若者はコスパ重視?コスパと価値観の切り離せない関係性について

最近、「コスパ」という言葉が若者を中心に良く使われていますね。若者の間では、家電製品や車はもちろんのこと、結婚や恋愛までコスパという指標が持ち込まれるようになりました。流石にやり過ぎたのかそのような風潮に反対する記事も増えつつあります。

といったように、世間では「コスパ」についての議論が白熱しています。しかしながら、そのほとんどが表面的な議論に終始しています。というわけで、今回はコスパと価値観の切り離せない関係性について考えていきたいと思います。

コスパとは?

ご存知の通り、コスパとはコストパフォーマンスの略のことです。辞書で意味を調べてみると、次のように定義されています。

支出した費用とそれによって得られたものとの割合。費用対効果。

引用:デジタル大辞泉

インプットに対するアウトプットの割合とも言い換えることが出来るでしょう。まぁ、これらの定義に違和感を覚えるという方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか?

これを日常生活に当てはめてみると、コストとしては、時間・お金・肉体・精神の負担が挙げられます。パフォーマンスとしては、肉体的・精神的な充足感・時短効果・収入獲得・利便性などが挙げられるでしょう。

例えば、サラリーマンの場合は時間・肉体・精神の負担をコストとして、金銭(給与)や精神的充足感(やりがい・成長)というパフォーマンスを得ています。当然のことながら、このコスパが高ければ、離職率は下がるはずです。

ディズニーランドに行く場合は、お金・時間の負担をコストとして、精神的な充足感というパフォーマンスを得ています。この際の精神的な充足感が大きい人は、ディズニーランドのリピーターになりやすいことは想像に難くありません。

このように、私たちは無意識のうちにもコストパフォーマンスを計算し、選択をしているわけです。

客観的コストと主観的コスト

先ほど例に挙げたコストは客観的コスト主観的コストの二つに分けることができます。

客観的コストとは、その名の通り客観化できるコストのことです。

100円ショップの商品は誰が買っても100円ですし、東京‐大阪間を新幹線で移動する際にかかる時間は誰が乗ろうと同じですもんね。このように、誰から見ても同じで数値的に表せるコストのことを客観的コストと呼びます。

主観的コストとは、人によって異なる客観化できないコストのことです。

数学の勉強に費やす時間は同じでも、数学が好きな人と嫌いな人では精神的な負担のかかり方は大きく異なります。他にも、同じ肉体労働において筋肉がある人とない人では、肉体的な負荷が全く違います。

このように、人によって異なる数字で表現できないコストのことを主観的コストと呼びます。

客観的パフォーマンスと主観的パフォーマンス

先ほど挙げた客観的コストと主観的コストと同じように、パフォーマンスも客観的パフォーマンス主観的パフォーマンスに分けることが出来ます。

意味は先ほどと似たようなもので、客観的パフォーマンス客観化できるパフォーマンスのことです。

時給1000円のバイトを8時間すれば、誰もが8000円のお金(パフォーマンス)を得ることが出来ます。このように、誰から見ても同じであるパフォーマンスのことを客観的パフォーマンスと呼びます。

それに対して、主観的パフォーマンスは、人によって異なる客観化できないパフォーマンスのことを指します。

僕はスノーボードが好きなので、年間に数十回滑りに行きます。このような行動をとるのはスノーボードをすることにより、パフォーマンス(肉体的・精神的充足感)を得られるからと考えることができます。一方で、運動が嫌いで寒いのが嫌いな人からすれば、スノボードなんて苦痛でしかないでしょう。

このように、人によって異なるパフォーマンスのことを主観的パフォーマンスと呼びます。

コスパと価値観

先ほどの話をまとめると、「コスト=客観的コスト+主観的コスト」、「パフォーマンス=客観的パフォーマンス+主観的パフォーマンス」と表すことができると思います。

しかし、本当にそうでしょうか?違いますよね?

普遍的な価値を有するお金や時間だって、人によって価値が全く異なりますからね。

例えば、社会人が感じる一万円の価値と小学生が感じる一万円の価値は違います。また、余命数ヶ月の人が感じる時間の価値と健康な人が感じる時間の価値にも大きな違いがあるでしょう。

そのことを考慮に入れると、「コスト=主観×客観的コスト+主観的コスト」、「パフォーマンス=主観×客観的コスト+主観的コスト」となるわけです。

この式を見て分かるように、コスパの良し悪しはその人の価値観に大きく依存するのです。それは価値観が変われば、コスパの良し悪しの判断も変化することを意味しています。

冒頭に書いた「恋愛や結婚はコスパが悪い」という一部の若者の意見だって、その人達の独自の価値観でしかないわけです。しかも、その価値観は今までの経験によって形作られてきたものです。

仮に、素晴らしいパートナーとの出会うことができれば、その人達の価値観は一瞬で変わり、「恋愛や結婚はコスパが良い」と熱弁することでしょう。

つまり、コスパはその人が現時点で有する価値観によって決定されるわけです。

最後に

コスパの良いと感じるものばかりを選択することは心地の良いものです。しかし、それは現在の自分の価値観に縛られることと同義です。

例えるなら、お気に入りの店に通い続けるようなものです。確かに満足はできますが、それ以上の喜びを見出すことはできませんし、新たな発見をすることもできません。たまには、新しい店に行くことも大事というわけですね。

だから、目先の確実なコスパだけを求めるのではなく、時には未知の不確かなパフォーマンスを求めてみるのも良いのではないでしょうか?