普通とは何か?その呪縛について考えてみた

やわらかい哲学

はじめに…

私は小学生の時、落ち着きのない子供だったそうです。先生にはよく質問をしたり、先生から問題を出されるとハイハイ!と言って答えまくっていたらしい。

その時、先生が私によく言ってた言葉が「周りの人のように普通にしなさい!」でした。普通ってなんだ?とも考えましたが、「周りの人のように」という語からかろうじて他人に合わせるということだと理解しました。それから、中学、高校、大学と模範的な学生生活を送りました。

しかし、大学院生活・就職活動を通して真逆の能力が必要なことに気が付きました。それは、「普通から外れる能力」です。

研究は「常識を疑うこと」から始まります。常識を疑うためには、常識の外から物事を観る必要がありますからね。つまり、「普通から外れる」ことが必要になるわけです。

また、就職活動においても、ライバルに打ち勝つためには、自分の特性や長所をアピールしなければなりませんが、その行為自体が「普通からの逸脱」を意味していると思いませんか?長所も特性も「普通」であったら、何のアピールにもなりませんもんね。

以上のことを経験してきて思うことは

普通ってなんだ?

というわけで、今回は「普通とはなにか?」について考えてみました。

普通とはなにか?

普通と普遍の辞書的意味

普通の意味を辞書(大辞林)で引いてみると、普通の意味は以下のように定義されていました。

  • いつでもどこにでもあって、めずらしくない・こと
  • ほかとくらべて特に変わらない・こと
  • 特別ではなく、一般的である・こと

引用:大辞林 第三版

一見、誰にでも理解できそうな優しい語で普通の意味を説明されています。

しかし、この辞書で書かれている「めずらしくないこと」、「ほかとくらべて」、「一般的」とは、誰が判定するのでしょうか?この点を突き詰めないと普通の意味を理解することは難しそうです。

普通」とよく勘違いされる言葉で「普遍」という言葉があります。普遍という言葉の意味を辞書で調べると次のようにあります。

  • 広く行き渡ること。
  • すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。

引用:大辞林 第三番

この普遍という言葉は、「普通」の意味を考える上で重要な役割を果たすので、同時に検討したいと思います。

普通は相対的、普遍は絶対的

普通は相対的

見出しのとおり、「普通」とは相対的なものです。

例えば、大多数の日本人にとって「靴は玄関で脱ぐ」という行為は普通です。一方、海外では土足で家に入ることが「普通」であったりします。

その他にも、印鑑文化が挙げられます。現在、印鑑登録制度が存続しているのは日本だけです。日本人からすれば契約時や荷物の受け取り時に印鑑を使用することは「普通」の行為です。しかし、海外の視点から見れば、それは普通ではない行為になります。

このように、「普通」というものは自分の属する集団によって異なります。

人間は複数の組織(家庭、学校、会社、国、宗教など)に属します。そして、それらの組織に共通する風習や文化によって、個人の「普通」は規定されるのです。

そのため、「普通」とは相対的なものになります。そりゃ、一人一人所属する組織が異なりますからね。たとえ、同じ学校・民族・宗教の友人でも家庭環境が異なるため、普通の定義は異なるはずです。

科学者アインシュタインは常識という言葉についてこのような言葉を遺しています。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen

この文章の訳は「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションである」とされていますが、常識=普通として考えれば、「普通」の感覚とは18歳までに得た偏見のコレクションと考えることができます。

普遍は絶対的

一方で、「普遍」とは絶対的なもの又はそれに近いものです。

例えば、三平方(ピタゴラス)の定理は普遍的なものといえます。いつ、だれが、どこで発見したのかということは不明ですが、紀元前からその存在が知られています。

当然のことですが、古代エジプトにおける三平方の定理もルネサンス期のヨーロッパにおける三平方の定理も現代日本における三平方の定理もすべて同じものです。このように、三平方の定理とはすべてのもの(時間、場所)に共通するものです。

もちろん、それは理系分野に限ったものではありません。村上龍の著書「歌うクジラ」では、生きる意味はなにか?という人間の根源的かつ普遍的な問いに対して一つの答えを示しています。

もちろん、その答えが万人に受け入れられるかは不明ですが、「生きる意味を問う」のは人間誰しも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?

ストーリーも精緻で非常に面白い小説ですので、興味のある方は読んでみてくださいね。

リーガルハイ・スペシャル2では医療裁判通して、医療とはなにか?という問いに1つの答えを示し、医療の中にある社会的葛藤を描いています。

このようなテーマはどれだけ時が流れようとも、場所が変わろうとも変化しないものです。おそらく、人が人を積極的に治療するという行為を始めた時から続く永遠のテーマのように思われます。

このように、「普通」と「普遍」は似ているようで全く異なる意味を持つのです。

普通の呪縛を解くために…

人が知覚できる限界を認める

前述したように、「普通」とは人によって異なる相対的なものであり、同じ人間であっても時の流れで移ろいゆくものです。そんな儚い「普通」を私たちは普遍的に考えてしまうことがよくあります。

これは人間の知覚できる範囲があまりにも狭いからかもしれません。

養老孟司の「バカの壁」の一説にも、似たような言葉があります。この本も結構面白いので、興味のある方はぜひ!

「人間というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」

引用:バカの壁

 

確かに、自分の脳に入るもの(=理解可能なもの)のみで世界を解釈すれば、個人の普通があたかも世界の真理のように映るかもしれません。そりゃ、自分の価値観を絶対的なものと考えるわけですからね。

しかし、それでは相互理解など到底することはできません。ですから、まず自分の知覚・思考を全能と考えず、限界があること認めてしまいましょう。

自分は自分、人は人と考えよう

自身の「普通」が他者に当てはまるとは限りません。もちろん、逆もしかりです。

これは、個人間だけでなく、集団対個人においても同じです。

そうすれば、世間に良くある「普通の女は〜するものだ」とか「普通の男は〜するべきだ」というよくわからない偏見にわざわざ心を痛める必要がなくなります。「他人や集団の普通」≠「自分の普通」なわけですからね。

要は、自分は自分、他人は他人と分けて考えればいいわけです。

一つにならなくていい、互いに認め合おう

とはいえ、それほど問題は単純ではありません。なぜなら、「大衆の普通」は容易に「個人の普通」を否定するからです。ここで「大衆の普通」とは、近い普通観を持つ人間の集合体のことをさします。

昔はこの集合体が少数かつ巨大でした。そして、集合の外部にいる人たちは、常に「大衆の普通」に抑圧されました。

しかし、近年のネット社会の台頭や多様性の追及から、その流れに変化が生じてきました。多数の小さな集合体が生まれたのです。

自分のツイッターやフェイスブックを見てみてください。自分と同じ性向の人が沢山集まってはいませんか?一方で、自分の身の周りに同じような考えを持つ人間は多くいるでしょうか?おそらく、そんなに居ませんよね。その傾向は人に言えない性向であれば、より強く出ることでしょう。

それぞれの集合体が自立し、他の集合体を尊重するのであれば、多様性の観点からして望ましいと思われます。しかし、実際のところツイッターなどのSNSを覗けば互いにたたき合って、自らの正当性を訴えあっている状況にあります。

果たして、その先に相互理解など存在するのでしょうか?戦国の世のように争いを繰り返せば、分断はより大きなものになることでしょう。

ですから、互いの存在や居場所を認め合うことから始めれば良いのではないでしょうか?

最後に…

以上のことから分かるように、自身及び自身が所属する集団の「普通」を他者に押し付けてはいけません。そして、自身及び自身が所属する集団の「普通」が他者に押し付けられてはなりません。

互いに相手の「普通」を認めることが真の多様性を実現するための第一歩ではないでしょうか?