愛について

ある愛について

ある愛を歌う男

僕が若かりし頃、愛情とは、相手のためになる何かをすることだと思ってました。誰かのために何かをすること、確かにそれは愛の1つの表れかもしれない。でも、そんな固定観念に縛られていた己の浅はかさを知ることになります。ある男の叫びにも似た歌を聴いた時のことです。

Mr.ChildrenがMr.Childrenとして存在するための、日本の偉大なバンドの1つへと登り詰めるきっかけとなった(と個人的に思う)不朽の名盤『深海』に収められている「名もなき詩」には次のように書かれています。

愛はきっと奪うでも

与えるでもなくて

気が付けばそこにある物

Mr.Children「名もなき詩」より

桜井ズムに触れると、己が浅薄であることを思い知らされたのです。彼の愛情論は、ポジティブな言葉の風味ではあるものの、決して、「与え」たり「奪」ったりするような、能動的で積極的な何らかの行為を表しているわけではありません。対象に対しては、寧ろ、受動的で、消極的でさえあります。そうした愛情観は「くるみ」の歌詞にも表れています。

共に生きれない日が来たって

どうせ愛してしまうと思うんだ

Mr.Children「くるみ」より

ここでは、一緒に過ごせなくても愛することはできるという可能性を示唆しているように思えます。それは、愛情という概念の外延にある様々な行為を表すものではなく、何か自制することのできない心の状態を表しているのではないか、と。こうした逆説的な受動性は、「待つ」や「見守る」といった行為にも看取できます。

愛の受動性・消極性

「待つ」や「見守る」という行為は、形式上は能動的に見えますが、直接的に対象に働きかける行為ではありませんある対象が来るのを空間的な位置を変えずにいるということであり、 思いを胸に秘めながら、ある対象の行為を見つめることと言えるでしょう。それは「誰かが何かをすることを前提とする」という意味において、受動的とさえ言えるかもしれません。

また、それらの行為は他の行為と両立しえます。「寝ながら待つ」や「歯を食いしばりながら見守る」といったように。そういう意味では、こうした行為は、「行為」と言うよりも「状態」に近いものであり、行為としては消極的と言わざるをえません。

愛情表現は、ややもするとエゴの表象となりがちです。「賢明の裏付けをもたない誠実さは、その誠実によって相手を拘束する」と石川達三が『幸福の限界』において述べるように、どれほどポジティブなものでも、相手を慮る賢明さのない想いは、相手にとって負担にしかなりません

愛情についても同じような事が言えると思います。相手に対する思いやりがなければ、愛は所詮エゴにしかならないのです。透徹した視点で捉えようとすると、前述したようなネガティブではない受動性や消極性を有した愛の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

愛の反対は

愛の反意語

愛の反意語は?という質問に、「無関心だ」なんていう答えを、しばしば見聞きすることがあります。日本では、マザー・テレサが言ったというイメージがありますが、元ネタは、ハンガリー出身の作家、エリ・ヴィーゼルらしいですね。僕自身、ずっとマザー・テレサだと思ってました。12歳頃までは、愛の反対は憎しみだと思っていたので、この言葉を見た時、最初は目から鱗が落ちる思いをしましたが、今では納得できない気持ちでいっぱいです。

考えてみて下さい。言葉には大抵、反意語が存在します。それが何か?というと、今回のように哲学的であり、一概には言えないこともありますが。しかし、「無関心の反対は?」と訊かれれば、十中八九「関心」と答えるでしょう。では、「愛=関心」ですか?これには異を唱える方々が大勢いらっしゃると思われます。

確かに、愛には関心が含まれているとは思います。ですが、もちろん、それが全てではありません。だとしたら、愛の反意語には、より適切な表現があるように思われます。

憎しみでも無関心でもない、愛の反意語、それは「孤独」です。孤独な人間には、愛はありません。愛することも、愛されることもない人間は、孤独なものです。

 

孤独

「孤独」の反意語を調べると、「連帯」や「団結」、人によっては「一体感」と言う人もいます。しかし、個人的には、納得のいくものではありません。それぞれの意味を考えてみましょう。連帯や団結の意味は、 2人以上の人間が、同じ目的に向かって、力を合わせて事にあたり、責任を同じくするという意味だと思われます。では、1人で事にあたる人は孤独でしょうか?

1人でいる、あるいは何かをする人が皆孤独かと言うと、そうではありません。何かに打ち込んでいるところを想像してみて下さい。絵を描く、陶芸をする、ゲームに夢中になる。そういう人は孤独でしょうか?違いますよね?彼らはただ1人で何かをしているだけです。

孤独という言葉には どこか寂しげな、ネガティブな意味合いが含まれます。それは1人でいることとは、直接的には関係ありません。1人でいるからと言って、必ずしも孤独というわけではないのです。例えば、私は大自然の中に1人でいるとき、一切、孤独を感じることはありません。寧ろ、都会の人混みの中を歩く時、あるいは、誰かと何かをしている時でさえ、孤独を感じることがしばしばあります。

目指しているところの違いや意識の違い、相手に対する尊崇の念や慈しみ、思いやりがなければ、譬えどれほど一体感があっても孤独なのです。そう考えると、「孤独」の反意語が、「連帯」や「団結」、あるいは「一体感」であるとは思えなくなるのです。

愛と孤独

ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』に触れて思うことです。クリスティーヌと結ばれることのなかったエリックは孤独だったのでしょうか?僕にはそうは思えません。確かに、クリスティーヌを知る前のエリックは孤独だったと思います。愛することも愛されることもない人生でした。しかし、クリスティーヌが現れることで、彼の人生は一変します。

彼の愛情表現は、歪なものでした。彼女を束縛し、自分の欲求を満たそうとするだけの空虚な思いです。それは、観る者によっては、愛とはほど遠いものに映るでしょう。しかし、物語の終わりでは、彼は人のぬくもりを知る。そして、クリスティーヌを解放します。そこでエリックは、本当の愛を知ったのではないかと推察できるのです。

「突き放すことが、怪人ファントム(エリック)にとっての愛だった」と、ある作家が書いていました。それが愛の表れであるということには、共感を覚えます。そして、そこには孤独はなかったと信じたい。

譬え、想いが届かなかったとしても、構わない。その人が幸せで生きてくれるなら。それが愛の本質のような気がします。もちろん、自分の想いに応えてくれるなら、言うことはないでしょうけど。そんな想いを胸にして、孤独であるはずがない。誰かを本気で愛した記憶があるのなら、思い出とともに生きることもできる。愛されたことがあるのなら、尚更です。

 

愛とは

愛とは何かと問われると、一言で言うのは難しい。それほど、様々な面を持っているでしょうし、人によっても、その捉え方は違うと思います。事実、愛については、過去の作家乃至思想家によって様々な表され方をしています。

実体のない、観念的なことですから、直接に「愛とはかくあるべし」と断言することはできないのかもしれません。だから、婉曲的に、或いは、その内包や外延を述べることで、間接的に表すことが、少なくとも自分にとっては、精一杯のことなのです。

それが、今回の場合では、対義語を考える事でした。思いを巡らしていると、やはり愛の反対は憎しみでもなく、無関心とも思えませんでした。短い人生経験かもしれませんが、愛と最も遠くにあるもの、それが孤独であるという結論に至ったのです。

もちろん、繰り返しますが、人によって捉え方は様々です。それは各々の人生における文脈の中で、発見すべきことかもしれません。少なくとも、僕にとっては、 孤独と対極にあるもの連帯や団結、一体感では表せない、人間同士の繋がり。そこに愛の影を見出したのです。

by    tetsu