「One for All, All for One」の本当の意味とその後に続けるべき言葉

人間関係・自己啓発

多くの人が「One for All, All for One」という言葉といえば、ラグビーの精神論に由来する言葉で、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という意味だと捉えていると思います。実は、僕も数か月前までそのように思っていました。しかし、本当の由来と意味は全く異なるものなんです。というわけで、今回は「One for All, All for One」という言葉の本当の由来と意味について解説していきたいと思います。そして最後に、僕がこの文に続けるべきだと思う言葉をご紹介したいと思います。

由来

One for All, All for Oneといえば、ラグビーの精神論に由来すると思っている方がほとんどだと思います。しかし、本当は違うんです。この言葉は、アレキサンドル・デュマ(フランスの作家)の小説「三銃士」の主人公ダルタニヤンと三銃士の誓いの言葉(1884年出版)として出てきています。もっとさかのぼれば、ヨーロッパの30年戦争(1618~1648年)の発端となった「プラハ窓外投擲事件」における決起集会でもこの言葉が出てきています。もちろん、言語は英語ではありませんが…したがって、「One for All, All for One」という言葉はラグビーの精神論に由来するわけではないと言えるわけです。ちなみに、ラグビーの原型の発祥は1823年と言われていますよ。しかも、意外なことに「One for All, All for One」がラグビーの精神論となっているのは日本だけです。

本当の意味

現在一般的に知られている「One for All, All for One」の意味は本来の意味とは異なります。実は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」ではなく、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」なんです。おそらく、英語→日本語への翻訳過程においてニュアンスに違いが生じてしまったのでしょう。同じ英文を訳しているだけなのに、全く意味が違いますよね?

とはいえ、「One for All, All for One」は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」で間違いないと主張する方もいらっしゃるでしょう。しかし、この訳より「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」と訳したほうが「プラハ窓外投擲事件」・「ラグビーの精神論」を考えてみてもしっくりくるのです。

プラハ窓外投擲事件の場合

この事件を超簡単に要約すると、宗教対立により迫害された民衆が支配者層に反乱を試みたという事件です。その反乱側の決意表明文の中にラテン語で「Unus pro omnibus, omnes pro uno」というものがありました。もちろん、この文章の英訳は「One for All, All for One」です。

もし、「みんなは一人のために」と訳してしまうと、反乱民衆は「一人のために」行動するということになります。しっくりきませんよね?反乱民衆は「支配層打倒という目的のために」行動しているはずですからね。このように、「みんなは一人のために」よりも「みんなは一つの目的に」のほうが説得力があるように思いませんか?

ラグビーのチームワークの場合

ラグビーにかかわらず、スポーツとは「勝利」を目指すものです。こんな風に言えば、「勝利至上主義」だと揶揄されるかもしれません。しかし、よく考えてみてください。時間と汗水を費やして練習するのは何のためなのでしょうか?もちろん、勝利のためですよね?

もちろん、ラグビーなどのチームスポーツの場合は、チームとして勝利目指すということになります。そして、チームメンバーはチームのためにそれぞれが出来ることに全力を尽くします。こう考えてみると、「One for All, All for One」の訳は「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」のほうが正しいと思いませんか?

その後に続く言葉

Mr.Childrenの「掌」という曲の歌詞に次のようなものがあります。

all for one for all but I am one
all for one for all but you are one

Mr.Children「掌」より

この歌詞を超意訳すると、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために、だけど僕は僕だ。一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために、だけど君は君だ。」となります。これが、僕が思う「One for All, All for One」の後に続けたい言葉です。

ビジネスであろうが、スポーツであろうが、1つの組織にだけ入れ込むと「自分の存在」と「組織における自分の存在」が同化してしまいます。しかし、人間存在の悲劇性の記事にもあるように、自分の存在は常に「ゆらめいているもの」であり、所属する組織によって同じ人でもいくつもの顔を持ちます。家庭においては、親として、配偶者として、子として…。仕事においては、上司として、部下として、顧客として…。スポーツクラブでは、キャプテンとして、エースとして、補欠として…。

シュリ 人間存在の悲劇性

2019年5月12日

人はなんらかの組織に属する以上、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」頑張ることになります。そのため、その人の存在価値をある組織における貢献度で考えがちです。しかし、「その組織における自身の存在」と「自分の存在」は全く異なります。

例えば、「一人はみんなのために」という精神に則って、甲子園に出場できない選手は甲子園に出場する選手のために、練習の手伝いをします。だからといって、甲子園出場選手のほうが偉いわけではありません。出場できる選手もできない選手も同じ一人です。会社の中における階級では、平社員より社長のほうが圧倒的に偉いですが、どちらも一人の人間であることに変わりはありません。甲子園に出場できない選手にも平社員にも家族や仲間がいて、家族や仲間にとってはかけがいのないOneなんです。

一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」頑張ることが大切なことは間違いありませんが、「みんなを構成する一人一人がそれぞれ誰かにとっての特別なOne」という目線も決して忘れてはならないと思います。

だから、僕は「One for All, All for One」の後に、「But, I am One / But, You are One」と続けるべきと考えるわけです。

まとめ

  • 「One for All, All for One」の由来
    本当の由来はラグビーではなく、プラハ窓外投擲事件
  • 「One for All, All for One」の意味
    本当の意味は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」ではなく、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」。
  • 「One for All, All for One」に続けるべき言葉
    続けるべき言葉は「But, I am One / But, You are One」。その理由は、「みんなを構成する一人一人がそれぞれ誰かにとっての特別なOne」であるから。