「言葉狩り」によって言葉の豊かさが損なわれるという事実について

やわらかい哲学

言葉狩り

遣える言葉が減ってきている。そう感じることがある。最近でも話題になっていた。

https://news.yahoo.co.jp/search/?p=%23%E8%A8%80%E8%91%89%E7%8B%A9%E3%82%8A&ei=UTF-8

しかし、「虚無僧」という言葉が放送禁止用語になっていると知ったときには驚いた。

確かに、特殊な心身的傾向性や身体的特徴、あるいは、特定の出自なんかを揶揄する意味で用いるのは控えなければならない。だからといって、ある個人が見聞きするのが不快だからという端的な理由で、言葉に社会的制限をかけていいのだろうか?だとするなら、見聞きするのが不快である全ての物事には同様に制限をかけなくてはならなくなる。ネットでも無意味な揚げ足取りとしか思えない言葉狩りが行われているのを、時折、目にすることがあるが、果たしてそんなことが許されるのか?(あくまで、個人的見解に過ぎませんが)

見聞きするのが不快なものなど世の中にはごまんとある。例えば、「便」。食事中に見聞きするのは不快だし、触れたくもない(ごく一部の人の嗜好性がこれを求めるという話はこの際置いといて)。だが、多くの生き物は日々これを排出する。これを見聞きせずに暮らすことなど不可能である。

「それは避けられないものだから仕方ないじゃないか!今議論しているのは不快だから代替可能なものに置き換えようとすればいいという話をしているのであって、不快なものだから排除しようという極論を述べているわけじゃない!」

そんな反論が聞こえてきそうである。だが、話はそれ程単純ではない。なぜなら、快不快という感情は主観的なものである、という意味において特殊だからである。普遍的な快不快など存在しないといっても過言ではない。

例えば、納豆やくさやなどの放つ強烈な臭いはどうか?嫌いな人や食べたことのない人からすると、恐らく、不快と感じられるだろう。だが、その味が好ましく感じられる人からすると、その臭いもまた快と感じられるかもしれない。

身体的苦痛はどうか?それを快楽に変えられる人もいるだろう(勿論、先ほどの「便」の例にしたって、同様である)。

ゲームやアニメ、あるいは、戦争という現実における残虐なシーンはどうか?嗜虐的性向を持つ人間なら、それを快と感じるだろう(この際、人としての道を問う道徳的議論は置いておく)。

逆もまた然り。人が快だと思うところのものを不快と感じる人だっているだろう。だとするなら、これ程特殊な事例に関して、あらゆるものを他の何かに置き換えることなどできるのか?そうしようとするなら、置き換えなければならない明確な基準を設けなければならないし、そもそも、代替可能かどうかさえ疑わしい。

これらの問題が解決困難なのは、快不快という感覚が人によって異なるという特殊性に起因するのである。だが、問題点はこれだけではない。

 


有機的連関

物事には有機的連関というものがある。個々のものが調和的に繋がり合い、一つの全体を形成するためになくてはならないものである。以前、「モンスターペアレント」の記事で述べた「調和的連関」と同義的である。

(※注. 「調和的連関」とは全体の中で個々のものが存在するために形成する繋がり。ここで述べる「有機的連関」とは全体が成立するために必要とする個々の繋がり。前者は個を主眼とするが、後者は全体を主眼とする表現である。)

さて、単に不快だからという理由で虫を地上から抹殺するとどうなるか?答えは至ってシンプル。「生態系が崩壊する」である。虫を餌とする小型の鳥類や魚類は絶え、結果、鳥類や魚類を餌とする哺乳類までもが絶える。豊かな命を湛える山は一変、無機質なものへと変わる。

確かに、虫一匹消すことで生態系が即崩壊するとまでは言わない。しかし、些細な事柄が(特に人為的な)、全体に大きな影響を及ぼさないとは限らない。バタフライ効果のような事例もある。ハブ退治のために解き放たれたマングースが奄美大島の豊かな生態系の根本を揺るがしかねない問題となったのは記憶に新しいだろう。

全体とは、精緻にして絶妙なバランスの上に成り立つものである。それを支えるのが、個々の有機的連関である。その連関に関する何かを弄るというのであれば、その全体を崩壊させない配慮というものが重要になるだろう。しかし、そんなことが果たして可能か?あらゆる事情について、知悉することなど人間にできるのだろうか?極めて困難と言わざるをえない。

言葉の世界にこのような問題がないとは言えない。言葉は、それが生まれた時代背景や価値観を映し出し、一つの文化という全体を構成するものとしてある。言葉もまた、有機的連関によって成り立つ全体なのである。従って、有機的連関という観点からも、代替可能性の問題は考えられなければならない。

何も変えることが悪いとは言わないし、変わるべきものは時代の流れとともに変わっていくものだとは思う。ただ、深い思慮なくして、単に不快だからという理由で安易に変えるべきものでもないと思う。

 


言葉の遣い方

言葉の存在性

言葉の問題を考える難しさは、その存在性にある。言葉とは、あってないようなものなのだ。

言葉は何らかの像と結び付いている。それは現実的な何かでも構わないし、空想的な何かでも構わない。だが、何かしらと結び付いているという意味で、それが何かを表さなければ、それは言葉とは言えない。無意味な記号の羅列が言葉としての体をなさないのはそのためである。

しかし、結びつくその像が抽象的で、かつ主観的な空想の像と結びつく時、その言葉があるかどうかを考えるのは難しくなる。ツポビラウスキー症候群など存在しない病名だが、ひとたび用いられるとそれは輪郭を帯び始める。そして、それが共通認識として広まり、多くの人によって用いられ始めると、その言葉は存在するということになる。だが、ツポビラウスキー症候群という病が存在しないとなると、やはり、その言葉があるとは一概には言えなくなる。言葉の存在性を規定してしまえば話は早くなるのだろうが、帰納的に考えるとそうはいかないのが現実だ。

現実の像と結び付いている言葉を考えるのは易しい。しかし、主観的にして観念的な像と結び付いていると、そうはいかない。それが存在していると言うこともできるだろうし、できないかもしれない。このような言葉の、虚構的とも言える存在性が、問題を難しくしているのである。

 

イメージの相対性

イメージ自体の相対性

ではなぜ、このような言葉の存在性が問題をややこしくしているのか?それは言葉が我々に働きかける作用にある。

言葉を聞くと、その言葉の意味に合わせて、人はイメージを抱く。それが言葉と結び付く像である。例えば、「富士山」と聞けば(あるいは、見れば)、頭の中で富士山を思い描く。そして、それが言葉と結び付く。言葉がイメージを喚起し、そこから生まれた像と結び付く。いわば、言葉が像を与えるのである。問題なのは、その像が主観的なものである、ということである。

我々が思い描く富士山は、厳密な意味においては、恐らく、現実にある富士山とは一致しない。稜線や色合いも異なるものになるだろう。そして、個々が思い描く富士山も、互いに一致することはない。それ程、我々が思い描く像というものは曖昧模糊としている。現実にあるものについてこの始末なのだから、これが抽象的なものになると言わずもがな。「大きい」という言葉を聞いて抱くイメージは、それこそ千差万別となるだろう。

 

文脈におけるイメージの相対性

何もイメージだけが相対的というわけではない。言葉の遣われる文脈によっても、イメージは左右される。例えば、「静か」という言葉を考えてみよう。

 

1.「聞こえるのは鳥の囀りと木々の枝葉が優しく波立つ音。この寺の枯山水式の庭園には静かな時の流れが息づいている。」

2.「社運のかかったプロジェクトの会議。みなが必死に知恵を絞り意見を交わしているのに、彼は先ほどから静かに押し黙ったままだ。」

 

1の例文では、「静か」という語は、落ち着いた趣のある雰囲気を醸し出している。いわば、プラスのイメージを抱かせる言葉と言えそうだ。それに比べて、2の例文では、陰気で消極的、あるいは、怠惰といったマイナスのイメージを抱かせる。これは、相互に連関し合う文脈によって、イメージが規定されているからだろう。

このように、ある言葉のイメージというものは、文脈によっても左右されるのである。

 

言葉の用法

以上のように、言葉単体の喚起するイメージが曖昧なだけでなく、用いられる文脈によっても左右されるものだということが、言葉の問題を難しいものにしているということがわかった。

しかしながら、言葉が曖昧であるからこそ、その遣い方が何よりも重要なことなのだと、僕は思う。

当然、言葉自体が持つイメージというものはある。程度に差こそあれ、それがプラスのものなのか、マイナスのものなのかといった違いは区別できる程に。だが、そんな言葉の持つ固有のイメージを覆す程、遣い方が重要だという例があることも否めない。

 

どうせ駄目ならやってみよう

数え切れぬ絶望を味わった

夢を追う旅人

(Mr.Children「旅人」より抜粋)

 

共に生きれない日が来たって

どうせ愛してしまうと思うんだ

(Mr.Children「しるし」より抜粋)

 

「どうせ」という言葉を聞いて、どんなイメージを持つだろう?多くの人はマイナスのイメージを持つのではないだろうか?ところが、上の歌詞を読むとどうだろう?本来ならばマイナスのイメージを喚起するべき言葉が、切なさを伴いながらも実に味わいある雰囲気を醸し出したではないか。「どうせ」という言葉の持つ固有のマイナスイメージとプラスのイメージとを、遣い方一つでアウフヘーベンさせる桜井和寿の巧みさは言うに及ばず、いかなる文脈において言葉を用いることが重要かを示す良い例証となっているのではないだろうか?

言葉とは、用法一つでポジティブにもネガティブにもなれるものだということに、改めて気付かされる。

 


言葉と心と

僕は育ちが良い方ではない。さらに、関西出身ということもあって、言葉遣いが綺麗というわけではない。仲の良い友人も「○○」だの「□□ちゃうか」だの散々だ。でも、当然、字義通りにそういった言葉を用いているわけではない。仲の良い同士では、貶し言葉でも愛情の裏付けがある

逆に、誉め言葉でも棘のある言葉はある。『オリガモリソヴナの反語法』ではそのような例証が沢山用いられている。そんな言葉より、僕たちが遣う見た目が醜い貶し言葉の方が、血の通ったぬくもりがある。それだけは断言できる。

 

言葉とは花だ

心に根ざす花だ

 

こんな言葉を目にした記憶がある。その通りだと思う。どれだけ見た目が美しくても根ざす心が醜ければ、その花には毒がある。逆も然り。どれだけ醜く見えても、根ざす心が美しければ、その花は薬にもなる。

だから、大切なのは見た目がどうかということではなく、それが根ざす心を観ようとすることじゃないかな?不快の元は言葉自身にあるのではなく、言葉の用い方にあるのだと思う。

遣われる言葉がどのような意図で用いられているかを受け止めることが大事なんであって、用法的意味合いから切り離された言葉をどれだけ攻撃し、排除しようとしても、差別を生み出す心がなくならなければ、差別用語はきっとなくなりはしない。

だとしたら、表現の自由を奪って閉鎖的な社会を生み出しかねない言葉狩りなんて無意味で、虚しいだけなんじゃないかな。

 

 

by    tetsu