平和の象徴とは思えない鳩について

(※注. 今回の記事は、鳩好きの方はお読みにならないで下さい。ご覧いただく場合は、自己責任でお願いします。万が一不快な思いをされても当方では責任をおいません。そして、恐らく発言の撤回もしないので、鳩好きの方からの抗議も一切受け付けません。どうしてもとおっしゃる方は、tama個人にお願いします。あしからず。)

 


鳩って…

どーも。初任給で、人生でお世話になった恩人である両親とtetsuさんに、未だに恩返しできていないtamaです。これから、鳩をイジっていこうと思います。苦情がありましたら、マミアのボウガンのごとく、tama個人に向けて放って下さい。間違ってtetsuさんに放つと、二指真空把で撃ち返されますので、十分にご注意下さい。

tama「嘘だぁー!この記事を書いたのは僕ではありません!この人は、tamaを騙ったtetsuさんです!」

さて、茶番はさて置き、ボクは鳩が苦手だ。あまり好きじゃない。というか嫌いだ。下手すると、緑の悪魔の尻尾(専門用語で「ピーマン」と言うらしい)よりも嫌いだ。「好きなものを好きと言うために他を貶す必要はない」と名ギタリストが言おうとも、「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」と海賊王候補が言おうとも(本当は言ってないんたけどね)、声を高らかに言おう。ボクは鳩が嫌いだ。

まずあの見た目。オブラートに包んで表現するなら、汚い。そこには何かしらの造形美もなく、色彩の美しさもない。都会の嫌われ者のカラスでさえ、見た目だけは美しく艶やかな黒を纏っているのに、あの子たちったら排煙や排気ガスをまとったような色合いなんザマスのよ?口調がうっかりトンガリのママみたいになるくらい、鳩を見たくないザマス。平和の象徴?あのナリで?平和を貪ると、中原中也の悲しみばりに汚れちまうって、ニヒリスティックな哲学ナリか?口調がコロ助みたいになるくらいやつらは汚れちまってると思うナリよ。

(※注. あくまで個人的見解です。)

ほいで、あの歩き方。目の前横切る時、おちょくってません?目は横についてるから、こっちの反応見ながら、首振って「ちーっす」みたいな。首振りながらしか歩かれへんとか、どんな進化の仕方やねん。スペンサーの旦那ー!ダーウィンのおじさーん!適者生存の意味がボクにはわかりましぇーん!首じっとして歩け!てか、鳥やねんから飛べ!

(※注. 筆者は、決して怒っているわけではありません。よく大学生時代に誤解を受けましたが、これは筆者の出身地方にある、コミュニケーションに関する郷土文化で、「ツッコミ」と呼ばれる技法です。)

その上、あの鳴き方。くるっくーくるっくー、て。「ケモノ偏に王」て連呼し過ぎちゃいまっか?○○ってんのは、おたくらの存在ですわ。それにいつか高校生くらいの頃に先生に聞きましたで?おたくらの漢字の由来。何でも、鳴き声的に「くるっくー」の「く」の字取って付けて、トリに「九」で「鳩」て!名前がダジャレとかふざけてますやん!星一徹にそれ聞かせたら、ちゃぶ台ひっくり返されまっせ?

(※注. あくまで個人的見解です。)

ほんでまたヤらしいでしょ?公園で爽やかに屋外ランチなんてしようものなら、首振りながら寄って来て、横目でチラッチラこっち見ながら、「くるっくーくるっくー(ああ、腹減ったなぁ)」とか言うんですよ?素直に、「くるっくーくるっくー(失礼は承知ですが、お腹空いたんで、よろしければ、何ぞお恵み下さいませんか?)」て言うたらええのに。直接言わんところがまたヤらしいんですわ。

そのくせ、こないだ珍しく仏心出して、食べてたポップコーン少しあげよ思て与えたったら、見向きもせえへん。「くるっくーくるっくー(あ、ポップコーンでっか?もうちょいええもんや思てましたんやけど…ほなよろしいですわ。)」とか言うて、どっか行きよるんです。公園の地面に置いてけぼりにされて、ヤサぐれ散らかったポップコーン片付けてたら、何や悲しゅうなってきましてな。やっぱりあいつらケモノです。人情なんて少しもわかりやしませんのや。何であんなもんが平和の象徴ですねん…。

 


平和の象徴…?

鳩が平和の象徴である理由を調べてみた。一応、由来とされる事があるらしい。1つ目が、旧約聖書に出てくるノアの方舟伝説。知らない人のために、現代風にわかりやすくまとめるとこんな感じ。

〈むかしむかし、人間は現代人以上に堕落した生活を送っていました。電車の座席でムダに足を開いたり組んだりして、他人に不快な思いをさせる者。スマホいじりながら前を見ずに歩いたり、何人も横並びになり、ダラダラと歩いて他人の通行を妨げても何とも思わない連中。エレベーターやエスカレーターなどの通行量の多い重要な地点で、呑み会終わりか知らんけど、タムロして喋り○ってる社会人たち。か弱いお年寄り(ど厚かましい者を除く)や、妊婦さんが目の前にいるにも関わらず、優先座席でのうのうとスマホゲームに興じたり眠った振りして席を譲らない若者たち。我が子のことだけを中心に考え、無理難題をふっかけ、善良な教師を精神的に追い詰めるモンスターペアレント。イジメに気づいていないわけがないにも関わらず、問題を先送りにして、「知らなかった」と言い張る○○な教師。他党や他の議員の足を引っ張ることしか考えず、国会を空転させる××な政治家。政府の意向を忖度することしかできず、保身しか考えない官僚。そう、こんな救いようのない現代人なんかよりも、腐敗しきっていたのです。

神様は怒りました。「どないなっとんねん!考えられへんぞ!」と。当然と言えば、当然でしょう。ボクには想像もつきません。もちろん、現代の世の中にも素晴らしい人間はいます。それでも、考えられへん事だらけのこの現代の世の中。それよりも考えられへん事だらけの当時の人間世界に嫌気がさしたのでしょう。神様は決心しました。「よし、水に流そう」と。さすが神様。心広くも、すべて水に流してくれると言うのです。なんてのは、考えが甘かった。なんと神様、大雨を降らせて、大洪水を起こし、本当に人間世界を「水に流す」ことに決めたのです。心優しく勤勉な若者(500歳くらいだったらしいけど)とその家族を除いて。この若者こそが、tetsuさん、じゃなかった、ノアです。

神様はノアに知らせます。「世界を洪水で洗い流すから、舟を作りゃんせ」と。tetsuさんと同じくらいマジメ人間ノアは、舟を作り始めます。いきなり丘で舟を作り始めたノアを、周りの人間は嘲笑の的にします。ドラえもんの第4巻『世界沈没』に出てくるジャイアンやスネ夫のように、恐らく指差して、ノアを笑い者にしました。それでもノアは、ガラス細工のように繊細で美しいtetsuさんの心とは違い、安西先生の言うような断固たる決意でもって、舟を完成させます。

ほいで、動物を1つがいずつと、家族を舟に乗せて、ノアは運命の時を待ちます。すると、現代の気象庁の天気予報と同じくらいの確かさをもって、神様の言うように大雨が降り出したのです。雨はひたすら降り続きました。何日も何日も。恐らく、てつたまブログが20~30記事くらい更新できそうな期間、雨は降り続いたのです。てなわけで、当然、地上は大洪水。ノアの方舟に乗っている動物以外は、洗い流されてしまったのです。

やがて、雨はやみました。そこで、頭のいいノアは、鳩を放ちました。すると、オリーブの枝を加えて帰ってきました。さらに、一週間くらい経ってから、もう一度鳩を放ちましたが、今度は帰ってきませんでした。そうして、ノアは地上から水がひいたことを確信したのです。

きっと、ボク(tama)もtetsuさんから受けた恩を忘れて、いつか帰っていくこともなくなるでしょう。ノアの放った鳩のように。 おしまい〉

若干アレンジされたような気もするが、コレがかの有名なノアの方舟伝説。ここに出てくる、大洪水の終わりを知らせる存在としての鳩が平和の象徴とされたのだそうな。理由は他にもある。

1949年にパリで開かれた国際平和会議の際、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソがオリーブの枝を咥えた鳩を描いたからなのだと。なるほど。そら、平和の象徴に祭り上げられますわな。

でもね、私ゃ認めないよ。あんな人情もわからんケモノが平和の象徴だなんて、私ゃ認めない。スピードなワゴンの井戸田さんよりも認めないよ!なぜって?上に挙げたもの以外にも、キチンとした理由があるのです。それを聞けば(読めば?)奴らが平和の象徴でない理由もおわかりいただけるはず。

 


鳩が平和の象徴でない理由

別にね、鳩をどうこうしようって気持ちはないのよ。ボクが嫌いなだけで、鳩を好きな方々もいらっしゃるわけでしょうし。あの歩き方や、鳴き声を可愛いと感じる人もいるでしょう。実際、父親は昔鳩を飼ってたみたいですし。干渉しなければ、それでいいと思ってる。それでも、少なくとも、鳩を平和の象徴とするには問題がある。そんな驚愕の事実を皆様に是非とも知っていただきたい。だから、ボクは書く。武者小路実篤の『友情』に出てくる大宮のように、譬え、野島を裏切ることになろうとも、鳩が平和の象徴でないという想いを伝えようと思う!

tama「※注. すでにおわかりいただけているかとは思いますが、あまり真面目に読まないで下さい。」

〈それはある晴れた日の午後だった。coccoの『raining』で歌われる状況よりも、とてもよく晴れた日の午後だった。tetsuという名の爽やかな文学青年が、自転車をこいでいた。JUDY AND MARYやスピッツよりも自転車をこいでいた。クイーンの“bicycle”を口ずさみながら、自転車をこいでいたんだ。

何も悪いことなんかしちゃいない。音楽を聴きながら運転していたわけでもないし、スマホを見ながら走っていたわけでもない。車道を、法定速度の40km/hを越えずに(たぶん)下り坂を立ちこぎで疾走していた。

不幸は突然訪れた。足音をたてずに忍び寄る魔手に僕は絡め取られた。小さな衝撃が左肩に感じられた。微かな炸裂音を伴って。そう、それは魔手が僕の肩を掴んだ際に立てた、不吉を知らせる音だったのだ。

何が起こったのか、皆目見当もつかず、僕は恐る恐る視線を左肩へとやる。それは絵の具のような何かだった。白を基調とした絵の具。ところどころに花火の燃え尽きた導火線のような黒が混じっている。ほんのりとした柔らかな黄色と、淡い緑色。こいでいた自転車を急停車させ、空を見上げる。町田康が描く以上に『きれぎれ』の空。電線によって、分断された蒼穹には一片の曇りもない。やや後方に視線を向ける。その先には、夏の陽光の褥に身を沈めた一羽の鳥が。

鳩か…

ん?ハト?僕はハッとする。左肩。衝撃。炸裂音。白黒黄緑。上空の鳩。その瞬間、僕は全てを悟る。

フンやないかーーーい!!

急いで着ていたカッターシャツを脱ぎ、ティッシュで拭き取る。それでも完全に消え去るわけではない。ハトの刻んだ爆撃痕を溽暑の中、ジッと見つめる。『一握の砂』ならぬ、「一撃の痕」を。それを拭き取った痕を。そして、蝉の鳴き声を背に、ぢっと手を見る。〉

賢明な読者諸氏にはおわかりいただけたと思う。人にフンを落とす。手の届かぬところから。それが奴らの本性なのだ。そんなことを平和の象徴たるべきものが行うというのか?ありえない!

しかも、話はそれだけではないのだ。「悪いことは重なる?ポアソン分布について」の記事で追記しようと思っていたのだが、ある科学館の脇にあるレストスペースで、長閑な昼下がりの時間を満喫している時にも、頭に直撃を受けたのだ。鳩のフンの!一度ならず二度までも日本男子に向かって、フン撃するなど!まさに○の極み!(○の中には皆の好きな言葉をいれてネ)

以上がボクが鳩を嫌いな理由、鳩が平和の象徴でない理由である。そこに異論を差し挟む余地はない。譬え、どのような歴史的経緯があろうとも、鳩が平和の象徴などであってはならぬのだ!大体、ハブリエル・メツーの『手紙を書く男』を見るがいい。(山羊と)鳩は「移り気の象徴」として捉えられているではないか!皆さん、騙されてはいけない!

tama「tamaを騙るtetsuさんにも騙されないでね!」

by    tetsu tama