矛盾と逆説の違いについて

役立つ知識

言葉は生き物のようなもの

「言葉は生き物だ!」なんて台詞はよく耳にするものの、やっぱりそれって違うんじゃね?なんてことが多々あります。それは、僕が年を取ったからというわけではありません。幼少期に、よく祖父が口癖のように「言葉の乱れは文化の乱れ」なんて言ってましたが、お年寄りによく見られる懐古主義的な物事の捉え方からくる考え方なのかなと思っておりました。でも、違ってました。全国のお年寄りの方々に深くお詫び申し上げます。

これは年齢に関わらず、使い慣れていない表現を聞くにつれて感じる違和感からくるものなんですね。それは80歳を越えた方でも、齢10万年を越えるデーモン小暮閣下にしても、永遠の18歳を自認する僕にでも感じられることでした。その代表格として、「最近の若者は言葉遣いがなっとらん!」なんて咆哮する、矍鑠たるお歴々がいらっしゃいますが、それにつきましても、僕が若者を代表して、この場をお借りして、お詫び申し上げます。ええ、何せ18歳ですから。しかも、永遠の、ね。

なんて言ってる僕にも、違和感を覚える時があります。「世論」を「せろん」読むのに未だに抵抗がありますし、「全然」という語に対して、肯定表現を用いると、「ん?」となります。おかしなものですね。「全然」という語は、元々は、肯定表現にも使われていたのに。いつから、否定限定となったのでしょう。あるいは、「見られる」という表現を「見れる」とする、いわゆる「ら」抜き言葉に反応される人もいるのではないでしょうか。僕も不自然でない時は、気を抜かず、「ら」を抜かぬようにしてますが。

まあ、間違った意味でも言葉なんて遣っている内に、それが定着するなんてことはザラです。寧ろ、言葉の意味は、本来、そういうふうにプラグマティックに決められるものなのかもしれませんね。とは言え、何でもかんでも無闇に意味を混同するのは良くありません。本当に、違わず同じ意味なら、そんな言葉が生まれることはありませんよね?人間と一緒で、言葉にもその言葉にしかない意味があるのです。

 


矛盾

一般的に解釈されがちな「矛盾」の意味

これはお馴染みの言葉ですね。由来は中国の故事にあると言われています。実際に描かれているのは、中国の戦国時代に書かれた『韓非子』ですね。この本、名前の通り中国戦国時代の法家である韓非さんによって著されました。内容をザクっとまとめてみましょう。

昔、中国の楚という国に、武器を売る商人がいました。その商人曰わく、矛を手に取り「この矛は鋭くどんな物でも貫くことができる!」とのこと。また、盾を手に取り「この盾はとても堅く、どんなものでも貫くことはできない!」とのこと。それを聞いていたある男が尋ねました。「ほいじゃあ、どんな物でも貫くことができるその矛で、どんな物でも貫くことができないその盾を貫こうと突いたらどうなるの?」。武器商人は、何も言えなくなりました。おしまい。

中学校の教科書にも乗っているので、知っている人も多いのではないでしょうか。この故事に則って、 つじつまが合わない」ことを、「矛盾する」と言います。

例えば、ある政治家が、「闇献金は受け取っていない!」と言って、またある人が「闇献金を渡した!」と言ったならば、これはつじつまが合わないので、矛盾していると言えますね。

 

論理学における「矛盾」の厳密な意味

論理学においては、ある命題Pについて、 「Pかつ¬P」である状態を「矛盾」といいます。証明の際には、背理法で用いられることが多いですね。

ただ、一般的な意味とは少し語感が違う気がします。単に、つじつまが合わないというよりも、もう少しイメージの広がりがあるような感じですね。というのも、矛盾は「つじつまが合わない」という閉鎖的な意味合いよりも、そこからは 「あらゆる命題が導き出されうる」、または 「あらゆる命題が真となる」という開放的なニュアンスで用いられることがあるからです。

これに関しては、誤解のある書き方がなされている場合(特にネットの情報において、場合によっては本でさえも)があります。矛盾は、世界において成立しえない事柄であるため、矛盾によって表される命題は「偽」であると勘違いされ、誤表記されているのでしょうね。ところが、これは正確な表現とは言えません(むしろ、逆です!)。論理学における矛盾の定義を思い返して下さい。「Pかつ¬P」でしたね?つまり、「P」が真であり、かつ「¬P」も真である状態が矛盾なのです。何かが偽だから意味を成さないのではなく、すべてが真だから意味を成さないのです。そう考えると、ニュアンスに広がりが生まれたと思えませんか?

尤も、そこから世界に関する何かしらの確定的な情報が得られないという点では、やはり意味を持つとは言い難いです。すべてが真である世界など現実的にはありえないのだから、世界と繋がりを持たないという意味で、矛盾によって導出される命題は空虚と言わざるをえません。ちなみに、ウィトゲンシュタイン(「ヴィトゲンシュタイン」と言われることも。『論理哲学論考』という、一般受けするわけがない哲学書を著した人物)は、これを無意味と断じています。

 


逆説

「逆説」という言葉は、矛盾という言葉ほど見聞きすることは少ないかもしれません。逆説とは、 一見すると真理に背いているように見えて、別の角度から見る真理の一面を言い表している様のことです。

よく例として挙げられるのは、「急がば回れ」といった慣用表現ですね。急ぐって言ってるのに、わざわざ回る(遠回りをする)って、おかしくない?急いで早く行くって目的に反した行動たよね?なんて一見思われるかもしれませんが、実際、遠回りをした方が早く到達できるってことです。まあ焦って不確かな方法を選ぶよりも、確実なステップを踏んで行けということです。他にも、「負けるが勝ち」といった表現もあります。

この逆説ですが、矛盾とよく混同されているように思われます。それは、2つの誤解からくるものではないでしょうか。

1つ目が、矛盾に対する誤解です。矛盾とは、〈論理学における「矛盾」の意味〉ですでに述べたように、偽を表すものではありません。すべてが真ゆえに、無意味な状態を意味します。にもかかわらず、つじつまが合わないから「偽」だとする誤解が生じているように思われます。

2つ目が、逆説に対する誤解です。特に、「逆説的」と表現される場合によく見受けられるのですが、「おかしな事柄」を意味する場合に用いられているように思えるのです。でも、逆説の意味は、「一見真理に背いているようで、真理を表す様」のことです。この「真理を表す様」が欠落して、「真理に背いている」という意味だけで用いられ、「おかしな事柄」を表現する際に、「逆説的」と表現されているのではないでしょうか。

世界において起こりえない事柄であるということから、偽の意味に解釈される「矛盾」と、一見おかしなことを表しているということから、偽の意味に解釈される「逆説」が混同されている可能性は高いでしょう。すべてが真となるゆえに空虚で無意味な矛盾と、おかしなことのようありながらも真理の一面を表す逆説は、似て非なるものです。用いる際は、気を付けなければなりませんね。

 

 

by    tetsu