日本史における有名な「乱」というと、応仁の乱とか壬申の乱とか島原・天草の乱などが挙げられるでしょうか?一方で、有名な「変」というと、本能寺の変、桜田門外の変、禁門の変などが挙げらますね。この「変」と「乱」にはどのような意味の違いがあるのでしょうか?
twitterでは、「乱」が失敗したクーデターで、「変」が成功したクーデターという謎な解釈がされていましたが、これは明確な間違いです。例外が多すぎますしね。壬申の乱では反乱側(大海人皇子)が勝ちましたし、禁門の変では反乱側(長州藩)が負けましたからね。このように、物事をsimpleではなく、easyに捉えてしまうと大きな間違いに繋がることがあります。
というわけで、今回は「変」と「乱」の違いについて、easyではなく、simpleに説明していきたいと思います。
目次
乱の定義
学習院大学の安田元久さんは「乱」を次のように定義しています。
- 政治権力に対する武力による反抗、すなわち叛乱事件として
- 政治権力の収奪による内乱状態
1つ目の項目に代表されるのは、保元の乱・平治の乱です。2つ目の項目に代表されるのは、承久の乱・応仁の乱です。さて、この二つの定義は一体何なのでしょうか?
それは、政治権力の主体が切り替わるかどうかの問題です。
現代的に分かりやすく言えば、政権交代は1に当たりますし、大政奉還は2に当たります。政権交代をしても、日本国の主権が国民にあることは変わりませんからね。一方で、大政奉還では、主権者が徳川家から天皇家に変化しました。
保元の乱も平治の乱も朝廷内での争いですからね。そのため、政治権力の主体である朝廷に変化はありません。つまり、先ほどの定義で考えると1に分類されるわけですね。一方で、承久の乱は後鳥羽上皇が北条義時に挙兵しました。つまり、政治権力の主体を幕府から朝廷に取り戻すための反乱なわけです。だから、先ほどの定義で考えると2に分類されるわけです。
まとめると、政治権力に対する武力を伴った反乱と言えます。政治権力は、権力側の集団と反権力側の集団の戦いになります。それゆえに、戦いは断続的に続き、基本的には一進一退の戦いになります。
変の定義
そして、「変」を次のように定義しています。
- 政治権力者たる天皇・皇族、あるいは将軍などが獄逆・配流などに遭い、(一つの立場から見て)不当な立場に置かれた事件
- 政治上の対立による陰謀事件
1つ目の項目に代表されるのは、本能寺の変や正中の変です。2つ目の項目に代表されるのは、応天門の変です。
権力者が不当な立場に追いやられることを指しています。だから、時の政治権力者である織田信長が不当な立場に追いやられた本能寺の変は1に該当するというわけです。
ちなみに、承久の乱は、承久の変とも呼ばれていた時期ありました。それは、明治~昭和初期(戦前)のことです。この時代は、天皇主権の時代だったので、幕府に対する天皇側の反乱では都合が悪かったわけです。天皇側は常に正義でなければならないわけですからね。だから、政治権力者たる天皇が不当な立場に置かれた事件。つまり、承久の変と呼んだわけです。
一方で、2は政治的な権力闘争の結果として現れる陰謀事件です。一般的には、朝廷や幕府内における内部対立が激化して、それが大きな変化として表面に現れたときに「変」という名前がつきます。以前の自民党による派閥政治に近しい部分もあるかもしれませんね。
乱と変の違いとは?
先ほど説明したように、「乱」は政治権力に対する武力を伴った反乱のことです。一方で、「変」は権力者が不当な立場に追いやられることまたは、政治権力内における内部抗争のことです。つまり、「乱」と「変」はそもそも似通ってものではなく、全くの別物ということです。
ただ、「乱」が失敗したクーデターで、「変」が成功したクーデターと勘違いする気持ちも分からなくはありません。なぜなら、「乱」は大抵失敗し、平定されるからです。そりゃ、反乱側よりも権力側のほうが武力が上ですからね。天草・島原の乱などが顕著な例として挙げられますね。それと比較して、「変」には成功しやすいイメージがありますからね。たぶん、本能寺の変があまりにも有名すぎるためでしょうけど…
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