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犬
僕は人間でない何かに好かれることが多い。犬も例外ではない(というか、最たる例である)。散歩している犬とすれ違うと、こちらに寄ってこようと必死にアスファルトの地面を爪でカリカリ鳴らす。前脚を上げて、バタつかせる。こちらに飛びかかろうとするものの、リードを持つ飼い主さんの腕力にかなわず、しぶしぶ連れ去られていく。そんな光景を幾度となく目にしてきた(まあ、たまたま人懐っこい犬に出くわしてきただけかもしれないが)。でも、皆が皆そういうわけではない。僕に目もくれない犬もいる(警察犬など以外で)。
その犬は、家から駅へと向かう道沿いに建つ家で飼われている。一切関心を示さず、ほんの一時、視線を合わせたかと思うと、興味なさげにふいと横を向いてしまう。その家は門扉を開けると、道と平行に作られた階段を上って玄関口へと辿り着く構造になっており、犬はその階段にいることが多い。少なくとも、そこ以外にいるのを、僕は目にしたことがない。
犬はいつも上から5段目のところにいる。階段の縁に前脚を乗せて、外柵の隙間から首を突き出している。背伸びをすれば、辛うじて届きそうな犬の首は、いつも同じ方角を向いている。なぜだかは知らないが、いつも西を向いているのだ。「犬が西向きゃ尾は東」と言うが、尾は南を向いている。要するに、向かって右側をいつも見ているわけである。階段の1番上、玄関口付近から、西の方角を見ているわけではなく、わざわざ、外柵から道路側に首を突き出して、西を向いているのである。
たまに向かって左側、東を向くことがある。しかし、それも刹那的と言えるほど束の間の事。次の瞬間には、すでに西を向いている。いつもそこにいるわけではない。時間帯もバラバラ。でも、いる時は必ず西を向いているのである。
すべての事柄に、必然的な原因があるとは思わない。しかし、その犬を見ていると、何か必然的な理由から西を向いているように思われるのである。まるで、何かを待っているみたいに。
太宰治の『待つ』の解釈
何かを待っている?
待つということほど不思議なことはない。そんなことにさえ気付かずにこれまで過ごしてきたことが、また不思議でたまらない。待つという行為の不思議さに気付いたのは、太宰治の『待つ』という作品に触れたからだ。
かの作中に登場する主人公の女性は待っていた。そして、今も待ち続けているのかもしれない。誰かを。いや、「もやもやしている」何かを。それは人ではなく、かと言って、霊的なものや、季節の訪れのような目に見えないものでもない。他の人から見れば、それを「待っている」と言っていいのかもわからない。待っている当の本人さえ何を待っているかはわからないのだから。「待つ」対象がわからないのに、「待つ」ことなど可能なのだろうか?
彼女が待っているものに対する解釈は様々であろう。それは巷でよく言われるような「希望のようなもの」と捉えることも、もちろん、できるかもしれない。
あるいは、単に、彼女が忘れているとも捉えることもできる。本当は何かを待っていた。でも、記憶喪失になった。いつか交わした大切な人との約束を、記憶を失ってまで果たそうとしている。戦時下という特殊な状況で、数少ない人間的なぬくもりを悲劇的に描いているのかもしれない。
そもそも、何も待っていないことも考えられる。彼女だけが「何かを待っている」と思い込んでいるだけで、彼女の元へと来るべきものは何もないのかもしれないのだ。どうして、そのような精神状態になったのかはわからないが、そのような描かれていない行間や余白に想像を巡らせることも、この作品の持つ楽しみ方の一つと言えそうだ。
不条理的な世界観の表れ?
彼女が誰か(何か)を待っていたとして、それが何か分類不能なものであることも考えられよう。作中にあるように、「旦那さま」でも「恋人」でも「お友達」でもない。そういった社会的関係には分類できない誰かを(例えば、お友達以上恋人未満なんて間柄ならそう言えるかも?)、彼女は待っているのかもしれない。
これに関しては、カミュの不条理的な世界観が描かれている可能性が否定できない。読んでいて気になる箇所がある。
いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。
この箇所である。この「もやもやしている」ものは待っている対象ではない、と捉えることができるように思われる。なぜなら、「いったい、私は~」の文と「はっきりした形~」の文との繋がりにおける表記の仕方に違和感を覚えるからだ。もちろん、一つの可能性に過ぎないが、仮に、待っている対象が「もやもやしている」ものであるならば、「はっきりした形のものではない」と書かれるのではないだろうか(主語は省略された形で)?
この場合、「はっきりした形~」の文の主述関係は、前文における目的語の「誰」と表される、待っている対象を示す、隠された「それ」という主語と、「~ではない」という述語から成り立っている。こう表されているのであれば、「はっきりした形のものではない」のが、待っている対象の「誰」であることが、一目瞭然となる。だが、太宰はそのような書き方をしていない。「はっきりした形のものは何もない」と記されている。この場合、文の主述関係は「はっきりした形のもの」という主語と、「ない」という述語から成り立っていると言える。これを厳密に解釈するなら、「いったい、私は~」の文と「はっきりした形の~」の文との直接的な繋がりは見いだせないことになる。後者は単に、普遍的な事柄を表す世界の記述として受け取られるだけだ。そこには、「世界が理性で割り切ることができない」という、カミュの不条理に通じる世界観が表れていると言えるだろう。
誤植である可能性も否定はできないが、そうであったとしても、「はっきりした形のものでは何もない」では意味が通らない。もちろん、「(誰を待っているのか、ということについて、私の頭の中には)はっきりした形のものは何もない」と行間を補って解釈することもできよう。だが、それも結局は解釈の可能性の一つに過ぎないのだ。
主体性の問題
この作品を、特に女性の主体性の問題として解釈することもできる。
彼女は語る。
…、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも落ちつかなくなりました。身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい気持なのです。
そして、「落ち着かなく」なった彼女は何かの衝動に駆り立てられる。だが、国や社会のために「直接に、お役に立ちたい」と思う彼女は、どうすることもできないでいた。
太宰の『待つ』が収められた『女生徒』の初版が発行されたのが1954年。今から60数年も前。男女雇用機会均等法が成立する30年ほども前であり、いわゆる主婦論争(専業主婦論争とは別物)が展開される1955年より以前のことである。残念なことに、当時は女性の社会進出が今日ほど認められていない時代であった。
そんな時代にあって、二十歳の主人公に何ができたであろう?「直接に、お役に立ちたい」という内容が、いかなるものかを知るすべはないので、確定的なことは言えない。だが、社会通念上、容易に想像しうる、当時の国や社会に対する貢献において、何かを為すことが極めて困難であったということは言えるかもしれない。
人が人である以上、主体性は芽生える。女性の社会参画についても、歴史が証明しているし、一個人においても、思春期を過ぎた人間には大いに言えることである。何かをしたい。でも、何もできない。そんな状況で、彼女が為しえたことが「待つ」という行為だったのではないだろうか?
「待つ」とはどういうことか
「待つ」とは行為と言えるのだろうか?
「待つ」という行為は、実に、不思議なものである。なぜなら、「待つ」という行為にあたる事柄が「~ということ」と一概には言えないからだ。「投げる」という行為には、多少の差こそあれ、説明はつく。何かを掴み、あるいは、抱えて、その物を起点となる場所から異なる場所へと放って移動させる、それが投げるという行為である。同様に、「歩く」という行為も、「信じる」という行為も、「笑う」という行為も、すべて説明がつく。
しかし、「待つ」という行為には、それがない。辞書で意味を調べると、「 人・物事・順番などが来るのを望みながら、時を過ごす」といったようなことが書かれてあるが、「時を過ごす」という行為も、説明しづらいものである。寝て時間を過ごす時もあれば、勉強したり、遊んで時間を過ごす時もある。
だが、この場合の行為として示されるべきは、「寝る」、「勉強する」、「遊ぶ」といったものになるのではないか?となると、「時を過ごす」という行為は、具体的に示されるべきものではなく、あくまで形式的なものに過ぎないということになる。
「時を過ごす」というよりも、何らかの行為をしている内に、「時が過ぎていく」と表現する方が、正しいのかもしれない。これは、放っておいても勝手にそうなるという類のもので、何か能動的な動きがあるものではない。果たして、それが行為と言えるのだろうか?
待つという行為の不思議さ
「待つ」という行為の不思議さは、ここにある。行為という言葉には、自ら動いて何かを為す、という能動的な意味合いが(恣意的かどうかは別として)ある。だが、「待つ」という言葉には、そのような意味合いが、必ずしも、含まれるわけではない。何もせず、ただじっとしているだけで、「待っている」と言うこともできる。「待つ」という行為には、その他の行為が本性として持つような能動性が欠けている。
むしろ、その他の行為とは対局的なものとして捉えることもできよう。「待つ」とは、「当の行為者とは他の何か」が「来る(来てもらう)」ことを期待するわけである。そういう意味では、受動的なものと言えるかもしれない。
しかし、この行為が完全に受動的かと言えば、そうではない。ある程度の能動性も見いだせる。例えば、誰かと待ち合わせをする場合、「待つ」ということがどこででもできるかと言えば、そうではない。東京駅で待ち合わせるなら、少なくとも、東京駅にいなくてはならない。京都駅にいても、それは待っているということにはならない。
目に見えない(例えば、時間経過のような)何かを待つ場合、それは期待して時間を過ごすだけだから、心的なものに過ぎないが、目に見える何かを待つ場合、ある程度、場所が限定される。自ら選んで特定の場所にいる、という行為には能動性が含まれる。従って、「待つ」という行為には、ある程度、能動的なところもある。
かつて、僕は「存在する」ということの不思議さについて、エッセイで触れたことがあるが、このような不思議さは「待つ」という行為にも通じるところがある。共に、 能動と受動の境界線で揺らめいているという点において。結局のところ、それらの行為は、能動か受動かという物差しでは測れないのかもしれない。
終わりに
様々な事柄を、これまで当たり前のものとして受け止めていた。その当たり前さを疑うということさえ意識にはのぼらなかった。あの犬は〈犬が西向きゃ尾は東〉でないことを教えてくれた。
もうかれこれ10年近く、西を向き続けている。あの犬は、主人の帰りを待っているのだろうか?それとも、別の何が来るのを待っているのだろうか?ただルーティンとして、日々西を向き続けているだけなのだろうか?好きな匂いの源が西にあるのだろうか?見かける度に、そんなことを想像してしまう。
確かなことは何もわからない。すべてが物差しで測れる訳じゃない。測れないところに面白さがあるというのも事実だ。これから先の人生で、そんな何かが僕を待っていてくれたらいいな、と思う。あの犬のように。そして、そんな素敵な何かを見落とさない感性を身につけなくては。その何かは、きっと、サインを送り続けているだろうから。
(引用はすべて、太宰治の『待つ』より抜粋)
by tetsu
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