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戦争と正義
戦争への緊張
数日前に、ロシアがウクライナ船を拿捕したというニュースが報道された。
(https://www.bbc.com/japanese)
仮初めであるにしろ、平和な日本にいると、実感のわかない話である。
先の大戦以後、日本には戦争を忌み嫌う風潮が高まった。憲法にも侵略戦争の不戦が明文化され、平和を標榜する国として発展してきた。しかし、他国においては、戦争への緊張の高まりは日常的なことなのだと、例のニュースを目にして、改めて気付かされた。
このような例は何もロシアに限った話ではない。中東情勢は不安定で、例えば、近年ではカタールがサウジアラビアなどの周辺諸国と国交断絶したり、イランが同じくサウジアラビアと国交を断絶したという出来事は記憶に新しい。アジアにおいても、日本・アメリカと中国・朝鮮との対立は依然として、続いている。こういった対立が戦争に繋がらないとは断言できない。
戦争と正義
「戦争とは悪と悪との戦いではなく、ましてや正義と悪との戦いでもない。戦争とは正義と正義との戦いである。」
巷ではこのような戦争論(?)が展開されるのをしばしば目にする。これは正義の相対性を意味する。つまり、人の数だけ正義はあるということだ。ところが、正義という言葉を耳にすると、相対的なものではなく、何か絶対的なものを連想するのは僕だけだろうか?
例えば、正義の味方と言えば、ウルトラマンや仮面ライダーを思い浮かべるが、彼らは地球を侵略しようとする敵から世界を救おうとするヒーローである。勧善懲悪のプロパガンダのせいか、彼らを悪と見なし、敵視する人は恐らくいないだろう(よほどのへそ曲がりか天の邪鬼なら話は別だろうが)。
つまり、多くの人が、ヒーローの敵である宇宙人や怪人に正義があるとは考えない、ということである。
ひょっとすると、子供の頃からこのような勧善懲悪のプロパガンダに毒された(?)せいか、正義をどこか絶対的なものだと捉えてしまうふしがあるのだ。
しかし、このような正義観は必ずしも正しいとは言えないのではないだろうか?例えば、侵略しようとする宇宙人や怪人にも守るべき愛する人(?)や仲間が、夢や信念があるかもしれない。故に、それらすべてを一括りにして悪と断ずるには、やはり抵抗が生じる。
『機動戦士ガンダム』、『北斗の拳』などの名作には魅力的な敵キャラが登場する。それは彼らが完全な悪とは言えないからである。彼らには信念がある。ただそれが主人公側の信念と折り合えないから衝突しているだけであって、決して、彼らが絶対悪だから戦っているわけではない。
あるいは、本来なら悪であるはずの敵キャラ自体にスポットライトを当てて、実に魅力的に描いている『憂国のモリアーティ』といった作品もある。これは、これまで悪として描かれてきた側にも確かな信念があり、その信念に基づいて行動しているということを示唆している。
勿論、正義と呼ばれる肯定的なものにも悪のような負の一面が存することを忘れてはいけない
例えば、Mr.Childrenの不朽の名盤『Q』に収録されている「everything is made from a dream」という曲には次のような歌詞がある。
夢って
あたかもそれが素晴らしいもののように
あたかもそれが輝かしいもののように
僕らはただ賛美してきたけれど
実際のところどうなんだろう?何十万人もの命を一瞬で奪い去った核爆弾や細菌兵器
あれだって最初は名もない化学者の純粋で小さな夢から始まっているんじゃないだろうか?
そして今また僕らは僕らだけの幸福のために科学を武器に生物の命までをもコントロールしようとしている 引用:Mr.Children「everything is made from a dream」より
夢とは美しく、素晴らしいものだと肯定される傾向があるように思われるのだが、この歌詞はそのようなものの見方に一石を投じる金言だと、個人的には思っている。
こういったことを考えると、自分があくまで一面的なものの見方しかできていないということに気付かされる。ものごとには、様々な見方がある。大切なのは、そのような多面的なものごとを、様々な角度から捉えようとする姿勢なのだろう。
ならば、「戦争に正義はあるか?」と問われれば、「ありうる」と答えざるをえなくなる。だが、平和な国に住む者としては、否定したいというのが心情だ。その齟齬はどこから生じるのか?この問いに答えるには、正義という言葉の意味を考える必要がありそうだ。
これからの正義の話をしよう
マイケル・サンデルの語る正義
「正義とは何か」という問いを考えるに当たって、参考となる著書がある。マイケル・サンデル著『これからの正義の話をしよう』である。
本書は「正義とは何か」という問いに、直接的で明確な答えを示しているわけではないが、アリストテレスからカント、ミル、ベンサムまで古今の哲学者の思想を丁寧に説明しながら、読者にとって「正義とは何か」という思索の、霞がかった獣道の道標となってくれている。
詳述は控えるが、論旨は以下のように展開される。
1.幸福について
2.自由について
3.美徳について
幸福について、サンデルはジェレミ・ベンサム提唱する「最大多数の最大幸福」の原理についての、功利主義についての批判を展開する。
多くの人の幸福のためならば、少数者の犠牲は致し方ないとベンサムは考えるであろうが、サンデルは感覚的に正義とは言い難い、非日常的でグロテスクな例を引き合いに出し、功利主義を批判する。
そして、その功利主義的欠点を補う意味で、個人の自由の概念を正義と結び付けようとする(厳密に言うと、リベラリズムやリバタリアニズムなどの異なる考えがあるが、ここでは割愛させていただく)。しかし、その自由の概念においても、やはり、感覚的には決して受け入れることのできない非日常的な例を引き合いに、美徳的な視点の欠如を指摘する。
こうして、サンデルの正義論は道徳へと向かっていく。結論としては、答えとしての何かを明確に打ち出したわけではないが、それでもこの著書は優れていると思う。正義というあまりにも漠然とした抽象的テーマを、様々な哲学者の立場や考えを体系的にまとめ、暗澹たる思考の海辺に灯台の明かりを誘導灯のように灯した点において。
コミュニタリアン(共同体主義者)と言われるサンデルの結論としては、ユーティリタリアニズム(功利主義)、リベラリズム(自由主義)、リバタリアニズム(自由至上主義)などから捉えられる正義には問題があり、コミュニタリアニズムの視点から正義の概念を捉え直そう、というものである。
正義の意味
サンデルはその著書において、「正義とは何か」という問いを考える手がかりを与えてくれたことは間違いない。その意味でこの著書は評価されるべきなのだが、はっきりとした答えが見出されてはいないということも否定しがたい事実である。形而上学における茫漠たる海原に幾つかの航路は見出したものの、どこに正義の島が存在するかという点においては、何も示されていないように思われるのである。
今更ではあるが、「正義」という語意を辞書で調べてみよう。辞書をひくと次のように述べられていた。
1 人の道にかなっていて正しいこと。
2 正しい意義。また、正しい解釈。
勿論、一般的な正義論における意味合いは前者であろうが、言葉の意味を決する上で、後者も無視はしがたい。
両者に共通して言えるのは、「正しい」ということである。ということは、正義という言葉の根幹には、どうやら「正しさ」があるようだ。
では、「正しさ」とは何を意味するのか?
正しさとは何か
語意
「正しい」という言葉の意味は以下のように記されてある。
1 形や向きがまっすぐである。
2 道理にかなっている。事実に合っている。正確である。
3 道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。
2と3で「かなっている(適っている)」とあるが、これはどのような意味か?
1 (適う)条件・基準などによく当てはまる。ぴったり合う。適合する。
これを「正しい」という語の意味で考えると、どうやら「正しい」とは「道から逸れたり乱れたりせず、ぴたりと当てはまっている」という意味になりそうだ。
では、その「道」はどこから始まる道なのか?それは論理でいうところの前提であり、我々が立場や主義を決定する際に第一義的とする何かである(それを価値観と言えばそうなるのかもしれないが)。
品詞
もう一つ忘れてはならないのが、「正しさ」の品詞である。これは「正しい」という形容詞から派生した名詞であり、従って、それ自体が何らかの実体を伴うものではない。
肝要なのは、正しいと言う場合には何か正しいとされる対象が必要であり、それ自体が対象ではないということである。
そう考えると、「正義とは何か」という問いにどこか違和感を感じずにはいられなくなるのである。
正義とは何か
行為における正義
以上のように考えると、正義の輪郭が朧気ながらも見えてくる。
正義とは、それ自体には実体はなく、行為などの対象に付随する性質である。そして、それが正義であるかどうかは、その行為乃至はそれによってもたらされる現象が、第一義的とする前提から外れていないかどうかによって判断されるものである。僕はそう思う。
例えば、5人の漂流者のいる難破船において、4人が生き残るために1人を犠牲にするという行為は、生存を第一義的として、公平なくじ引きなどでその1人を選出したならば、正義となりうるかもしれない。勿論、日常的な感覚からすると、それは正義とは断じて言えない。または、他に生存方法がある場合や、ある種の道徳的判断とも言える前提を第一義的とするならば、それは正義ではなくなる。
だが、このように考えると、恐ろしいことに、戦争さえもが正義となりうる。ある国の領土の拡張や植民地化が第一義的とされる場合、その実現方法として、正義の戦争が行われるのである。
存在者における正義
それでは、ある存在者に対して、それが正義かどうかは判断できるか?
例えば、あるクローン技術によって生み出された生物の存在が正義かどうかは判断できるかもしれない。自然にありえない生物を人間がいたずらに生み出すべきではないという前提を第一義的とするならば、その存在は正義とはなりえない。だが、そもそも人間という生き物が、そのような技術を用いることを本性(ほんせい)とするものだと考えると、クローン生物の存在は正義たりうる。
では、ある行為者としての存在者の正義は判断できるだろうか?それは難しそうだ。なぜなら、正義の判断はあくまでその行為に対する判断であり、その行為の主体に対して行われるべきではないからである。
仮に、そのような判断が可能である存在者を考える場合、その行為が常に正義たりうる主体を我々は規定しなければならないが、そのような神仏のごとき存在者を現実的に認められるわけがない。何より、正義の判断が、ある程度恣意的に規定しうる第一義的な前提に依拠する以上、客観的に絶対視される正義など存在しないように思われるのである。
これからの正義を考えるために
第一義的とされる前提が相対的である以上、正義もまた絶対的ではない。絶対的な正義があるとするならば、万物に対して認められるような前提が要請される。
しかし、実情はそれほどやさしくはない。アメリカの正義があれば、中国の正義もある。資本家の正義もあれば、労働者の正義もある。
大切なのは、何が行為や存在者として正義かということを考えることではない。そんなものは存在しないだろうし、見つかったと思っても、非日常的な例によって粉砕されるのがオチである。
それでも、普遍に近い「正義」を見つけ出そうとするならば、存在一般についての不可避ともいえる、宿命づけられた第一義的前提を発見するか、あらゆる者が積極的に認めたくなるような前提を模索するしかない。
そのような意味で、社会性が人間にとっての本性であると捉えうるコミュニタリアニズム的視点から正義を再考しようとしたサンデルは正しかったのかもしれない。
しかし、重要なのは、何が正義かを考えたり、個々の事例を判断することではない。何かが正義と判断されるために受け入れられるべき前提(時には立場であったり、時には価値観であったり)を見つめ直すことこそが肝要なのであり、立つ瀬を確認できてはじめて、正義かどうかの判断も可能となるのである。
by tetsu
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