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パラドックスとは?
クレタ人が言いました。
クレタ人「クレタ人は嘘つきである」
さて、問題。クレタ人は嘘つきでしょうか?
これは「嘘つきのパラドックス」としてよく知られる問題です。パラドックスって何じゃいな?と思われる方のために一応おさらいしときましょう。
パラドックス(逆説)
①衆人の予期に反した、一般に真理と認められるものに反する説。また、真理に反しているようであるが、よく吟味すれば真理である説。
②外見上、同時に真でありかつ偽である命題。(広辞苑より抜粋)
パラドックスといえば、①の前半部分か②を思い浮かべる方が多いかとは思いますが、実は、①の後半部分のような意味もあるのですね。例としては、「急がば回れ」が挙げられると広辞苑にも書かれてあります。たまに、矛盾と意味を混同されている方がいますが別物です。逆説と矛盾は似て非なるものなので、注意して下さい。
さて、改めて読み返してみると不思議な文章ですね。
仮に、①クレタ人が嘘つきだとすると…
クレタ人は嘘つきなので「クレタ人は嘘つきである」の主張が嘘だということになるので、「クレタ人は正直」になる。
②クレタ人が嘘つきじゃない(正直だ)とすると…
クレタ人は嘘つきじゃないので、「クレタ人は嘘つきである」の主張が嘘じゃない、つまり本当のことになるので、やはり「クレタ人は嘘つき」になる。
そうなんです。どっちでも前提に反する結論が出てしまうんです。では、結論はどっちなんだ?って話になりますよね。これが所謂、哲学や論理学において「嘘つきのパラドックス」と呼ばれる問題です。
真偽どっちと仮定してもおかしな結論が導き出されるこの問題で、言語が不完全だからこんなことになってしまうのか、なんて議論が出たりもしますが、いったん落ち着いて考えてみましょう。
(ちなみに先ほどの広辞苑の定義からすると、ここで用いられるパラドックスは②の意味に該当しますね。)
二値論理学
さて、嘘つきのパラドックスを考える上で知っておかなければならないことがあります。それが、二値論理学というものです。ややこしそうな名前をしていますが、至ってシンプルなもの。命題(論理学のおける文章のこと)は 真か偽か(二値)のどちらかである、という考え方です。ですから、「クレタ人~」の文章も真か偽でなければならないのです。
最初はこの文章を見たとき、思ったことがあります。どっちかわからないのでは?と。確かにクレタ人が言ったことを真とすると、「クレタ人は嘘つきである」が本当のことになるので、「クレタ人=嘘つき」となります。これは仮定と矛盾しますね。
ですが、このクレタ人が言ったことを嘘だとするなら、「クレタ人は嘘つきである」が偽となるので、「クレタ人=正直」となる…というところが、上手く理解できませんでした。文章が偽であるということはその文章内容が否定されることに他なりません。例えば、「明日は雨だ」という文章が偽である、ということは「明日の天気が雨でない」ということを意味します。ですが、この否定のかかる部分がどこかによって、偽であるという意味合いが若干ながらも変わってくるのです。
先の例文で考えてみましょう。否定のかかる部分が「雨」の場合、雨が否定されるのだから、天気は晴れか曇りか雪か…となります。ですが、否定のかかる部分が、「雨だ」の「だ」(断定の助動詞)であるとしましょう。すると、断定的な意味合いが否定されることになるのだから、「断定的に雨になるとは言えない」ということになります。即ち、「雨かどうかはわからない」ということです。
クレタ人の文章についても、同じことが言えます。あの文を真(クレタ人が正直に告白している)とすると、「クレタ人=嘘つき」となるので、仮定と矛盾します。しかし、あの文を偽であるとすると、「嘘つき」の部分が否定され「正直」となる場合もありますが、「である」の部分が否定されると、「嘘つきかどうかはわからない」となります。だから、結局クレタ人が嘘つきかどうかは決定不能となるのではないか、と思われます。
ですが、真偽でしか物事をはかれないというのであれば、話は別です。ならば、問題の本質は二値論理学にあるのでしょうか?もう少し別の視点からもアプローチしてみましょう。
言葉の意味
次にみるのは言語規定の問題です。言語規定とは、簡単に言うと、言葉の意味です。 どのようにしてその言葉が用いられているかを考えるのです。
結論から申し上げますと、別に恨みはありませんが、クレタ人は嘘つきだと私は思います。なぜなら、「クレタ人は嘘つきである」の発言はその意味だけを考えると何ら矛盾することのない文として捉えることができるからです。
確かに、二値論理学的に考えると、このクレタ人の発言を偽だと捉えるなら、クレタ人は正直になり、これは仮定と矛盾します。ですが、この発言が本当のことだとしたら、果たして矛盾は生じるのか?答えは否です。
ここで考えなければならないのは「嘘つき」という言葉の意味です。仮にクレタ人が嘘つきだからといって、「クレタ人は~」の発言が必ずしも嘘となるとは限らないのです。
「嘘つき」という言葉の意味は、一般的には「 よく嘘をつく人」という意味ですね?四六時中嘘をつく人であっても、人生におけるすべての発言が嘘であるような人などいないのではないでしょうか?つまり、嘘つきであっても、稀に本当(真)のことを言ったとしても何ら不自然ではありません。本当のことを言う可能性がほんの僅かでもあるならば、「クレタ人は~」の発言を偽であると断定することはできないのです。
従って、「クレタ人は~」の発言は嘘つきであるクレタ人が言った、たまたま本当のことだと捉えると、何ら問題はないのです。このクレタ人の発言を偽と捉えることで生じてしまう矛盾も、真だとすると、たちまち霧散してしまうというわけです。
それではこの問題が解決したのかと言えば、そうではありません。実はこのクレタ人のパラドックスは、ある種のパラドックスのほんの一例に過ぎないのです。
自己言及のパラドックス
この「クレタ人は~」のパラドックスは古代ギリシア哲学者、詩人でもあったエピメニデスによって言われたと伝えられています(このことは古代ギリシア哲学やパラドックスを扱う論理学的な実に多くの書物に書かれています)。
このパラドックスは構造上、「自己言及のパラドックス」として、以下のように一般化することができます。
この文は偽である
ここでいう「この文~」の「この」は、言うまでもなく、当の文を意味しています。
この例文の場合、先ほど述べた言語規定の問題として、簡単に片づけることができなくなっています。なぜなら、先ほどの例文では、「嘘つき」という言葉の意味に真である可能性が残されていましたが、今回の「偽」という言葉にはこれっぽっちも真である可能性など含まれていないからです。ですから、「この文は~」の場合、真だとしても偽だとしても、矛盾は避けられません。
では、この種のパラドックスは、やはり言語の避けられない宿命のようなものなのでしょうか。私はそうは思いません。この種の問題は、言語自身が持つ不完全さにあるのではなく、それを扱う側にあるのだと思います。
手段としての言語
言語ないし言葉とは、何かを表すものです。富士山といえばあの日本一高い山を表しますし、琵琶湖といえばあの日本一大きな湖を表します。勿論、そういった具体的なものばかりではなく、お金や宗教、政治といった抽象的な概念をも表すことがあります。
なぜこのようなことが可能なのでしょう?それは言葉が何かしらのものと結びつけられているからです。それは具体的で形のある「物」に限った話ではありません。富士山や琵琶湖といった固有名詞によって表されるものばかりではなく、「山」や「湖」という一般名詞によって表されているものとも結びつけられているのです。当然、そのイメージの表す色や形や大きさは思い浮かべる人によって異なるでしょう。しかし、それらの言葉は間違いなく何かと結びついているのです。
形のない抽象的なものについてもそうです。「神」、「愛」、「永遠」といったものから「概念」という無機質的なものであっても、言葉はそれが表すイメージと確実に結びついているのです。
仮にいかなるものとも結びつきのない、従って、何ものをも表さない言葉というものがあるとして、果たしてそれを言葉と呼べるでしょうか?それは無意味な記号の羅列であり、絵でも紋様でもない子どもの落書きであり、壁や天井にあるシミと変わりません。場合によっては、これらの方が何かしらの意味を見いだせるかもしれませんね。
言葉は言葉である以上、何かしらの「もの」と結びつけられています。それによって、何かを表しているのです。そうして言葉は表現の、あるいはイメージを伝えるための伝達方法として用いられているのです。 結びついているもの、イメージ、意味内容を伝えることを目的とした、いわば手段としての言葉を私たちは用いているのです。
手段と目的の倒錯
さて、ここで自己言及のパラドックスに話を戻しましょう。「この文は~」の文を先ほど述べた言語論に当てはめて考えてみましょう。手段としての言葉によって表された例の文が目的としている意味内容は何でしょうか?
この文の持つ指示内容は、言うまでもなく、当の文自身です。それ以外には指示内容を持ちません。現実に存在する何らかの具体物やその他の抽象的な概念ないしイメージとは結びついていません。そうなんです。実はこの文は意味内容を持たない文なのです。だから、当然、文として機能していません。いわば、偽文とも言うべきものです。
それなのに、私たちは例の文を見る時、意味内容を持つ他の文と同じ態度で接しているのではないでしょうか?それはなぜか?見た目がそのまんま「文」だからです。与えられた文は主語も述語も揃ってます。文として、形式上欠けているものなどありません。たった一つ、意味内容を除いては。
それは蜃気楼のようなものです。見た目だけはそれらしくあるものの、実体を持たない形骸化された空虚な存在です。無意味な記号の羅列であり、子どもの落書きであり、壁のシミと同じなのです。
実は自己言及のパラドックスとは、 手段であるはずの言葉が、自己言及することで目的化された結果生じた錯覚なのです。お金を貯めることだけのためにお金を稼ぐようなものです。
お金は、使うためにあります。多くの場合は生きるための手段として用いられます。ところが、使うためでもなく、ただお金を貯めるためだけにお金を用いたり、お金を稼いだとして何になるのでしょう(勿論、安心を得るためだけにお金を稼ぐということはあるでしょうが)。無意味な行為であり、虚しいだけではないでしょうか?お金は現実的な何かと結びついており、他のものと交換可能であるからこそ重要なのです。 手段であるはずのものを自己目的化しても、空虚しか生まれないのです。
私が先ほど「この種の問題は、言語自身が持つ不完全さにあるのではなく、それを扱う側にある」と言ったのは、こういった理由からです。言葉の不完全性によるのではありません。言葉を用いる側の不完全性によるのです。
(※ 今回のパラドックスの問題に関してだけ、言葉の不完全性が原因ではない、と言っているだけです。言葉の不完全性についてはソリテスパラドックスを参照して下さい)
言葉を用いる側が手段と目的を倒錯させたが故に、この種のパラドックスが生まれたのです。
まとめ
私自身は、自己言及のパラドックスは手段と目的の倒錯から生まれた、と考えましたが、他にも色んな考え方があるかとは思います(勿論、思いつきませんが)。
この解答を、プラグマティックな考えの一つに過ぎないとおっしゃる研究者の方もいらっしゃるでしょう。まあ何を受け入れるかは当人の自由なので、色々と考えてみるのも良いかもしれませんね。
他にもパラドックスと呼ばれる問題は幾つもあります。興味がある方は論理パズル等の本を参考にされると良いでしょう。考え方やアプローチの仕方は様々ですので、考えるのが好きな方や、脳トレをされたい方は是非チャレンジしてみて下さい。また、パラドックス関連に興味のある方は他の記事もご覧ください。
by tetsu
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