楽に生きる・消耗しない生き方―肩の力を抜いて世知辛い世の中を生きるためのヒント

役立つ知識

はじめに

 

人は皆、それぞれ苦悩を抱えて生きている。それはある程度、避けられないことかもしれない。それでも、そんな悩みが精神を圧迫し、健康に変調を来すようなことがあってはならない。確かに、どうしようもないこともある。最愛の人を失ったり、自分の命に関わる事態に陥ったり。そんな時、人はどうしていいかわからなくなるもの。

それでも、悩みの多くは、他の人からすると、何てことのないものが多い。何てことのない悩みを抱えて、それを肥大化させ、精神的に追い詰められることがないだろうか?そういった事態は避けたいものだ。

 

病の床に臥してから、僕自身ものの見方が変わった。生きることの意味を、喜びを積極的に見出そうとするようになった。そして、自分の生にとって何が大事かを考えるようになった。大切にしたいものを自分で選べるようになった。すると、視界が開けるような感じがした。楽に生きられるようになった。以前よりも、充実した生活が送られるようになった。これまで、自分がどれだけ心を圧迫しながら生きていたのかにも気付けた。心の持ちようで、世界がこれほど違って見えるなんて知らなかった。

 

日頃からのストレスに心が悲鳴をあげてはいないか?妬みや嫉み、怒りや憎しみといった負の感情に心が蝕まれていないか?もしそうなら、精神はすり減り、消耗したまま色褪せた人生を送ることになる。そうならないための心の持ち方を以下に記そう。病床に臥さなければ気付けなかった心の持ちようを。

たった一人でもいい。読み手の心が救われるなら。そんな願いを込めて。

 


プライドを捨てる

 

病床に臥して、わかったことがある。それまでは世の中には無駄なものなんてないと思っていた。確かに無駄なものなどないのかもしれない。けど、その効用以上に害を及ぼすものもあるのだとわかった。それがプライド。しかも、根拠のないプライド。それは職人の方が持つ仕事に関する矜持や、自分が大切にしているものに対して持つ誇りではなく、自分という人格に対して持つ極めて曖昧な自尊心。それがプライドである。

命の危機に瀕して、僕は思った。自分の人生において、プライドって何の役にも立たないよねって。何の役にも立たないどころか、寧ろ、人生の障害を生み出していた元凶だった。

皆、多かれ少なかれ、プライドを持っている。それは仕方のないこと。でも、それがあるために、本来円滑にいくべき人間関係が阻害されるということも事実。プライドがあるために、事実としての自らの非を認めない。素直に謝ることができない。そのせいで、事態が複雑化し、人間関係が歪む。そのため、関係の修復に多大な労力を要することになったり、本来得られた人間関係による効用が失われたりもする。様々な機会損失を与える原因。プライドには、そういった現実的な有害性がある。

いったん、プライドを捨ててみよう。はじめは難しいと感じるかもしれない。でも、一度捨ててしまえば何てことはない、ということに気付くはず。「上から~」だの「下から~」だのと気にする必要はない。プライドがあるから言えないこと、やれないことを、素直に言ってみよう。やってみよう。円滑に進められない事柄は抵抗を生む。その抵抗が、心を圧迫する力を生む。そして、柔軟性のない心は折れたり、壊れたりしやすい。だから、プライドを捨ててみよう。そうすれば、心が消耗する原因をいくらか取り除けるはず。

 


執着しない

 

こだわりと執着

こだわりをもって生きることは良いことだと思う。でも、多くの場合、執着することはあまり望ましくないように思われる。

こだわりと執着は違う。 こだわりとは、心が望むものを追求していく姿勢だ。自ら動いて求めていくもの。故に、柔軟になりうる。一方、 執着とは、ある物事に合わせて、心が凝り固まること。そこに動きはない。故に、柔軟性もない。

何であっても、凝り固まると、力に対して弱くなる。細い針金は簡単に折って切ることができる。でも、同じ物でできていても、バネのようになっていると簡単に折ることはできない。柔軟性があるため、力を受け流してしまうから。宙を舞う羽のように、風に揺れる柳の枝のように、抵抗がなければ、壊れることもない

何かに執着した時、それがダメになってしまうと、心もダメになることが多くなる。ダメにならなかったとしても、ダメになるかもしれないという心配が不安を生み出す。この不安、恐怖が心に更なる負荷をかける。負荷をかけられた心は、ますますモロくなる。

 

 

後悔と反省

後悔も一種の執着である。それは、 起きてしまったことに対する執着である。やはり、これもあまり望ましいものではない。起きたことを後悔する人がいるが、起きたこととして割り切った方が良い。起きてしまったのだから、仕方がない。起きてしまったことは変えようがないのだから。

だからと言って、過去を振り返ることが全て悪いこととは思わない。何か失敗をした場合、やってしまったことを振り返るのは、時として、必要とさえ思っている。だが、それは、同じ失敗を2度としない、という決意の元で行われるべきである。 「どうしてそのような失敗をしてしまったのか?」、または、「同じような失敗をしないためにはどうすればよいか?」というように、これから先に繋げられる形で振り返ればいい。これは後悔ではない。反省である。

過去を振り返るという点においては同じだが、後悔と反省は別物だ。 後悔とは、過去に執着し、凝り固まって何もしないことである。一方、 反省とは、これからのことに関して、過去の失敗を活かそうとする積極的な試みである。

過去に執着するあまり、今この時に起きている現実が、これから起ころうとする未来が見えなくなる機会損失以外の何ものでもない。それは新たな失敗とも捉えることができる。人によっては、そこにまた更なる執着が生まれるかもしれない。そうなると、デフレスパイラルのように負の連鎖に陥る。こういった事態は避けなければならない。

 

 

プライド(自尊心)と矜持(誇り)

プライドもまた、一種の執着である。それは、自我に対する執着である。

自我とは、実に曖昧な概念である。デカルトが自我の概念を確立して以来、たびたび焦点を当てられてきたが、個人的には対象化してはならないものだと思っている。例えば、「自分と闘う」なんて表現するけれど(ここでは闘う相手として、対象化されている)、じゃあ「闘ってるのは誰なの?」と訊きたくなる。「自分探しの旅」なんて言うけれど(ここでは探されるものとして、対象化されている)、じゃあ「探しているのは誰?」って訊きたくなる。自我(自分)というのは、あくまで行為の主体であって、それ以上でも、それ以下でもない。だから、何かの対象としてスポットライトを当てるのに、どこか違和感を感じてしまう。

そんな対象化できないものに対して、執着しても仕方ないじゃないか。そんな風にさえ思ってしまう。でも、誇り高い人間は嫌いじゃない。寧ろ、好きな方だ。

ここで言う誇りとは、 自我に対して執着するようなプライドとは意味が違う。 それは、自分自身に対してではなく、対象化することのできる他のものに対する誇り、矜持である。例えば、自分が存在意義をもってとるべき態度であったり、こだわりをもって成し遂げる仕事に対する矜持。あるいは、自分以外の人間に対してもつ、誇りである。

そこには、観念的なだけで、実質的な意味を持たない上下関係など入り込む余地はない。他のものとの無意味な比較も要請されない。ただ、自分が大切に思っている物事として、胸を張って言えるもの。それが矜持である。

 

 

執着しないために

それでは、執着しないためにはどうすれば良いか?自分の心を縛り付けているものをしっかりと見つめ直せば良い

自分が執着しているものにどれほどの意味があるのか?仕事に、遊びに、人間関係に…そういった何かの役に立つのか?生きるために本当に必要なものなのか?明日、三途の川を渡ることになったとして、心から「良かったなぁ」と思えることだったのか?想像してみよう。意外と「何てことなかったなぁ」と思うことも多いはず。

 

これから先を思い浮かべるということも有効な方法である。今、自分が執着しているものが、その先の未来の自分にとって、変わらず執着し続けられるものかどうか?例えば、子供の頃に大切にしていたお菓子の景品のシールやおもちゃなどを、当時と変わらず大切にし続けているか?思い出の品としては大切なものかもしれないが、当時ほど、その物自体に執着している人は少ないのではないだろうか。人によっては、ほとんど捨てているかもしれない。だとするなら、同じ理屈が、今執着しているものにも当てはまる。

今執着しているものは、20年後にはほとんど執着していない。少なくとも、生きるために、必要不可欠というものはほとんどないと言ってもいい。でも、その時にはその物なしには考えられないくらい、人は物に執着する場合がある。つくづく不思議なものだなぁと思う。

もちろん、何にも執着しないというのも、寂しい気がする。だから、全てについて、執着を捨てろとまでは言えない。でも、その数を減らすことは難しいことではないと思う。執着する物を減らした分だけ、心は軽くなる。

その物でなければならない、という理由がなければ、執着しない方がいい。人生の終幕を迎える時まで、共に過ごしたいと思える物以外は。僕には、そういった物が2つだけしかない。思い出の詰まった懐中時計とジッポライター。それ以外は気にならない。もちろん、物は大切にしたいし、好きな物もある。でも、執着しない。だから、とても楽だ。そして、楽に生きられるようになって気づいた。

 

多くの苦しみは執着から生まれる

 


心の声に耳を傾けよう

 

心の声に耳を傾ける

楽に生きるために、消耗せずに生きるために最も重要なことかもしれない。それが、心の声に耳を傾けるということ

今ある環境に対して、ストレスを感じていないか?心が圧迫を受けていないか?もしそうだとするなら、環境を変えた方がいい。もちろん、環境を変えるのは容易なことではないかもしれない。でも、いざ変えてみると、案外何でもないことだったと思えるはず。僕の周りの知人や友人の多くが環境を変えている。そして、今のところは、心から良かったと思っている。

中には年収が減った人もいる。一般的な意味で言われるような、社会的な地位や名誉をすてた人も。でも、心が圧迫を受けることがなくなった。ストレスフリーになった。それが原因で、大切な人と言い争ったりすることもなくなった。自分や家族にとって、有意義に過ごせる時間が増えた。心を縛り付けていたお金や社会的な地位や名誉の代わりに彼らが手に入れたものは、人生にとってかけがえのないものだった。満たされている。彼らと話していると、つくづく感じさせられることである。

 

心が満たされているならいい。でなければ、それは本心から望んでいないこと。だから、そんな状況は避けた方がいい。人生は選択の連続だ。だから、両立することが困難だというのなら、選ばなければならない。どちらかを。選ぶ基準は心が知っている。心が圧迫を受ける選択肢は選ばない方がいい。譬え、お金や社会的な地位や名誉が得られたとしても、心が満たされていなければ意味がない。場合によっては、寿命を縮めることにもなりかねないし、人生にとってかけがえのないものを失う恐れさえある。人生の終わりに至って、選んで良かったな、そう思える物事を選択した方がいいよね。

 

 

心の声に耳を傾けるために

心の声に耳を傾けるために必要なこと。それは現実を受け入れるということ。これが、単純なことのように思えて、実はなかなか難しい。

現実を受け入れるためには、今に縛られない、執着しないことが大事。今に執着してしまうと、これからのことに対応できなかったり、機会的な損失を受けることにもつながりかねない。

たまに、「どうしてこんなことになるんだ!」なんて嘆く人がいる。確かに、「勘弁してくれ」ってことも時には起こるし、嘆きたくなる気持ちもわかる。でも、反省するために現状分析をして、問題解決を図ったりする以外に、「どうして」なんて理由を求めても仕方ない。そんなことで現状打破できたり、現実が変えられるわけでもないから。必然的な理由があるかもわからないし、本当の理由が確実にわかるという保証だってない。だったら、「どうして」なんて嘆くよりも、これから「どうする」ってことに意識を向けた方がよほどいい

起こってしまったことは、割り切って、現実(事実)として受け入れよう。嘆かわしいことがあれば、二度とそのようなことが起こらないように配慮しつつ、これからのことに意識を向けよう。事実に理由を求めても仕方がない。事実自体が何かの理由になるだけなのだから。

 

まずは現実を受け入れる。そして、心の声を聴く。その上で、これからどうすべきかを考える。そこで、現状を維持するか変えるかどうかということも含めて、いくつかの選択肢が生まれる。その中で、心が圧迫を受けない選択肢を選んでいく。それができれば、消耗することも、きっとなくなっていくんじゃないかな。

 

 

by    tetsu