行けるよってドアなのさ。それくらいスゴいの。でも、やはり脳裏を過ぎるわけ。前述した①と②を除く場所以外に本当にどこにでも行けるのだろうか?今回はそれを考えてみようって話。

 


どこでもドアで本当にどこにでも行けるのか?

深海

結論から言うと、かなり難しいんじゃないかなと、個人的には思われる。そんな場所の1つが深海。

深海てぇと、同じ地球上にありながら、もはや異世界。宇宙なみに異世界。何が異なるのか?水深1000mほどの場所で、気温(水温?)は2℃ほどで寒いし、100兆分の1程度の太陽光しか届かない暗闇の世界。何より、圧力が半端ない。大迫並に半端ない。ヒステリックな女性のワガママ並に半端ない。某国の外交圧力並に半端ない。どれくらい半端ないかって?水圧は水深が10m増す毎に、1気圧増していくんです。水深1000mなら、101気圧。水深6500mなら、651気圧。GODAC(国際海洋環境情報センター)の表現を拝借するなら、「小指の先にお相撲さんが約4人乗っかかるほどの圧力」だそうです。水深10000mなら、1001気圧。1001気圧て、1001hPaの誤表記じゃない?って思われるほどの圧力。

こんだけの力が全方向からかかってくる。だから、物によってはむちゃくちゃ小さくなる。ぎゅーってされるわけだから。そら小んまくなる。ヒステリックな女性の口撃受けてる僕くらい小んまくなる。カップめんなんて半分以下の大きさよ?どこでもドアは大丈夫かな?まあ見た目の割にはスンゴイハイテクだから、大丈夫だとは思うけど、見たまんま木くらいの強度だとしたら、スゴく縮むよ?頑丈だと思うでしょ?でも、意外と簡単に燃えたり、ワニに齧られたりしてたよ(記憶違いならゴメンなさい)?深海の圧力なんて、その比じゃないよ?まさかそんなことはないとは思うけど、一般的な大きさのドアが半分以下に縮んだら、きっとくぐれないと思うよ?

まあそれはさて置き、どこでもドアで深海に行くためには、さらなる問題がある。それが、ドアを開ける時にかかる圧力だ。先ほどの水圧の話は、1cm2にかかる圧力。ドア部分の面積を2m2とすると、1気圧=1013hPaだと計算が面倒くさいので、いっそ1気圧≒1000hPaとして考えても、水深1000mでは「101×1000×10×2=2020000」より、ドアにかかる圧力は、2020000kg重。ドアを開ける人のいる場所の気圧を1000hPaとすると、「1000×10×2=20000」より、ドアにかかる圧力は20000kg重。従って、深海に行くためにドアを開ける力は「2020000-20000=2000000」より、2000000kg重必要となる(僕、物理習ったことないんで計算間違ってたらゴメンなさい)。

2000000kg重…いやいや!無理でしょ!「今でしょ!」並に「無理でしょ!」。仮に開けたとしても、ドア閉まんないよ!これ水深10000mなら、さらにケタ増やしてドン、2000万kg重よ?2000万て、バッファローマンとモンゴルマンのパワー合わせないと開かないのよ?超人2人がかりでしか開けられないドア、凡人に開けられるわけねーよ!無理!深海なんて行けません!

(※注. 『ドラえもん』本編において、気圧差によってどこかに行けなかったという描写はなかったと記憶しております。記憶違いならゴメンなさい。そして、思考実験の一種として気軽に読み捨てて下さい。)

 

宇宙

気圧差を考えると、深海同様、宇宙にも行けない。というか、誰1人として行かせてはならない。どこでもドアが、未来においても恐らく実用化されない理由が、ここにある。地球上から宇宙にどこでもドアの扉を開いてしまうと、地球上の空気は忽ち消え失せる。全て、どこでもドアを通じて、宇宙へと放たれることとなる。そうなると、地球上から全ての空気が失われ、岩石独立栄養生物などの特殊な生命体を除いて、あらゆる生命体はどこでもドアではなく、あの世への扉を開くことになるだろう。これじゃあ危なすぎて、作れないよねぇ。

とまあ、現実的な問題はさて置き、思考実験においても、宇宙にある特定の場所には行くことはできそうもない。例えば、太陽付近の領域。なぜなら、どこでもドアが燃えるから(大長編『のび太の大魔境』参照)。ドアが燃えてしまうと、当然、ドアを通じて目的地に行くことはできない。水星あたりでも、昼の部分ではどこでもドア燃えるんじゃないかな。

ドアが形状を保てないという理由から、ブラックホールも同様。ドアが空間に現れた瞬間にブラックホールに呑み込まれ、ドアはきっとバッキバキになる。故に、行くことはできない。まあこれに関しては、地球から10光年内にブラックホールがないから心配する必要もないのかも。一番近くて、存在が疑われてるのが、地球から3000光年離れた「一角獣座Xー1」らしいから。650光年離れたベテルギウスも、将来ブラックホール化する可能性があるらしいけどね。

これはわかんないんだけど、絶対零度に近い場所とかどうなんだろう、って思う。どこでもドアが木からできてる以上、ドアに含まれる水分が凍りついて使えなくなるんじゃないかな。だとしたら、宇宙って行けない場所、まあまああるよね。そもそも、テキオー灯のない場合、どこでもドアで宇宙に行くなんてこと自体、無謀でありえないか。

 

状況によっては行けない場所

状況によっては行けない場所というのもある。例えば、高速で移動している宇宙船内。どこでもドアっての便利なもので、譬えどれほど高速で移動している乗り物の中であったとしても、正確に通じてくれる。でも、今まさに10光年離れようとしている宇宙船内部なら無理だよね。どこでもドアを出して、念じてドアを開こうとしている時は、10光年内であっても、開ける瞬間に10光年の範囲を超えると、ただのドアになるんじゃないかな。まあこれは設定上、無理だって言われてるから、何も取り上げることもないかもしれないけど。

でも、変化する状況によっては行けない場所があるということも、恐らく事実。次のような状況を考えてみよう。tamaとtetsuが寸々違わぬ同じ時刻に、寸々違わぬ同じ場所を指定したとしよう。両者は目的地に行くことができるだろうか?きっとできない。というのも、このような状況が成立するとしたら、tamaの使おうとしている「tamaでもドア」とtetsuの使おうとしている「tetsuでもドア」は寸分違わぬ同じ時間に、寸分違わぬ同じ場所にあるということになる。異なる物が同時刻に同位置に存在することなどできはしない。異なる2つの物は、時間が同じであれば、占める空間は異ならなければならない。同じ時間に同じ場所にあるとしたら、それは1つの物として同定されるのである。だが、言うまでもなく、tamaでもドアとtetsuでもドアは、同じ物ではない。従って、「異なる物が同時刻に同位置に存在することなどできはしない」という前提を認めるとするならば、このような状況は許されないのである。

どこでもドアが1つであれば、このような事態は起こりえない。だが、未来において、使用者が何十億人もいたら、起こりえないと断ずることはできない。例えば、同じサイトを複数人が寸分違わぬタイミングで同時にクリックすることだってあるだろうから。

そんな時ばかりは、どこでもドアはerrorとなって使えなくなりそうだ。だとしたら、特殊な状況下ではあるものの、必ずしも、どこにでも行けるというわけではなさそうだ。仮にそうだとしても、やはり僕はどこでもドアが欲しい。決して「どこでも」というわけではないだろうが、大抵の場所には行けるから。四次元ポケットをなくしても、ドラえもんが好きなように、譬えどこにでも行けなかったとしても、僕はどこでもドアを燃やしたりはしない。

どこでもドアがあればどこに行きたいかって?そりゃ勿論、無駄な争いのない、トマス・モアが描く、ユートピアの世界さ。

by    tetsu