最強の格闘技は何か―少し哲学的に考えてみた

はじめに…

この記事は男の妄想全開のやや暑苦しいものとなっております。ある種の哲学的思索の試みではありますが、恐らく多くの女性の方には無関心な分野の記事となりますので、ご覧いただく際にはご注意下さい。

 


「最強の格闘技は何か」という問い

最強の格闘技は何か?男なら一度は考えたことのある問いだろう。世には様々な格闘技がある。空手、柔道、柔術、ボクシング、レスリング、ムエタイ、ジークンドー、カポエイラ、テコンドー、拳法、クラヴマガ、サンボ…数え切れないほどの格闘技が世の中には存在している。

(相撲は神事だと個人的には思っているので除外します)

俺たちが幾ら考えたところで結論など容易に出てきはしない。そんなことは百も承知だ。それでも考えずにはいられない。なぜなら、俺たちが男だからだ!

ここでは「最強の格闘技が何か」ということの答えを出すのは控えさせていただく。というか、そもそも無理だ。取り敢えず、その答えの一端は、あるトーナメントの結果に委ねることにする。

(だから、木多○昭サボらず漫画描けよ)

それでは、何を考えようというのか?それは「最強の格闘技は何か」という問いそのものについてである。

 


様々な要因

個々の能力の違い

最強の格闘技が何かを決めるのが、難しいのは、様々な要因が複雑に絡み合うから、ということが考えられる。その内の一つが個々の能力である。

言うまでもなく、格闘技とは抽象的な概念である。空手さんとボクシングさんが戦うわけではない。当然、戦うとなると、空手を身につけた人間とボクシングを身につけた人間との肉体同士のぶつかり合いになる。

だから、ここで勝敗を決するのは個々の能力によるところが、必然的に大きくなる。空手の、黒帯とは言え、初段の人間とボクシングの世界王者が戦えばどうなるかは想像に難くない。では、それでチャンピオンが勝ったからといって、格闘技としてボクシングが優れているのかというと、そうではない。この場合は、単にチャンピオンの格闘技に対する経験や習熟度が勝っていたと考えることもできるのである。逆もまた然り。ボクシング習いたての人間とウィリー・ウィリアムスが戦えば、結果は火を見るより明らかだろう。

個々の能力による決着を避けるなら、例えば、それぞれの格闘技の強さランキングトップ100(客観的指標によって測れるもの)をぶつけ合って、勝ち数が多い方が優れている、とする他はないように思える。譬え、そういった方法が可能だとしても、強さランキングなど「時代によって違う」などという疑念を差し挟む余地は残されるのだが…

 

状況の違い

具体的な身体を持った人間同士の戦いであるなら、当然、戦う状況も具体的でなければならない。場所は?柔らかい土の上なのか、コンクリートや岩場の上なのか、あるいは水中なのか。格好は?防具をつけているのか、裸なのか、あるいは服は着ているのか。

例えば、柔道の達人と戦う場合、服を着ていればそれだけ捕まりやすくなるので、投げられる可能性は飛躍的に高まる(ヘクター・ドイルのように武装していれば別かもしれないが)。かと言って、戦いの場が柔らかい土の上やマットの上では投げの威力は半減する。柔道における投げの真価は、コンクリートなどの固い場でこそ発揮される。経験者の俺が言う。間違いない。コンクリートや岩場などで投げを喰らうと、まず行動不能なほどのダメージを受ける。てか、下手すれば三途の川を渡ることになる。しかし、膝まで水に浸かりそうな場所で投げを喰らったところで、投げ自体のダメージはさほど大きくはないだろう。

このように、状況によって技の威力が違う以上、そういった考慮をせずして、一概に何が最強かは決められない、というのが実情だと思う。

 


最強の格闘技?

以上のように、最強の格闘技を決める難しさというのは、その要因の多さに依るものである。「誰が戦うか」ということが重要であり、「どこで戦うか」ということを語らずして、問題を解決することはできない。

それでも、最強は何か?と問われれば、総合格闘技と言わざるをえないだろう。それは歴史が証明している。例えば、UFCなどの総合格闘技の歴代王者に打撃しかできない選手など聞いたことがない。王者ともなると、キックボクシング、柔術、レスリングなど、様々な格闘技に精通しているものである。どれほど伝説的な強さを持つ王者とはいえ、メイウェザーがかつてUFCのリング(正確にはケイジか)を避けたということも致し方のないことなのだ(ボクシングルールなら勿論、UFC選手に勝ってますけどね)

逆に、投げや寝技しかできない人間でも頂点に立つことは難しいだろう。柔道の金メダリストが、世界トップクラスの総合格闘技で王者になったということも、やはり聞いたことがない。総合におけるパウンドを含む打撃も、勝つためには非常に重要な技術の一つなのである。

尤も、総合格闘技というものが、一つの「格闘技」か?と問われれば、返答に窮するのも事実だ。総合格闘技とはあくまで、打撃、組み技、寝技などを駆使した格闘技の総称である以上、総合を格闘技の一分野としていいものかどうかは一考の余地がある。

 


打撃と寝技の違い

打撃の進化

打撃系の格闘技も世の中には数多くある。空手、ボクシング、キックボクシング、ムエタイ、ジークンドー、散打、サバット、カポエイラ、テコンドー等々…

正直、リングやケイジの中で戦うなら、総合格闘技が最強だと、俺は思っている。それほどまでにパウンドを含む寝技は相手を倒す手段としては優れているからだ。にも関わらず、人類史において、立ち技の打撃に特化した格闘技が進化してきたという事実は看過できない。

護身術として進化してきた打撃系格闘技というものもある。上述した例で言うなら、サバットなどがそれにあたるとされている。それは相手に屈しない強さが求められたからである。当然、相手をただ倒すためだけに進化してきたものもあろう。だが、いずれにしろ、強さを求めるという点においては共通している。

問題なのは、立ち技における打撃が強さの一つの形として求められた、という点にある。それほどまでに、相手を倒すという点においては、パウンドを含む寝技が、合理的だと感じられるからだ。ただ相手を倒すことだけを考えるならば、寝技、組み技に偏った総合格闘技的な技術を磨けば良いではないか?

 

打撃と寝技の違い

ここで打撃と寝技の違いについて考えてみよう。相手を確実に仕留めることの確度?ラッキーパンチのように運に左右されやすいか否か?いくらか考えられるかもしれないが、俺の考える一番の違いは「身体の接触頻度」である。

確実に相手を仕留める確度で考えると、寝技は理に適っている。確実に意識を飛ばすために首を絞める。あるいは、確実に相手の身体にダメージを与えるために関節を破壊する。この場合、相手とは常に接触していることとなる。

片や、立ち技での打撃ではどうか?こちらの場合、相手との接触はほぼないといっても差し支えない。接触があるとすれば、相手を殴る、または蹴る瞬間に、打撃箇所が接触するくらいである。最も接触頻度の高いもので、ムエタイの首相撲だろう(ボクシングのクリンチは逃げの手段なので、ここではカウントしない)。だが、立ち技格闘技でそれほど相手に密着するということは極めて少ない。

この両者の違いが何を意味するか?リスクである。怪我を負うリスクが両者では大きく異なると考えられるのだ。

 

身体接触によるリスク

相手と身体を接触させるということには大きなリスクが伴う。なぜなら、自分に対する相手の行為が直接影響を与えやすいからだ。例えば、腕ひしぎ十字をかけたとしよう。すると、ルール無用の戦いの場合、腕ひしぎをかけられた人間は相手の脚に全力で噛みつくことができる。あるいは、残された手の方で相手の足の指や爪に対する攻撃をすることが可能かもしれない(「蝶形(ちょうなり)」で真島クンにすっとばされない限りは)。あるいは、寝技の応酬の際に、目や金的に対する直接攻撃がかけやすくなる。

ところが、立ち技ならばそうはいかない(勿論、寝技ででも簡単にはいかないが…)。相手と接触すること自体が少ないので、攻撃自体が当たらないからだ。回避可能性という点において、立ち技は優れているのである。

これが何を意味するか?寝技では、相手を倒したとしても何らかの負傷を負う可能性が極めて高い、ということである。

 

ルール無用

当然のことながら、最強の格闘技を決めるならば、ルールは無用でなければならない。ルールを設定した時点で、そのルールが適用可能な格闘技が強いに決まっている。ボクシングルールならば、ボクサーが強いのは当たり前のこと。

となると、相手は文字通り、必死で向かってくる。なぜなら、ルール無用とは、命の危機を意味するからだ。必死で向かってくる相手と組み合って、無傷で済むなど考えられない。

相手は組み合った瞬間から、どんな手を使ってでも、こちらの身体の破壊を考え、即実行してくるだろう。そして、そのすべての攻撃を回避して無傷でいることなど許されない。実力がある程度拮抗しているならば、尚更である。

そして、身体接触の頻度の高いルール無用の戦いを終えて残るものは、倒された相手と負傷した自分である。

 

打撃のメリット、寝技のメリット

寝技は確かに相手に確実なダメージを与えられるというメリットがある。だが、リスクとリターンは等価というもの。それは裏返せば、自分も確実にダメージを与えられるということである。また、複数人数を同時に相手しなければならない場合は、寝技は適さない。

その点、打撃にはそういう意味での厳しさが、比較的ない。戦いである以上、怪我をするのは当たり前のこと。しかし、キレイに打撃がきまると、相手は僅かな間とはいえ、意識を失うことになる。あとは煮るなり焼くなり好きにすればいい。勝利した後でも比較的軽傷ですむ可能性がある。そういう意味では、打撃にも十分メリットがある。

だが、打撃に特化していると、寝技に持ち込まれたら何もできなくなる。そういう意味で、打撃系の闘士と寝技系の闘士がタイマンで戦った場合、やはり、寝技系の闘士の方に分があると俺は思っている。

では、組み技、寝技を含む格闘技が最強と断じても構わないのだろうか?

 


最強とは何か?

最強とは

最強の格闘技は何か?当たり前のように発するこの問いに何の疑問も持たなかったが、そもそも最強とは、あるいは強さとは何なのか?「強い」という語を辞書で調べると以下のような意味が出てくる

① 力量や技量がすぐれている

② 丈夫で物事に耐える力がすぐれている。抵抗力がある。

(https://www.weblio.jp/content/%E5%BC%B7%E3%81%84 参照)

ここでは①の意味は当てはまらない。なぜなら、異なる格闘技における力量や技量は同一の指標において計りうるものではないからである。ということは、②の意味で考えなければならない。仮に、抵抗力がある、つまり「屈しない」という意味で強さを捉えるならば、最強とは「何ものにも屈しない」ということになろう。

今回の問題に即して、正確に言うならば、「あらゆる格闘技の中で最も屈することなくあり続けられる」となるだろうが、当然、時間や場所に限定されるものではない。つまり、「最強」の名を冠するものは、いついかなる時でも屈することなくあらねばならない、ということになる。

 

常在戦場

いついかなる時でも…この言葉の恐ろしさは、マホメド・アライJrが渋川剛気や愚地独歩にこてんぱんにされたことからもわかるように、戦いによって負傷した時をも、当然のことながら、含んでいるというところにある。

負傷するということは、戦力の著しい低下を意味し、すなわち、更なる負傷のリスクを高めることをも意味する。従って、常在戦場である以上、ある程度のパフォーマンスが可能であるということが、極めて重要だと言える。

譬え、全盛期のマイク・タイソンであっても、両腕が完全に破壊されていれば、ある程度格闘技を習得した人間ならば、倒すことはそう難しくはないはずだ(それでも俺は勝てる気がしないが…)

 

最強であるには

さて、以上のことから、最強であるということがいかに至難の業かということが察せられよう。確かに、組み技、寝技系の闘士は強い。打撃系の闘士を瞬殺する様を、リングで幾度となく目にしてきた。しかし、常在戦場、ルール無用となると、負傷リスクが高く、複数人数を相手にできないグラップリングが強いかと言われれば、首を傾げざるをえない。

こう考えると、なぜ人類史において立ち技の打撃系が進化してきたのかがわかる気がする。複数人数を相手にすることも可能だし、戦いによる負傷のリスクを軽減させることも可能なのだから。かと言って、タイマンで寝技に持ち込まれると不利だということも認めざるをえない。

 


まとめ

何事にもメリットとデメリットがある。リターンを求めるのであれば、リスクを許容しなければならない。問題はそのバランスである。

最強という言葉の定義を「いついかなる時でも、最も相手に屈することなくあり続けられるもの」とするなら、総合格闘技の戦術が、一つの格闘技と呼ばれるほどに体系化され、歴史に刻まれると(まあそれを現代でいうところのMMAとなるんでしょうけど)、それが最強の格闘技となる可能性は高いだろう。

だが、そのような総合格闘技においても、一つの戦闘においては、打撃で倒すのか、寝技で倒すのか、という選択が常に付きまとう。その成否は格闘技の種類に依るというよりも、その戦術を選択する個人の判断力に依るところが大きいのではないだろうか?だとするなら、「何が最強の格闘技か」という問いは、結局、個人の力量に左右されるという結論に至ってしまう。それはつまり、当の問い立てが問いとして無意味なものに堕することを意味するのである。

特殊的にしか語りえぬものを一般的に語ろうとする撞着に陥っている可能性は否定できない。だとしても、かの問いが男の夢であり、ロマンでもあるということにはなんら変わりはない。いずれにしても、この問いに対する答えを出すためには、あるトーナメントがどのような決着を迎えるかを心して見守りたいと思う。

 

最強の格闘技は何か!?

ルールなしで戦った時…

スポーツではなく目突き・金的ありの『喧嘩』で戦った時

最強の格闘技は何か!?

その答えの一端がこのトーナメントでわかる

 


追記(2019.6.16)

先日、YouTubeにて塩田剛三の動画を観た。氏は身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格でありながら、ヘビー級の相手をドッタバッタと投げまくっていた。何なら10人近くの猛者を同時に相手にしながら、投げまくっていた。噂には聞いたことがあるが、改めて見てみると、その光景は圧巻そのもの。凄さを通り越して、笑いさえ込み上げてくる。

当時、アメリカ大統領だったケネディの前で、懐疑的だった大統領のボディガードを相手に苦もなくねじ伏せてしまった話はあまりにも有名である(当時の映像が今でもYouTubeで閲覧可能)。

これまた有名な話ではあるが、氏は『グラップラー刃牙』シリーズに登場する渋川剛気のモデルでもある。その実力は武の達人渋川剛気そのものと言っても過言ではない。当時の映像や、まことしやかに囁かれる氏の噂を見聞きすることが真実であるとするならば、合気道という武道にはそれだけのポテンシャルが秘められているということであろう。

氏が高弟子に語ったことをオブラートに包んで言えば、合気道の極意とは自分の敵と友達になることらしい。いや、そんなんできたら確かに最強でしょうよ。また、氏は『日常、それ即ち武道』を信条としていたというが、「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」とも語り、護身術としての武道の意義を説いていたという(Wikipedia参照)。

自ら争いを生まず、敵とも友達になり、和合を見出す護身の武。これって最強ですよね?

by    tetsu

2 件のコメント

  • コメント失礼します。

    圧倒的な文章量。格闘技に対する熱量、この記事は筆者がどれだけ格闘技を好んでいるのかをものすごく分かりやすく伝えます。
    失礼ながら、個人的には本章よりも追記の方が、私が刃牙を知っていた、塩田剛三についても知っていたこともあり、印象に残りました。
    最後の締め、「自ら争いを生まず、敵とも友達になり、和合を見出す護身の武。これって最強ですよね?」は心に刺さりながらも、やはりそれだけでは足りない。やはり自分の我儘を押し倒す強さがこれからも、この先数億年も、必要なのではないだろうか、そう思いました。
    ただ昨今はもはや常識ですが、インターネットの普及により戦い方がより知性を求める形になり、”分かりやすさ”が失われていると感じています。
    ただ今私は29歳と数ヶ月、まだまだ私には”押し通る”ための強さが必要だなあと、職場で少し揉めた後にこの記事を拝見し、勝手に思わされました。

    私もブログをやっているということもあり、この記事に熱量を感じたため、コメントさせていただきました。

    • あじぽん様
      コメントいただきありがとうございます。また、冗漫な長文であるにも関わらず、最後までお読み下さり、ありがとうございました。
      当方、格闘技は好きで、子どもの頃からよくテレビで観ていました。「和合を見出す護身の武」という見方は、「最強の格闘技は何か」という問に対しては、ややメタ論的で、変化球のようなものであるという認識はあったのですが、やはり一概には言えないということで、曖昧ながらも、取り敢えずの結論とさせていただいた次第です。
      あじぽん様の仰るような、我が儘を押し通す強さという考えには共感を覚えるところがあります。喩えるなら、範馬勇次郎のような強さでしょうか。『北斗の拳』で言えば、ラオウのような強さでしょうね。私も大いに憧れます。ただ、興味深いのは、範馬勇次郎と違い、ラオウはその強さの社会的なあり方(彼の場合ですと、乱世を治める手段として、ということになりますが)に、心の奥底では否定的な思いを抱いていたということでしょう。彼は、恐怖で統治するという自身のやり方が間違っているという認識が薄々ありながらも、止めることはできなかった。だから、誰かの拳で倒されることを願っていたのです(という解釈があったはずです)。そこには、人生における強さと社会のあり方を考えさせる、含蓄ある何らかのメッセージが込められているのではないでしょうか。
      少し話が逸れて申し訳ありません。しかし、現実社会に関しても、「強さとは何か?」ということは考えるに値する問題かもしれませんね。長々と失礼しました。

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