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原子と元素の違い
あれは忘れもしない中学生時代、違いのわからないことがあった。今では何て事のない問題。でも、当時はそれなりに深刻なことだった。それが、原子と元素の違い。正確に言うなら、「酸素原子を記号で表したもの」と「酸素を元素記号で表したもの」との違いである。もちろん、両者は共に、アルファベットの「O」で表される。当時の僕には、この2つの「O」の違いがわからなかった。
それで、理科の先生に尋ねてみた。それでも、さっぱり要領を得ない。 「分かる」とは、物事を分節化、つまり「分けて」、整理することだという話を聞くことがあるが、本当にその通りだと思う。この2つの違いを明確にできなければ、それぞれを理解できたとは言えないだろう。この点を踏まえた上で、説明する側も説明される側も、その場に臨まなければならないのである。
うろ覚えではあるものの、当時受けた説明は、それぞれ個別のものに過ぎなかったように思われる。つまり、「原子で表されたOは…」、「元素記号で表されたOは…」といった具合に。これでは、両者の違いが分かりにくい。だから、この2つのOの違いを理解するためには、そもそも、原子と元素という、響きの似た2つの用語の違いを理解する必要があったのだ。そうすれば、酸素原子はO、酸素元素もOで、同じ「O」でも何が違うんだ?なんて、いらぬ混乱を招くこともなくなる。
言葉の違い
言葉の違いを理解するために
酸素原子のOと酸素元素のOは、見かけは同じだ。でも、両者が全く同じであるならば、どちらかは存在する意味がない。と言うよりも、どちらか1つが生まれるだけでよかった、つまり、どちらかは生まれなかったはずだ。
当たり前ではあるが、両者が存在するということは、必要に迫られて、それらは生まれたと考えた方がいいだろう。従って、それらを理解するためには、その必要性が何か?ということをはっきりさせる必要があるということだ。
その必要性がどのようなものかを知るためには、そもそも、それらの言葉がどのようにして用いられてきたかを知る必要がある。そこで大切なのは、言葉が持つ意味などではない。
意味と文脈
言葉において重要なのは、言葉自身が持つ、客観的な意味ではない。どのようにして用いられてきたか、あるいは、現在どのように用いられているか、ということである。つまり、その言葉が用いられてきた文脈というものが、何よりも重要なのだ。
言葉の用いられる文脈というものは、時として、特殊な意味を、その言葉に与えることがある。例えば、漫才のツッコミで「アホか!」と言っても、これは「アホ」という言葉が持つ、ネガティブな客観的意味を表すわけではない。漫才の文脈の中で与えられた、笑いをとるための愛情表現である。それを無視して、あくまで一般的な、つまり、ネガティブな意味合いで「アホ」という言葉を解釈しても、演者の人間関係を掴むことはできないし、もちろん、やり取りされた内容を正確に把握することなど望むべくもない。
個人的で特殊なものばかりではない。一般的な意味を持つ用語も、ある用語との違いを捉え、その意味を理解するたには、文脈を繙く必要がある。それは、個人の場合における特殊な文脈ではなく、ある程度、客観的に認識されうる歴史的文脈である。ある一般的な意味を持つ用語は、歴史的文脈に照らし合わせて考えられる時、初めて十全的に理解されるのである。
意味と意義
哲学のある分野では、言葉の意味を、意味と意義(指示内容と意味)とに、区別することがある。誤解を招かぬよう、少しばかり専門的に説明しておこう。
一般的に言われる言葉の内容は、「 指示内容と意味」、あるいは、「 意味と意義」とに区別される。ドイツ語では“BedeutungとSinn”、英語では“meaningとsense”である。ドイツ語における“Bedeutung”は、“bedeuten(=「 指し示す」)”の名詞形である。そういう意味では、「指示内容」と訳した方がわかりやすい。しかし、なぜか哲学の分野では、これを「意味」と訳すことが少なくない。これは、英語では“meaning”と訳される。この時、もう1つの言葉の内容“Sinn”(英語でいう“sense”)は、先ほどの「意味」とは区別して、「意義」と訳される。
注意しておかなければならないのは、「指示内容と意味」で用いられる「意味」と「意味と意義」で用いられる「意味」は、全くの別物という点だ。前者の場合、“Sinn”ないし“sense”を「意味」とするが、後者においては、“Bedeutung”ないし“meaning”を「意味」とする。この区別については、十分に気を付けなければならない。用いる人間が、どちらの意味で用いているのかを、正確に捉える必要がある。
〈「意味」に関する言葉の組み合わせの表〉
より、専門的に詳述するなら、言葉を単語と文に区別して、フレーゲあたりを引用しながら、説明する必要があるのだが、ここでは省かせていただく。今、問題としているのは、言葉の持つ内容が指示対象だけに縛られるものではなく、文脈によっても規定されうるものであることを確認したいだけだ。
宵の明星と明けの明星
このことをより良く理解したいならば、「宵の明星」と「明けの明星」について、歴史的になされてきた例を考えてみればよい。
「宵の明星」とは、 夕闇に暮れゆく西の空に一際強く光輝く星のことである。まだ仄明るい夕空に始めに輝き出すことから、一番星とも言われる。これに対し、 明け方、微かに優しい陽光の中、最後まで夜空の名残として輝き続ける星を「明けの明星」と言う。
ご存知の通り、これらは金星の呼び名である。共に、同じ金星という指示対象を持つが、だからといって、これらが同じ言葉の内容を持つかといえば、決してそうではない。上の説明からすると、確かに、両者は同じ“Bedeutung(指示対象)”を有する。しかし、明らかに文脈上、異なる内容をも有する。ここでは、それを“Sinn(意味)”と考えていただいて、差し支えはない。肝要なのは、 同じ指示対象を持つ言葉が文脈上異なる意味を持つという事実である。
こういう例は、他にもある。ウミタナゴは出産に関して、縁起が良いとする地方もあれば、縁起が悪いとする地方もあるそうな。あるいは、昼の蜘蛛は縁起が良く、夜の蜘蛛は不吉とされるように縁起に関する違いは、殊更、大きいようで。どれも同じ指示対象を持っているのに、地方による文化的文脈や、時間的文脈によって、異なる意味合いを持つというわけだ。
見かけに惑わされないように
酸素原子の「O」と酸素元素の「O」については、原子と元素の違いを捉えれば良い。それぞれの言葉の役割を考えると、違いは明らかとなる。原子というのは、世界を構成する物質を、要素として、どれほどまでに細分化できるかに主眼を置いている。世界を構成する最小の単位を考えるわけだ。これに対して、元素は、世界を構成する物質の質的な違いに主眼を置く。このように考えれば、見かけ上は同じ「O」でも、その内実が異なることは理解できよう。言い換えるなら、どのような文脈の中で用いられているかを考えれば、「O」の表す意味内容は自ずと決まるのである。
もちろん、その逆も言える。見かけが異なっていようとも、その指示対象が同じであるということも、言葉を扱う上では、往々にしてあるということだ。指示対象に重点を置くか、文脈的な意味内容に重点を置くかは、ケースバイケースとなるだろうが、1つ言えることは、 見かけに騙されるなということである。
これは何も言葉だけの問題ではない。当然、人間についても当てはまることである。人の存在性は、個と集団の狭間で揺らめいている。それを別の記事では、人間存在の悲劇性として述べたが、個としての存在性(=指示対象)と集団の一部としての存在性(=文脈的意味内容)を対比的に捉えた場合、自分にとっての他者の意味が、見かけ一辺倒のものでないことは、おわかりいただけるのではないだろうか?
あなたの目の前にいる人間が、“Bedeutung”としての表れか、“Sinn”としての表れか?両方の視点からその存在性を捉えようとしない限り、その人の存在性は、手で掬う水のように、意識の間隙から零れ落ちて、やがては失われていくことになるのだ。
by tetsu
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