「知らぬが仏」は正しい?それでも不満足なソクラテスでありたいか?『アルジャーノンに花束を』にみる人生の幸福論

やわらかい哲学

個人的に思う文学の楽しみ方

それなりに本が好きで読むことがある。でも、好みがうるさく、個人的には名著と思えるものに出会うことは少ない。世間的には認められているものでも、個人的に面白さを見出せないこともしばしば。思うに、文学の楽しみ方には、主に2つのものがある。

1つが、表現の巧みさに触れること。淀みのない美しい文章によって著された流れるような文体は、時として、ドビュッシーの『アラベスク第一番』を彷彿とさせる。一種のカタルシスを喚起することさえある。この種の文学の極致は、『奥の細道』に代表されるのではないかと、個人的には思われる。あるいは、映像の切り取り方についても言えるだろう。無駄を排したそのあり方は、努力の結晶とも言える、鍛え込まれたボクサーの体躯のようなある種の機能美を兼ね備えており、G線上のアリアやバッハの無伴奏チェロ組曲、時には、ジョン・フルシアンテの「枯れた旋律」を思わせる。これもはやり、『奥の細道』が代表として挙げられる。言葉選びや言い回し、表現の仕方そのものについても言える。人生の真理と言いうる寸言、時にはパラダイムを転換しながらも表現しようとする対象のあり方自体は崩すことなく示されるレトリック。Mr.Children全盛期の桜井和寿の歌詞もさることながら、やはり『奥の細道』が代表作と言っても差し支えなかろう。もちろん、場合によっては、シェークスピアの諸作品も挙げられるであろうが。

2つ目が、テーマに触れること。それにより、私たちの内的に眠る哲学的好奇心は刺激され、何とも言えぬ、あの読後感を味わうことになる。ドストエフスキーを代表とするロシア文学。閉鎖的な意味で専門的とはいかずとも、ショーペンハウエル、カミュ、あるいはニーチェといった哲学者の著作。日本文学であれば、太宰治、芥川龍之介、石川達三。からのぉ~、『奥の細道』。やはり日本代表は松尾芭蕉かな。

どれだけ『奥の細道』推すんだって感じだね。学校の教科書の抜粋部分にしか触れたことなかったんで、一念発起しまして、最近読んでみたんだけど、思いの外面白かったんです。やはり、個人的に思う文学の楽しみ方的には、〈表現的面白さ〉と〈テーマ〉を兼ね備えたものが真の名作だと思ってるので(あくまで個人的見解です)、そういう文学は是非ともオススメしたい!そして、他の人にも読んでもらって、後世へと語り継がれるのが本望ですわ。

でもね、実は、今回オススメするのは『奥の細道』じゃないんだよね(もちろん、オススメはするけど)。どないやねんというツッコミが聞こえてきそうな中、今回オススメするのはズバリ!

『アルジャーノンに花束を』 

 


『アルジャーノンに花束を』

1966年、長編小説として改作された『アルジャーノンに花束を』は、ダニエル・キイスによって著された名著。一応、あらすじを記しておこう。

(※ややネタバレを含みます。)

主人公のチャーリー・ゴードンは所謂、発達障害を抱えていた。30歳を越えても、知能は6歳児と同じ。でも、疑うことを知らず、常に笑顔で、周りに親切であろうとするチャーリーはとても優しい青年だった。

ある日、ハツカネズミのアルジャーノンを用いた動物実験で、ロボトミー手術により知能を大幅に高めることに成功した大学教授たちは、同手術の被験体としてチャーリーを選ぶ。常日頃から、周りの人たちと同じくらいの高い知能を求めていたチャーリーはこれを受託する。

チャーリーの知能は、日に日に高まっていく。数ヶ月もすれば、施術した教授たちをも上回るほどに。しかし、目に見える知能の発達とは裏腹に、これまで目にしていた幸福な情景は、残酷な現実へと塗り替えられていく。自分が母親に捨てられたのは、知能に障害があったからだと知る。これまで仲良く遊んでもらっていたと思っていたパン屋の同僚たちは、チャーリーをからかい虐めていただけだったのだと知る。これまでは知るすべもなかった現実を目の当たりにし、チャーリーの精神は崩壊し始め、呻吟しだす。

そんな中、ハツカネズミの被験体だったアルジャーノンに異常が起こる。知能の退行が見られ始めたのだ。手術は完全なものではなかった。知能が徐々に失われゆく中、チャーリーは、それを阻止する方法を模索し始める。しかし、すべては徒労に終わり、チャーリーは手術前の知能へと戻ってしまう。

彼の見る景色も以前とすっかり変わらぬものになる。知能が高まったチャーリーを気味悪がってたパン屋の同僚たちも、以前と変わらぬようにチャーリーをからかい、再び虐め出す。それでも、チャーリーの瞳には、自分と遊んでくれる友達として、同僚たちは映るのである。こうして、チャーリーは施設へと入り、幸せそうに日々を暮らしていくことになるのであった。

(文責 tetsu)

だいたいまとめるとこんな感じ。本当はもっと色んな人間ドラマが展開されていくんだけど、書ききれないし、直接読んで欲しいから、これくらいにしておきます。

個人的には、かなり面白かった。自分が読んだ中では、三浦綾子の『氷点』以来の名作。間違いなく、この本は後世に語り継がれていくだろう。他にも面白い本は数あれど、「中高生にオススメは?」と訊かれたら、『アルジャーノンに花束を』と即答するだろう。ぶっちぎりで断トツ1位。それほどよくできた作品。SF作品に分類されるけど、正直、作品テーマは現実社会と直結している。そのテーマとは、「人間関係における幸福と知能について」だと思われる。中高生にオススメである理由は、このテーマが「幸福」という人生における重要事の1つであることと、学びを本業とする学生に、「知能」という理性的な力を人生の中で改めて捉え直すきっかけにして欲しい、というもの。

しかも、この作品の優れている点は、読みやすさ。人生の深淵にある哲学的範疇をテーマにしているにも関わらず、非常に読みやすい。難しい手術や知能指数の高い天才が出てくるのに、難解な話なんて一切なし。中高生にも簡単に読み進められる良書。

それだけじゃない。内容の面白さに加えて、文学的な表現技法の面白さをも兼ね備えている。この作品はチャーリーの視点からの日記調で書かれているんだけど、彼の知能指数の変遷が、文体によって表されている。例えば、チャーリーの初期の書き方は「こんににわ、ぼくわちゃーりーごーどんというのだ」みたく、平仮名だらけ、誤字だらけでtamaだらけ。でも、徐々に正しい文法で漢字を交えて書くようになる(てかこれ、初期の文章、原文の英語を和訳した人スゴいよね)。やがては論文で見かけるような文体で著されるようになる。

何がスゴいかと言うと、その文体の変遷の仕方が、知能指数の変わり様を見事に表している。例えば、「しんどがる」→「苦しむ」→「呻吟する」みたいに、言葉遣いが難易度を増していく。これにより、チャーリーの知能指数の変遷が、ありありと読み手に伝わるようになっている。世の中には色々な物語があろうが、この小説に限って言うと、その面白みを余すことなく実写化することは不可能だと思う。なぜなら、このような表現技法における物語の楽しみ方は、本であるからこそ可能なのだから。

その表現技法における楽しみ方、あるいは、私たちの感情に訴えかける表現効果について、他にも思うところはあるものの、それについてはまた別の機会にしておきたい。今回は、この小説がテーマの1つとしているであろう「知ることと幸福との関係」について考えていこう。

 

「知らぬが仏」は正しいか?

チャーリーは幸せだったのか?

「知らぬが仏」という諺がある。「知らなければ、心乱されることなく、仏のように穏やかで平静を保っていられる」という意味だ。「知らない方が良いこともある」という意味でも、一般的には用いられよう。ここで言う「乱されることなく、心の平静さ(しかも、満たされた心の平静さ)」をシニカルではない「幸福な状態」と捉えると、後者に似た意味で、「知らない方が幸せである」と言えるかもしれない。

『アルジャーノンに花束を』を読むと、痛感させられる。悲しいことに、6歳児並みの知能指数を持つチャーリーはとても幸せそうに見えた。事実、そうだったのかもしれない(フィクションではあるものの)。しかし、「悲しいことに」と言ったように、どこか痛々しく映るのはどうしてだろう?僕がそういった類の幸福を、心の奥底で拒絶しているからなのだろうか?

パン屋の同僚たちは「遊んでくれている」のだとチャーリーは信じていた。現実は、彼をからかい虐めていただけなのに。自分に向けられた侮蔑と嘲笑を、彼は意に介さなかった。その意味を知らなかったのだ。

手術後に知能指数が上がったチャーリーは、その意味を知ることとなる。今まで見えていなかった現実を理解する。そして、自分がこれまで同僚たちに馬鹿にされていたのだと気付くのである。

やがて、彼の心は黒い感情に支配されるようになる。これまで遊んでくれていると思っていたパン屋の同僚たちを見下し、憎悪する。もはや、彼の口調には、純真と呼びたくなるようなかつてのチャーリーの面影はない。幸福に満たされていた彼の心は、ギシギシと鈍い音をたてて、軋んでいた。

彼の心に負荷をかけていたのが、知能という原動力であり、知るということの、知識の重みであるとするならば、知は幸福を奪ったと言えるのかもしれない。少なくとも、表面的な幸福を。しかし、「仏であった」チャーリーは、本当に幸せだったのだろうか?

不満足なソクラテス

知的探求や好奇心を話をするときに、よく「肥った豚か?痩せたソクラテスか?」なんて言葉を耳にすることがある。もっとも、これはJ・S・ミルが『功利主義論』で語った言葉が、間違って流布したものだと考えられる。原文は次のようなもの。

It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

拙訳ではあるが、日本語で言うと次のようになる。

満足した豚であるよりも、不満足な人間である方がいい。同様に、満足した愚者であるよりも、不満足なソクラテスである方がいい。

ここでは「肥った」だの「痩せた」だのという話は出てこない。恐らく、豚やソクラテスという言葉のイメージから、間違った形容詞が与えられた形で広まったのだろう(他に元ネタがあったらごめんなさい)。

多くの人間には、知りたいという欲求がある。それは、どんな事についてでも構わない。ある者は歴史を。科学的真理を。音楽を。また、ある者は芸能ゴシップや、プロスポーツの結果を。愛する人に関する事や、世界の情勢を。

日々の暮らしの中でも、様々な事柄を知ろうとする。一体、どれほどの人がこの瞬間にも、検索で(ネットサーフィンも含めて)インターネットを活用していることか。ソクラテスほどストイックではないにしろ、何かについて知りたいと思うのは人の性なのだ。

しかし、何かを知ることで心の平穏を乱されるとしたら、それでもその何かについて知りたいと思える人間がどれほどいるだろう?ここは大きく意見が二分するところだと思う。

知るが幸福か?知らぬが幸福か?

僕はこれまで不満足なソクラテスでありたいと願ってきた。哲学なんてものに触れているくらいだから今でもきっとそうなのだろうけど、そこに「幸福」なんてものが絡んでくると、一概にはそう言えなくなる。

譬え手術前のチャーリーであっても、彼を愚者とは呼びたくはないが、ソクラテスと言えないのは間違いない。しかし、それでも彼は幸せそうに見えた。そして、ソクラテスに近付けば近付くほど、幸福からは遠ざかっていくように見えるのだ。

幸福が満たされることによって与えられるのだとするならば、不満足なソクラテスは幸福とは縁遠い人間だと言える。従って、チャーリーに対して感じたことにも、得心がいく。とは言え、彼のあの有り様を、真に幸福な状態と心から言える人がどれほどいよう?極端な話、白昼夢や幻覚に耽溺する人間でも、心さえ満たされて(satisfiedで)いれば、幸福だということになる。僕はそれを「幸福」と呼びたくはない。

もちろん、幸福の形は人それぞれだと思う。豚には豚の、ソクラテスにはソクラテスの幸せがあるのだろう。しかし、チャーリーの幸せがいかなるものかは考える必要がある。というのも、彼の身の上に起きたことは、程度の差こそあれ、僕たちにも起こりうることだからだ(事実、僕たちは教育を受けることによって、チャーリーの数ヶ月を何年もかけて経験してきている)。

「人は事実を事実自体として知ることはできない」という不可知論的な立場からすれば、豚もソクラテスも大差ないのかもしれない。それでも、知に向かうという姿勢に、理性的主体としての人間の幸福を見出すことはできるだろう。譬え、その結果に呻吟することがあろうとも。

最後に…

Zack de la Rochaは叫ぶ。

If ignorance is bliss
Then knock the smile off my face!

知らぬことが無上の喜びだというのなら

俺から笑顔を奪い去ってくれ

Rage Against The Machine“settle for nothing”より

(拙訳はtetsuによる)

彼にとっては、無知は無上の喜びであってはならない。譬え、苦しむことになろうとも、彼は知ることに幸福を見出すだろう。きっと、そんな気がする。

知る幸福と知らぬ幸福。あなたならどちらを選ぶ?『アルジャーノンに花束を』は、そんな根源的な問題を、読む者に静かに問いかけているのかもしれない。

by    tetsu