人の言うことはあてにならない?人伝に聞いた情報を扱うために気を付けなければならないこと

人の言うことはあてにならない?

先日、電車に乗っている人がやけに少なかったんです。そういえば、振替休日でしたね。天皇誕生日と言えば、12月23日と思っていましたが、もう去年は平日でした。今年からは、2月23日ですね。年月の流れを感じます。

誕生日と言えば、「女心がわからない男心について少し哲学的に考えてみた」の記事でも書きましたが、私は誕生日というものに、あまり重きを置かないタイプの人間でして…最近その理由がようやくわかってきました。

女心がわからない男心について少し哲学的に考えてみた

…皆同じさ
“自分の生まれた日が何時か”なんて
覚えてる人は誰もいない
ただ自分の信頼する人が告げた日を
そのまま信じるしかないんだ
(藍染の言葉より)
『BLEACH』20巻「寒月に咲く」

ブリーチ読んでてハッとなりました。確かにそうです。特殊な能力を持っている人でもない限り、自分の誕生日を経験として覚えている人なんていません。皆、周りがそう言っているのを信じているだけなんですよね。

じゃあ何かと。アンタは育ててくれた周囲の人間の言うことが信じられないのか?と。お叱りを受けそうな気もしますが、身も蓋もない言い方をすれば、その通りです。人間性やなんかは信じていますよ。感謝もしてます。ですが、事発言に関してはあまり信じてはいません。

昔ね、まだ幼かった頃、他者からの承認欲求を満たすために、知識やなんかをひけらかすことってあるでしょ?小学生くらいの子どもですから、その知識の源が親であることが、とても多かったんです。そして、その知識がかなりの頻度で間違っていた。すると、周りから責められるわけです。時には、教師からも。そんなこんなで、小さいながらも私のプライドはズタボロにされるんです。

そんな学校での経験を、帰ってきてから親に言っても、こちらはこちらで間違いを認めようとしない。なかなかプライドが高い人間ですから。あまりしつこく言うと、今度はこちらが責められる羽目になります。まさかの板挟み。まあ、承認欲求を満たそうなんて浅はかなことをするから、自業自得と言えばそれまでですが…。

今でこそインターネットで、簡単な知識なら、すぐに調べられるようになってきましたが、一昔前だと、そうはいきません。わからないことは辞書をひけと言われる時代でしたからね。

そんなこんなで、人の言っていることなど当てにはならないということを、学んだわけです。これに関しては、善悪の区別や、身内他人の区別はありません。誰の言うことも、それほど当てにしてはならないということです。

 


人伝の情報を扱うために気を付けなければならないこと

繰り返しますが、私は人間を信じていないわけではありません。大半の人間が、その意図に関わらず、不正直であるとも思っていません。ですが、人が事実と異なる情報を伝えるということは、往々にしてあるものです。当然、発言内容が事実と一致する信用度が高い人間もいます。私の周りは、なるべくそうあって欲しいとは願っているのですが…。

大切なのは、人が言っていたことを鵜呑みにするのではなく、「○○という人が□□といったことを言っていた」という情報にとどめておくことです。そうすると、そこから、「○○という人が言う内容は、事実と合致する確率が高いかどうか」という別の判断が求められるでしょう。後は、その情報(発言内容)を得た人間が、その情報を正しいものと捉えて良いのかどうかを、情報を伝えてきた人間の信用度に照らし合わせて判断すれば良いのです。

そうした情報の取り扱いには、メリットがあります。一種のアンガーマネジメントになるのです。大抵の人は、事実と異なる内容を伝えられ、その情報が事実と異なることが判明すれば、「嘘をつかれた!」と言って、目くじらをたてるでしょう。しかし、事実と異なるこうした発言全てに対して怒るのは筋違いです。

確かに、騙して、実害を与えようとする悪意に基づく行動であれば、咎められなければなりません。でも、事実と異なる発言全てが、このような悪意に基づくわけではないのです。人間ですから、見間違いや聞き間違い、思い違いもあるでしょう。相手を驚かせようとしたり、自分を良く見せようとしたりして、大袈裟な表現や、事実とは異なる発言をすることもあります。それが人間らしさでもあるわけですから、そうした行為を全て咎めるというのは、違う気がします。

問題は、悪意なく、人間は事実と異なる発言をすることがあるということ。ですから、 人伝に伝えられた内容は事実として捉えるのではなく、あくまで、誰々が言っていたこととして受け止め、事実認定する前にワンクッション置くことが重要になります。だとすると、譬え、内容が事実と異なっていたとしても、「騙された!」と怒る必要もありません。なぜなら、その情報を事実として認めたのは自分自身であり、その責任は自分自身にあるからです。

人間とは不完全な生き物です。何から何まで完璧なことなどありえません。事実と異なる発言をすることもあります(それを「嘘」と呼ぶのでしょうけど)。そこで、大切なのは、情報が事実と異なる類のものであったとしても、きちんとケアできることです。例えば、明日どこかに出かける場合、「明日晴れらしいよ」と言われても、万が一、雨であった場合に備えて、折りたたみ傘を携帯したり、雨であっても楽しめるようなお出かけプランを用意しておくことが重要なのです。

とは言え、あまりに疑いすぎるというのも問題です。杞人天憂とならないバランス感覚も必要でしょう。それでも、人から聞いた話が事実であるかどうかの判断は、自分でしなければならないということには変わりありませんけどね。

 


まとめ

人が言うことは、あまり当てになりません。それは、人間が不完全な生き物だからです。悪意の有無に関わらず、人は事実と異なる情報を伝えることがあります。ですから、人伝に伝えられた情報を、事実として受け取るのではなく、あくまで誰かが言っていたこととして受け取り、その情報が事実かどうかということについての肝心な判断は、自らの責任で下すようにしましょう。

そうした姿勢でいると、いちいち悪意のない嘘に「騙された」と憤ることもなくなり、情報が間違っていた場合にも備えることで、リスクを回避できる可能性が高まります。

ちなみに、偏重した性格で誕生日を重んじない私ですが、祝ってもらうことを拒んだりはしません。むしろ、喜んで祝ってもらいます。なぜって、そりゃ祝ってくれる人の想いですものね。その気持ちは嬉しいんです。だから、それが社会的に認められている私の誕生日でなくても構わないんです。3月3日とかにハッピーバースデーと言われても、普通に「ありがとう」って言っちゃいます。事実なんて、どうだっていいんです。重要なのは、自分にとって大切な人が祝ってくれるということ。自分の本当の誕生日をご存知ですか?私の誕生日は、大切な人がハッピーバースデーと祝ってくれる日なのです。

by    tetsu