おはこんばんちは。ついに、女心がわからない選手権世界チャンピオンに手が届きそうなtetsuです。
もう 土壇場
されど もうひと押し
けれど I surrender
分厚い積乱雲が 胸の中に立ち籠める
(Mr.Children 『Surrender』より引用)
なんて、当方、ブルーな気持ちの曲が似合うブラックセプテンバーを過ごしておりますが(記事をアップする頃には、ブルーオクトーバーですね)、皆様は如何お過ごしでしょう?
Mr.Childrenの『Surrender』に出てくる「けれど I surrender」の件って、やっぱり「愛されんだぁ」と、言葉かけてるよね~!なんて話ができたら、その人まあまあの桜井和寿ファンと見て間違いないでしょう。
言葉の表面的な意味こそツンツンしてますが、その裏にある人間的な弱さに苦しむ男は、誰かに愛されるということを願ってやまないのでしょう。そんな悲哀の叫びが桜井和寿氏の歌に乗せて、届いてきそうです。
先日、やや真面目な愛情論を展開したのですが、様々な愛情論については触れませんでした。温故知新と言うように、これまで先人たちが考えてきた愛について知ることは、有意義だと思います。そして、そうしたことを知るところから、そこから自分なりの、「愛」を育ててみていただきたい。てなわけで、これまでの、そして、これからの「愛」の話をしよう。
(※注. 最近、愛について書いていますが、筆者は愛に目覚めたクリスチャンではありません。むしろ、彼女の有無によらず、クリスマスを祝ったことのないバリバリの仏教徒です。サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』とは無関係です。)
目次
「愛」とは
ある帝王の場合
愛ゆえに人は苦しまねばならん!
愛ゆえに人は悲しまねばならん!
愛ゆえに…
ネロ(ローマ帝国の「やべぇ」って言われてる皇帝)以上の暴君ぶりと、保科正之(昔の日本のえらい人)以上の名君ぶりを併せ持つ歴史上最も偉大な帝王は愛についてこう語ります。他にも「天空に極星は2つはいらぬ」や「退かぬ 媚びぬ 省みぬ」など、様々な名言を歴史に刻んだ彼ですが、愛については一家言あるようで、一貫して、愛についてのネガティブな側面を叫び続けました。
こんなに苦しいのなら
悲しいのなら……
愛などいらぬ!!
彼の過去に何があったのかはわかりませんが、ここまで、愛についての苦しみや悲しみについて叫び続けるからには、幼少期に何かしらのトラウマが生じたのでしょう。
お師さん
むかしのように
もう一度ぬくもりを
という、あまりに有名な彼の辞世の句(字余り)からも察せられるように、恐らく、このオウガイさん、じゃなかった「お師さん」なる人物の悲劇的宿命が、幼少期の彼の愛に対する考え方に、ネガティブな影響を及ぼしたことは間違いなさそうです。
何はともあれ、彼の主張によると、愛とは「苦しみや悲しみの原因であるところのもの」なのでしょう。ですから、彼の前に、ある救世主が現れた時も、彼は問うておりました。
愛や情けは哀しみしか生まぬ…
なのになぜ哀しみを背負おうとする
なぜ苦しみを背負おうとする
この救世主、果敢にも、アリの反逆をも許さぬ彼に対して、口答えをします。
哀しみや苦しみだけではない
お前もぬくもりをおぼえているはずだ
出た!
出ました!
これまた名言!
スタンダールの『恋愛論』なんて吹っ飛んじゃうくらいの、愛に対する哲学的名言ですねぇ。いやホント、このやり取りったらシェークスピア顔負け!
まあ、2人のやり取りを纏めると、「愛=哀しみ+苦しみ+ぬくもり」となるわけですね。もちろん、他にも要素はあるかもしれません。正しくは、「愛=哀しみ+苦しみ+ぬくもり+…」となるのでしょう。それなりに的を射た表現だとは思われます。
Mr.Childrenの楽曲に表れる恋愛観
どうしようもない感情
Mr.Childrenの楽曲に表れているものとしての、桜井和寿さんの愛情論には、それなりに恋愛的修羅場をくぐってきただけあって、得心がいくところがあります。詳しくは、真面目に書いた記事「愛について」をご覧下さい(いや、この記事も序盤以降は真面目に書いてんだけどね)。ある種の消極性や受動性が見て取られる彼の愛情論は(恋愛論と言った方がいいのかもしれませんが)、年を重ねる毎に変わってきてんだよねぇ。
昔は、何でもかんでも、「抱きしめたい」とか歌ってたわけですよ。「車の中でかくれてキスをしよう」とか。つまるところ欲望剥き出しです。この傾向は、『ボレロ』あたりまで続きましたね。でも、少しずつ変わってくる。
まるで病
もう神も仏もない
紛れもなく
これが恋っていうもんです
(Mr.Children アルバム『ボレロ』に収録された「ボレロ」より)
「まるで病」っつってんだから、どうしようもないってことです。そして、続く。
心なんてもんの実体は知らんけど
身体中が君を求めてんだよ
(抜粋 同上)
「身体中」が「求めてる」わけですからね。どうしようもない欲望剥き出しですわ。まあ、若者にありがちな恋愛観に基づいている感じはします。
(※注. 完全に個人的な思い込みですので、異論のある方は、tama宛てに上限文字数100000字のメッセージをお送り下さい。以下同様)
名盤『Q』までの道のり
ただ、ドロドロした恋愛を経験してきたせいか、精神はかなり不安定になります。音楽が精神性を体現してるという前提がありますが、『深海』や『ボレロ』という作品、『Atomic Heart』以前の爽やかなイメージぶっ壊して作り上げたアルバムですが、相当沈んでます。浮き上がろうと、もがいています。その息苦しさが切々と伝わる感じ。そして、ヤケになってる感じかな。その壊れ方が面白い。気持ちを衒うことが一切ない。若人の熱い思いをストレートにぶちまけてる感じですかね。そして、活動を休養して、これまた名盤『DISCOVERY』を発表します。
『DISCOVERY』では、『深海』以前に見られた、あの爽やかな桜井さんの歌が再び聴けるようになります。ただ、爽やかなだけじゃありません。様々な苦悩を乗り越えて、桜井ズムに磨きをかけた名曲が収められています。「ラララ」や「Simple」など、ただ爽やかなだけの曲ではありません。悟りの扉を開いたって感じですね。
ようやく、人生の深海から浮かび上がってきたのかなって思わせながら、『深海』や『ボレロ』で培った、良い意味でのぶっ壊れ方も健在です。「アンダーシャツ」、「ニシエヒガシエ」、「♯2601」なんて爽快です。と、思いきや、「Prism」、「l’ll be」、「終わりなき旅」、「lmage」はしっとりとした魂の叫びを感じさせます。悪く言えば、浮き沈みが激しく不安定。良く言えば、色彩豊かとなるのでしょうか。
そこからは、何か吹っ切れたかのような壊れ方をします。恐らく、Mr.Childrenの歴史において、五指に入るであろう名盤『Q』の発表です。ミスチル好きであれば、皆が納得するであろう最高傑作の1つでしょう。ここにおいて、Mr.Childrenは全盛期を迎えると言っても過言ではないかと、個人的には思われます。
何かしらの吹っ切れた感は、「CENTER OF UNIVERSE」や「十二月のセントラルパークブルース」を聴けば、理解していただけるのではないでしょうか。もちろん、それだけではなく、個人的にベスト5に入るのではないかと思われる名曲「NOT FOUND」もあり、万人受けしそうという意味での王道の曲「口笛」もあり、遊び心満載の「友とコーヒーと嘘と胃袋」もあり、捨て曲のない仕事ぶりには舌を巻く思いです。
「ロードムービー」
その中でも、桜井ズム全開の「ロードムービー」に気になるフレーズが。
ただ君の温もりを
その優しい体温を
この背中に抱きしめながら
(Mr.Children 「ロードムービー」より)
これは、共に人生を進もうとする(と想像される)「君」を後ろに乗せてバイクを走らせる主人公(?)の心情を歌い上げた曲です。だから、当然、「抱きしめ」ることなんてできないんです。寧ろ、後ろに乗せてる「君」という人物が、主人公にしがみついているでしょうから、抱きしめられているとも言えるでしょう。
つまり、ここで言う「抱きしめながら」ってのは、直線的な行為そのものではなく、あくまで心情として表されるレトリックなんですね。そこには、ある種の愛情の受動性や、否定的な意味ではない消極性が表れているのではないかと思われるのです。
こうした受動性ないし消極性は、もちろん、愛情論だけにとどまるものではありません。それは人生観にも及びます。例えば、同じ「ロードムービー」にはこんな歌詞もあります。
今も僕らに付きまとう幾つかの問題
時の流れに少し身を委ねてみよう
(同上より抜粋)
「時の流れに少し身を委ねてみ」るということは、自ら積極的に何かをしようと言うのではありません。もちろん、主体的に動くことはあるかもしれませんが、自然な流れに任せてみようという、ある種の消極性が垣間見えます。
他にも瞠目するところもあります。ご存知ない方のために説明しますが、桜井ズムの真骨頂の1つですが、彼の詩は喩えが秀逸なんです。この「ロードムービー」だって、街灯が飛び飛びに映す光と暗闇のコントラストを、映画のフィルムに喩えているわけですね(実物を見たことのある人はわかると思いますが、フィルムは写真のように映し出されたコマと黒い余白フィルムが交互にある帯状のものなんです)。そういう喩えをすることによって、この作中の2人の人生、とまではいかなくとも、そのあり方を1つの物語として表現しようとしているのでしょう。
また、「カーラジオも無くそしてバックもしないオートバイが走る」という表現があるのですが、引き返すことのできない一度きりの人生を、2人を乗せて走るオートバイに重ね合わせているところも面白いです。そして、「街灯が2秒後の未来を照らしオートバイが走る」というレトリックも面白い。言い回し、喩え、レトリック、どれも遊び心を持ちながら、人生の本質をついている。それが、かつての桜井ズムの特徴と言えるでしょう。
(※注. あくまで個人的見解です!)
「HANABI」
Mr.Childrenの話になると『千夜一夜物語』となりかねないので、話を元に戻しましょう。昔は、「抱きしめたい」など直接的で、積極的な表現が多かった桜井さんですが、円熟期になると、ある変化が見られます。『SUPERMARKET FANTASY』の「HANABI」の一節です。
逢いたくなったときの分まで
寂しくなったときの分まで
もう一回もう一回
もう一回もう一回
君を強く焼き付けたい
(Mr.Children アルバム『SUPERMARKET FANTASY』に収録された「HANABI」より)
最初、これを聴いたとき、ちょっとした違和感を覚えました。というのも、昔なら「君を強く焼き付けたい」ではなく、きっと「君を強く抱きしめたい」となっていたはずです。
すべて終わりが来るものとしての世界を花火の輝きに喩えているので、「君」の存在も輝きも「決して捕まえることの出来ない花火のような光」であると考えると、それは「抱きしめる」対象ではないと言えます。とは言え、「君」への想い(愛情)を描いているという点からすれば、もっと直接的な表現、例えば「抱きしめたい」といった表現を用いたって構わないはずです。特に根拠はありませんが、凡庸な人間ならば、そう書いてたっておかしくない。でも、彼は違った。まあ、これが才能の一端なのでしょうが。
ここには、上述したようなネガティブな意味ではない、受動性と消極性が見受けられます。それは、相手を恣意的にどうにかしようとせず、ありのままの存在をただ受け入れる、という受動性と消極性です。こうした捉え方は、若き日の桜井さんにはあまり見受けられなかったことだと思います。やはり、年齢を重ねる内に、世界をあるがままの世界として受け入れられる度量ができたってことなんですかね。
愛についての格言
ある帝王やある歌手の愛についてのお話をしてきましたが、他にもいろいろと見ていきましょう。
愛がほかのことにもまして困難なのは、愛が高まってくると、自分をすっかり投げ与えようとする衝動が起こってくるからです。
なんて事が、リルケの書簡に書いてあるらしいですね。新約聖書には、次のような記述があるそうで。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛はいつまでも絶えることがない。
いやぁ、美しいです。崇高ですな。こうした愛情論は、一種の自己犠牲を本質としているわけです。まあ、これだけではございません。よりシニカルな格言も。
愛は幻想の子であり、幻滅の親である。
これは、スペインの哲学者ウナムーノの言葉ですね。
心温まりたければ、カミュの『カリギュラ』の言葉をどうぞ。
一人の人間を愛するとは、その人間と一緒に年老いるのを受け入れることにほかならない。
これらはすべて、筑摩書房から出ているちくま哲学の森の別巻『定義集』に記載があります。哲学的で、普通の辞書では意味の分からない言葉について、過去の著作から引用してきた「定義」が編纂されています。哲学的好奇心のある方は、是非とも手にとっていただきたいです。
まあ、人の言葉を借りてばかりでは、あまりにも能がないというもの。最後は自分の言葉で締めくくりましょう。
愛とは存在の許容であり、その肯定である。
by tetsu
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