大学で哲学を専門的に学ぼうとする君へ

はじめに

西田幾多郎や田辺元といった日本を代表する哲学者を輩出した京都大学から哲学科が消えたと騒ぎになったのはもう随分昔のことだ。化学や物理やコンピューター関連などの、いわゆる役に立つ実学に比べると、確かに、考古学や哲学などの「潰しのききにくい」学問を修めようとする人間は減りつつあるのかもしれない。それに加えて、発達する科学技術により、多様化する学問の波に押されて、隅に追いやられつつあるかの学問の灯火は、静かに、それでいて確実に降り積もろうとする「時の埃」を辛うじて払いながら、五月雨の降り残した光堂のように、密やかに輝きを保っている。

しかし、人間が人間であろうとする限りにおいて、この叡智の灯火は決して消えることはない。資本主義によって煽動された実利主義の荒波が学府を呑み込もうとすれど、輝きを失うことはない。その証拠に、時には人が共存を躊躇うようなテクノロジーが確立されようとする折、必ずといっていいほど叫ばれるのは、未だに哲学の面影が色濃く残る倫理という名のマントラなのだから。

『これからの「正義」の話をしよう』や『ソフィーの世界』といった哲学的な一般書が、時代によって衆人の耳目を集めるのは、潜在的な志向性が失われていないということの表れなのだろう。その志向性が顕在化するある種の人は、より専門的に学ぼうと、哲学の門を叩く。「世界はどのようにしてあるのか」、「人は何のために生まれるのか」といった根源的な問いに捕らわれて、自由、神、幸福、生、数、理性、美などの数ある問題と向き合おうと、あるいはその実体を追い求めんとして、巨大な暗渠のごとき世界へと足を踏み入れるのである。

そう、それは暗渠のごとき世界なのだ。だから、注意しなくてはならない。その根源的な問いの放つ魅惑的な光に寄る螟蛾の群れに視界を奪われると、自身の立ち位置と将来を見失いかねない。だから、ロダンのかの彫刻のように、扉の上に座し、訪問者に苦言を呈することにしよう。

 


哲学とは何か

哲学とは何か、ということに関しては、以前、『哲学のすすめ』の記事に書いておいたので詳述は避けよう。だが、端的に説明するとするならば、あらゆる事柄について、「なぜ」や「どのようにして」と問う行為に他ならない、と言えるのではないだろうか。

古代ギリシアに限って言えば、最初は、素朴な問いから始まった。「世界はなぜ、どのようにしてあるのか?」という、実にシンプルな問いである。ある者は水からできていると言い、またある者は火からできていると言った。あるいは、広義の意味において、法によって成り立っていると考える者が現れ、別の者は数的な秩序や調和によって成り立っていると考えた。そう、諸学問の萌芽だ。そうした原初における人間的営為が、時代に、あるいは社会によって要請された形を取りながら、言わば進化論的に受け継がれてきた。それが現在の学問のあり方である。そして、そのあり方は、まだ見ぬ未来の光を目指して受け継がれ続けている、その過程にある。

哲学とは、そうした諸学問の始まりである。世界を様々な視点から捉え、自由な前提に依り、思考を体系付ける。それ河川の源流であり、ある程度の大きさを持った流れには、名が与えられる。名が与えられたそれは、もはや哲学ではない。代々受け継がれてきた流れは、数学という名が与えられるものもあれば、物理学や化学、歴史学などと呼ばれるものもある。すべては哲学であった。しかし、かつて哲学であったそれらの流れは、いつからか哲学ではなくなった。

一昔前に、京都大学の大学院入試で、「哲学に進歩はありうるか」という論述問題が出されていた記憶がある。実に面白い問いだ。「哲学的」な問い故に、様々な答えが考えられるやもしれぬが、個人的な見解を述べると、哲学に進歩はありえないと思う。なぜなら、進歩という言葉を「一つの流れとして体系付けられること」とするなら、体系付けられたそれは、哲学とは言えなくなるからだ。

逆説的ではあるが、哲学とは名を持たぬ学問なのである。いや、学問ということさえ躊躇われるかもしれない。学問が学問であるためには、共有されるべき前提が必要となるからだ。哲学には、そのような客観性を保証するものが、必ずしも、必要というわけではない。寧ろ、そのような主観性の内に芽生える客観性の萌芽を見つけようとする営みが哲学なのである。その芽が根付き、一度顔を出せば、それは哲学ではなくなる。それは倫理学、現象学、論理学などと呼ばれるようになる。

しかしながら、進歩と言いうる革新的な出来事が全くなかったわけでもない。デカルト哲学の台頭である。彼の偉業は、主観性の強い哲学に、最低限の客観性を与える基礎を築いたことにある。「疑いえぬ自我」の発見である。「我思う故に我あり」という超越論的な自我の発見は、夢想や虚言と、哲学とを明確に区分することに成功した。揺るぎえぬ自我があるからこそ、それを礎石として、確かなものとして世界を語ることが許されるようになったのだ。

それを進歩と言えなくはない。だが、それ以上に進歩と呼びうる出来事が続くことはないだろう。哲学が哲学であるためには、依然として、無名性が求められる。あるのは沈思黙考のみ。哲学は名を持たぬが故に、「哲学」と呼ばれるのである。

 


哲学と学府

それでは、「哲学」の名を冠する学問が、ある程度体系立てられて、大学などでレクチャーされているというのはどういうことか。それは、源流を遡ることに他ならない。それも限られた河川の。

哲学の流れは、様々なところにある。西洋哲学だけでなく、中国やインド、イスラム文化圏にさえある。しかし、主流は西洋哲学である。個人的に感じられたのは、西洋哲学以外のものは、支流というよりも、寧ろ、異端に近い扱いを受けていたのではないかということだ(あくまで個人的経験に基づく感想ではあるが)。

西洋哲学と言っても、大抵は、フランス、ドイツのものである。その証拠に、哲学専攻においては、第一外国語が、フランス語かドイツ語の選択となる。大学院へと進学する場合には、ラテン語などの基礎的な知識も求められることもあるが(もちろん、英語はできて当たり前)。

近年においては、体系立てて語られることの極めて少ないアメリカの哲学や、大陸合理論に比して語られる事の多いイギリス経験論が台頭しつつあるものの、依然として、西洋哲学と言えば、ドイツ、フランスのものであるという印象は拭えない。しかし、思い返してみて欲しい。哲学とは、そのような狭義のものであったか。

そうではない。既に述べてきたように、哲学とは、より自由な叡智の挑戦であり、思考の飛翔といった営みである。それは、捉え方によっては、体系に縛られるとも言いうる学問とは相反する性質を持つものである。学問としてある哲学が、逆説的にも、非学問的であらねばならないという宿命を負う以上、学府においてそれを学ぶことに如何なる意味があるというのだろう。

人生哲学や経営哲学などという言葉は今にできたものではない。これらの言葉が表しているように、哲学とは、個人的に成立しうるものである。そこには、学問的に求められる客観性が、必ずしも要請されるわけではない。つまり、哲学という行為は、どこででもできる、ということである。ならば、哲学を学びに大学へと進学するということがどれほど奇異なものかは理解できるだろう。

私自身の経験から言うと、大学での哲学には失望させられた。それは学問としてのものであり、自由な発想、世界の捉え方や認識の仕方、考えることの喜びからはかけ離れたものだった。大学院での研究は、学部時代のものよりは幾分マシとは言え、それでも哲学に対して抱いていた憧れを打ち砕くには、十分退屈なものだった。講義に出ずとも、テストやレポートで決められる成績は「A」か「優」。それは私が優秀だったからというわけではない。正直なところ、それなりに優秀な中学生でも、それくらいの成績は取れるのではないだろうか。というのも、「哲学」と言われたその衒学的内容は、本を読めば理解できるものしかなかったからだ。そこでは思考の主体性は求められず、能動的な知的精神の充足など臨めるはずもなかった。渇きしかなかった。常に、渇きだけがあったのだ。

 


哲学を学ぼうとする君へ

哲学を学ぼう、志そうとする人には、大学で哲学を専攻することはあまりお勧めしない。それは、個人的に辛酸を味わったからだけではない。よくよく考えてみると、至極真っ当なことなのだ。受動的な教育体制のこの国で、そして、客観性を一義的とする学問の世界において、自由な思考を前提とした哲学が可能なわけがないのだから。

哲学者研究を志すのであれば、何の問題もない。優秀な研究者や教授が探せば幾らでもいる。そういう意味で、師事することは実に有益と言える。しかし、それだけで満足できない場合、或いは、哲学の持つ神秘性に惹かれる人にとっては、お勧めできる事ではない。別の学問を修めながら、趣味で哲学に触れることをお勧めする。

それでも、哲学を志そうとする時、自分独りで何をして良いかわからない人のために、お勧めの方法がある。それは、大学に入学するというものではなく、講義に潜り込んだり、聴講生として講義に参加するという方法である。場合によっては、大学院の授業に潜り込んでもいい。但し、その場合は、予め個人的に大学の教授にコンタクトを取る必要がある。なぜなら、大学院の授業は、学部のものに比べ、圧倒的に少人数なので、生徒でないことがバレ、受け入れてもらえないこともあるからだ。寛容な教授によっては歓迎してくれることもあるが、念のため、受講を個人的に申し込んでみるのが良いだろう。

ただ、いきなり大学院の授業に参加するのはお勧めしない。まずは、学部の授業に参加させてもらい、教授とある程度コネを作っておく方が良いだろう。何より、大学院の授業に、突然潜り込んでも、内容が専門的過ぎて、ついていけない事の方が多いだろうから。カントの『純粋理性批判』をドイツ語原文で読めるだけの語学力があり、ニーチェの『曙光』や『力への意志』を読んでも理解できるくらい、ニーチェのキリスト教に対する態度についての知識があれば、問題はなかろうが。

哲学というのは、場所を問わず可能な人間的行為である。しかし、一言に哲学と言っても、様々なものがある。それが、哲学の魅力ではあろうが、哲学と哲学者研究とを混同すると、ろくな事はない。哲学を求め、大学へ行っても、待っているのは、場違いな失望感と、圧倒的な渇きだけである。そういった事をよく踏まえた上で、哲学を志すことをお勧めする。決して、私のように、人生に迷うことのないように。

by    tetsu