「塵も積もれば山となる」という言葉は、ビジネスシーンや人生訓などで耳にすることが多いかと思われます。日常生活でも、節約したりする時に使いますよね。座右の銘にしたいと言う人もいるくらい、良い意味で用いられる事が多いのですが、悪い意味でも用いられる事も稀にあるようです。この言葉の語源は何だったのか?そこから、「塵も積もれば山となる」という言葉の意味について、考えていきましょう。
目次
「塵も積もれば山となる」の語源
元々は、『大智度論 』(だいちどろん)に依るものとされています。『大智度論』とは、『摩訶般若波羅蜜経』(まかはんにゃはらみつきょう。「大品般若経」とも呼ばれる)に対する、百巻にも及ぶ注釈書ですが、その中に次のような記述があるようです。
「譬えば微塵を積みて山と成せば、移動するを得べきこと難きが如し。」
わかりやすく説明すると、「たとえば、小っちゃいチリみたいなものを積んで山のようにすると、動かそうとしても難しいようなもの」ってことですね。
この記述、元は煩悩についてのものらしいです。煩悩を生み出す心は、そのたびにそれに対する報いを受けるそうです。その報いが小さなものであっても、積もり積もれば山のようになります。苦しみの此岸から安らぎの彼岸へと向かうとき、その山のように積もった報いが重しとなって、渡るのが困難になる。そういった意味だそうです。だとするなら、語源的には「塵も積もれば山となる」は、悪い意味で用いられていたということになりますね。
良い意味・悪い意味での用法と具体例
良い意味での用いられ方
どちらかと言えば、良い意味で用いられることが多いかと思われます。私自身も、良い意味の言葉だと思ってきました。「 コツコツと小さな事でも積み重ねていくと、大きな事を成せる」だとか「 大きな力となる」といった意味で用いられますよね?良い意味では、次のように用いられます。
・彼は英単語を1日に5個だけ覚えているらしい。たった5個ずつでも、塵も積もれば山となる、だ。1年も経てば、1800個以上もの英単語を覚えることになる。
・弟が新しい自転車を買うために500円貯金を始めていた。塵も積もれば山となるように、何年も続けていけば、やがてはバイクを買うことさえも夢ではなくなるだろう。
・塵も積もれば山となる。たった100円でも、震災の義援金に寄付しよう。
悪い意味での用いられ方
かたや、悪い意味で用いられることもあるようです。良い意味で用いられるよりは少ないと思われますが。
基本的な意味に大差はありません。「 小さな積み重ねが大きなものとなる」という意味です。ですが、こちらはネガティブな事柄に関して用いられます。
・一日のうち、一時間怠惰に過ごしたとしよう。すると、一年間で365時間を無駄にすることなる。塵も積もれば山となる。実に、二週間以上もの間、何もしていないことと変わりないのだ。
・消費税が8%から10%に上がるらしい。たった2%と侮ることはできない。塵も積もれば山となる。月に20万円の支出(税抜き)があるとしたら、消費税によって出て行くお金は1万6千円から2万円となり、4千円も増えることになる。その額は、年間で5万円近くにものぼるのだ。
いずれも、小さなことでも、積み重ねていけば、大きな痛手に繋がるという意味で用いられています。これらは「小さなことでも侮るな」という警句であり、裏を返せば、「小さな無駄(と感じられること)でも、有効に活用することはできるよね」というポジティブな言葉として受け取ることもできるでしょう。
「塵も積もれば山となる」の誤用について
条件を満たすこと
この「塵も積もれば山となる」ですが、稀にネガティブな意味で用いられることがあるとはいえ、私自身も座右の銘にしたいくらい素晴らしい言葉だと思います。一昔前に流行った日本の精神である「もったいない」に通底する言葉ですね。
しかし、いかに素晴らしい言葉であるとはいえ、誤用してしまえば、言葉の持つ精神性は台無しになってしまいます。これは料理に似ていますね。どれほど新鮮な素材が揃っていても、肝心の料理人の腕が良くなければ、宝の持ちぐされですから。
「塵も積もれば山となる」は仮言命題です。仮言命題とは、 2つの定言命題(主語と述語からなる単純な命題。命題とは、判断内容を表す文のこと)を条件づけによって1つにした命題のことです。この場合の条件づけとは、「塵も積もれば」のことです。「塵も積もれば~」が誤用されるのは、この条件づけが蔑ろにされることが原因であると考えられます。
「山となる」のは「塵が積もる」という条件が成立する時です。当然ですが、塵は積もらなければ山とはなりません。つまり、この言葉が適用できるのは、積もることのできるものに対してだけなのです。
変質しないこと
「積もることができる」のは、何も物質的な「物」に限りません。目に見えないものでも、例えば、経験などはその個人において蓄積することができると思います。知識もそうですね。経験や知識を蓄積させていくことで、人は成長していくのです。
逆に、目に見える「物」だからといって、蓄積できるかと言えば、必ずしも、そうとは限りません。例えば、保存食ではない食べ物のように、腐ってしまう物はどうでしょう?いくら積もることができるからと言っても、長い間蓄積していくことは難しいでしょう。腐ってしまっては食べ物として活用することはできません。それでは積もる意味もなくなります。まあ正確には、「貯めることができない」ということになるのでしょうが、せっかく積み上げた食べ物の山も、食べられなくなってしまってはただのゴミの山と化すばかりです。
従って、積み上げられたものが山となるために重要なことは、そのものが変質することなく積み上げられる、ということなのです。
時間について
さて、「塵も積もれば山となる」が誤って用いられるのは、時間に関して見受けられるように思われるのですが、そもそも、時間とは積み上げられるものなのでしょうか?かの吉田松陰は次のような名言を遺したと言われます。
一夜一時を怠らば、 百歳の間三万六千時を失う。
これはその通りだと思います。先程も述べたように、積み上げられるのは目に見えるものばかりではありません。目に見えないものでも、積み上げることはできるのです。
とは言え、ここで積み上げられるのは時間そのものというよりは、その時間でできる経験やそこから得られる知識ということになるでしょう。そういう意味では、〈実行の人〉である吉田松陰らしい言葉ですね。
このような表現における、時間に関するアプローチは間違ったものではありません。「塵も積もれば山となる」も適用できるものと思われます。しかし、次のような場合はどうでしょう?車の運転をめぐるある2人の会話です。
A「信号が黄色に変わるよ。止まった方が良いんじゃない?」
B「構うもんか。ここの信号は長いんだ。2分間も待たされるんだぜ。黄色のうちに無理してでも渡っといた方が良いのよ。待ち時間もバカにはできない。塵も積もれば山となる、だ。信号待ちを百回回避できりゃ3時間半近くも節約できることになる。その時間でどれほどのことができると思う?たかが2分と侮ることなかれ。」
A「道路交通法的には問題あるけどね。」
さて、このような「塵も積もれば~」の使い方は正しいと言えるでしょうか?答えは否です。
もちろん、3時間半近くも時間が余れば、大変な節約と言えます。ですが、現実にはそうはいきません。問題は、無理して切り詰めたこの2分という時間の集積が3時間半という時間にならないところにあるのです。
確かに、2分×100=200分(3時間20分)です。しかし、道路交通法に背いてまで切り詰めた2分間という時間は、あくまで2分間に過ぎません。というのも、時間そのものは蓄積できないからです。
時間は目に見えるお金のようなものと同等に扱うことはできません。お金であれば、貯金をして貯めていくことができます。通貨を発行している国の経済状況がよほど悪化しない限りは、その貨幣価値もそれほど変わることはないでしょう(積み上げるものが変質しないということです)。しかし、時間は違います。目に見えない抽象的なものだから、蓄積させることができない。つまり、連続したものとして積み上げることができないのです。
連続したものとして積み上げることができない以上、この信号待ちの2分間は何度切り詰めても、連続した3時間20分という時間にはなりません。譬え、百回切り詰めても、2分間という短い時間が非連続的に百回訪れるだけなのです(但し、同じ道程において、異なる交差点での信号待ちを他にもクリアできるとしたら、その限りではないでしょうけど)。
だとしとら、ポイントは「節約できた3時間半近くの時間で何ができるか?」ということではなく、「2分間という短い時間が百回訪れたとして、それぞれその間に何ができるか?」ということになるでしょう。松陰の「一時」に比べると、微々たるものですね。
余談ですが、僅か2分程度の時間を惜しんで、違反を犯すリスクを選択するのは、あまり賢明な判断とは言えません。仮に、家や職場に2分早く着いたからといって何ができるでしょう?無駄な時間を一切排した分刻みのスケジュールで日々を送っているのでしょうか?人生はなかなかそこまでストイックに送れるものではないと思います。そこまで気を張り詰めっぱなしだと、精神的にまいってしまうでしょうし。私を含めて、多くの人は24時間のうち、2分以上はぼーっとしたりして、特に何をすることもなく時間を過ごしているのではないでしょうか?(敢えて無駄とは言いません)
だとしたら、事故を引き起こすリスクのある違反を犯してまでも、無理に2分間を切り詰める必要などどこにもないのです。信号待ちの2分間は 「もったいない」のではなく、できるだけ身の安全を高めるための時間と捉えることができるでしょう。
まとめ
このような事例は、「塵も積もれば山となる」の誤用と言わざるをえません。異なる状況において切り詰められた時間は、蓄積された連続的な時間(「塵」が積もることでできる「山」)とはならないからです。この言葉は、条件づけられたもの(仮言命題)である以上、その条件を満たしていなければ成り立たない命題なのです。
ひょっとしたら、他にもこれと似たような誤用があるかもしれません。せっかくの座右の銘となる至言も、正しく用いられなければ、その力を失うことになります。そうならないためにも、言葉が表す事柄をきちんと捉えようとすることが重要なのですね(自戒の念も込めて)。
by tetsu
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