シュリ 人間存在の悲劇性

やわらかい哲学

シュリ

『シュリ』を観た。別に韓流が好きなわけではない。何気なく手に取った数ある映画の内の一つに過ぎなかった。正直、無理やり涙を誘おうとするだけの恋愛映画を観ようとは思わない。それでも『シュリ』を観ようと思ったのは、歴史的悲劇に見舞われ続けた朝鮮半島という場所が舞台だったから。そこに何かしら訴えかけようとする隠されたテーマがあることを僕は期待していた。期待は裏切られなかった。

映画に詳しいわけじゃない。だから、芸術作品として、映像の見せ方であったり、役者の演技なんかに関して何か気の利いた事を述べられるわけじゃない。でも、一つだけ確実に言えることがある。この作品には人間存在の悲劇性が描かれている。

その悲劇性は朝鮮半島が陥った特殊な状況と無関係ではない。大国の傍に位置し、民族の独立は常に脅かされ続けてきたと言っても過言ではないだろう。中国、ロシア、日本といった他国による支配が繰り返され、現在においても、大国の代理戦争の傷跡が北緯38°線として生々しく半島に刻まれている。

対立したイデオロギーによって引き裂かれた国家の歪みは、個人としての国民の存在性をも歪にしてしまった。その歪みが『シュリ』には描かれている。

 

簡単なあらすじを以下に記そう(※ネタバレを含むので、ご注意下さい)。

〔北朝鮮特殊第8部隊に所属する女性工作員イ・バンヒは過酷な訓練を経て、極秘任務に就く。それは韓国における要人の暗殺。彼女は様々な要人の暗殺に成功する。かたや、要人暗殺の事件を捜査する韓国諜報員のユ・ジュンウォン。捜査ではバンヒの足取りを掴めずにいたが、プライベートでは熱帯魚店で働く結婚を約束した恋人ミョンヒョンと充実した生活を送っていた。そんなある日、輸送中のCTXという液体爆弾が奪われようとしているのを知るジュンウォン。それを阻止しようと奮闘するが、爆弾は奪われ、殺されそうになるも、一命をとりとめる。情報漏洩を疑ったジュンウォンは偽情報で罠を張り、北朝鮮特殊部隊を誘き出すことに成功。そこで銃撃戦となる。負傷したバンヒを追い、見慣れた店へと辿り着く。中には負傷したミョンヒョンが。彼女がバンヒであることをジュンウォンは知る。舞台はサッカースタジアムに。この日、スタジアムでは南北合同試合があり、韓国首脳が観戦することになっていた。CTXを奪った目的は首脳の殺害。首脳の観戦席に仕掛けられた爆弾の無効化に成功するジュンウォンは、狙撃を企むバンヒの元へと駆けつける。銃口を突きつけ合う二人。首脳の乗る車に発砲するバンヒに向かって、ジュンウォンは引き金を引くのである…〕

 

崩れ落ちるバンヒの瞳に悲哀をみるか、許しに似た愛惜をみるかは人によって様々だと思う。だが、同じ民族同士の愛し合う二人が銃口を向け合わなければならなかったという理不尽な状況に、憤りにも似た悲しみを覚えた人は多いんじゃないかな。

 

二人の悲恋は、バンヒのダブルフェイスに起因する。一つは北朝鮮特殊部隊の工作員としてのバンヒの顔。もう一つはプライベートでのジュンウォンの恋人としてのミョンヒョンの顔(ジュンウォンもまた、仕事上の機密として、自分の立場を明かせなかったことも原因の一つかもしれないが)。これは間違いなく、朝鮮半島を巡る特殊な状況が生み出したものだ(フィクションではあるものの)。

大国は自分たちの都合だけで、恣意的に国境を定めた。北アフリカの国々を仕切る境界線が整然と区画整理されたかのようなものであるという現状を鑑みれば、容易に理解できるだろう。国境というもの自体が観念的なものに過ぎず、実在的なものではないという論はさておくとしても、その土地に住む人間以外の第三者が定めた境界線が不自然なものであるという言うまでもない。その境界線が同じ国家や民族を引き裂いているのであれば、尚更だ。そんなものがいつまでも続くわけがない。

不自然であるが故に、歴史における自然の流れの中で、南北に別れる分かれるベトナムは統一され、嘗てドイツを東西に分断したベルリンの壁は21世紀を前に崩壊した。そんな現代にあって、尚、朝鮮半島は分断され続けている。そんな不自然な分断の象徴である北緯38°線を歴史の傷跡と言わずして何と言おう。

作中でジョンウォンはバンヒを神話のヒュドラに喩えたが、潰された頭の傷口から忽ち新しい首が二本生えてくると言われる怪物に喩えたのは、悲壮ながらも秀逸だ。朝鮮半島の不自然な分断という歴史の傷口から生まれたバンヒとミョンヒョンという異なる頭を持つ怪物ヒュドラ。愛する女性をそのような怪物な喩えざるをえなかったジョンウォンの心中の悲しみはいかばかりだったであろう。

 

『シュリ』という作品は、表面的には、国家や民族の分断という歴史的問題に巻き込まれた男女の様子を描いているが、これは何も彼らだけに限った話ではない。実は、私たちにも大いに関係のある人間存在の根本的悲劇をも示唆しているのである。

 


ゆらめく存在性

 

フィクションの中ではあるものの、彼女はバンヒとミョンヒョンという異なる人間性の狭間で大いに苦しんだことと思う。だが、彼女の出自が特殊な土地柄にあったとしても、これは彼女だけに限った問題ではない。人間存在一般についても言えることだ。

バンヒとミョンヒョンほどかけ離れたものではないにしろ、生きる上で、私たちもまた、様々な顔を持っている。家庭においては、父親として、夫として、息子として…。仕事においては、上司として、部下として、顧客として…。実在的な存在性がいかなるものであるにしろ、他社の存在が前提となる場合、このような「~としての存在性」が付きまとう。ある時には○○としての存在であり、またある時には□□としての存在である。

 

存在がゆらめいている。

 

そして、複合的なものの可能性として、個の存在性が規定されるのであれば、恐らく、個の存在性は同定されることがない。従って、同じ個に帰属する存在性でありながら、各々の存在性が容易に矛盾しうるのである。その最たる例が、バンヒとミョンヒョンではないだろうか。

バンヒは北朝鮮特殊部隊の工作員としての存在性。ミョンヒョンはジョンウォンの恋人としての存在性。その狭間で彼女は苦しんだ。どちらの存在性にも、「彼女としての存在性」が同定されることはなかった。それらの存在性において、やるべきことが矛盾する。それでも、いや、だからこそどちらかを選ばなければならない。強いて言えば、その選択基準の価値判断に個の存在性は顕在化するのかもしれない。だが、恐らく、彼女はどちらも選べなかった。バンヒとして生きるのであれば、ジョンウォンと銃口を向け合い対峙した時に、彼に向かって躊躇することなく引き金を引けばよかった。あるいは、ミョンヒョンとして生きるのであれば、銃を捨てればよかった。そのどちらもできなかった。そんな彼女の取った行動は、首脳の乗った防弾仕様の車に銃弾を放つことだった。

矛盾する二つの存在性を抱えて、彼女の存在性はその軋轢に耐えきれなかったのではないだろうか。

 

「ジュンウォンと過ごした時間は私の人生のすべてだった」

 

そう語った彼女は、もはやミョンヒョンとして生きることは望めない。人生の大部分において染み付いた存在性と自らが望んだ存在性の間で崩壊してゆく自我意識。引き返せない状況の中で、最期の救いとして、せめて愛する者の手で命を終わらせたい。そんな悲痛な願望から、届かぬと知りながら、彼女は凶弾を放ったんじゃないかな。

 

実在的な存在の上で、矛盾しうる観念的な存在性が様々にゆらめいている。社会の中で生きていく以上、それから逃れることはできない。人間存在の悲劇性はそこにある。常に、「~としての存在性」を身にまとわなければならない。それがどのようなものであっても構わない。海と川とを行き来するシュリという魚のようにそれぞれの存在性を、場合によって、まとい分ければいい。でも、互いに矛盾する存在性の間で、自らのアイデンティティをかけて、どちらかを選ばなければならない時がいつかは来るかもしれない。そんな時、自分にとって何が大切かを見失わないようにしなければ。少なくとも、愛する者に銃口を向けるようなことにはならぬよう。ただただ、そう願う。

 

 

by    tetsu