私は学生の頃、英語が苦手でした。物を覚えるのが苦手だったということもあります。
それ以上に、英語を自然な日本語に翻訳するのが難しかったのです。
特に、「直訳」と「意訳」の使い分けで苦労されている方も多いでしょう。
というわけで、今回は直訳と意訳の違いについてわかりやすく解説します。
目次
直訳と意訳の違い
直訳と意訳の一般的な意味
直訳とは、 1つ1つの言葉の意味を置き換えるように、元の単語に合わせて訳していく方法です。
原文の意味が忠実に表現できます。
研究分野では、文の構造などを正確に捉えなければならないので、直訳は重視されます。
一方、意訳は、単語の厳密な意味や文法的構造に縛られません。
文全体の意味やニュアンス、または文章の流れを重視し、翻訳する言葉が自然な文章となるように訳される方法です。
直訳と意訳の違い
直訳と意訳の違いは、何を重視するかというところにあります。
直訳の方は、文章自体の表現のされ方を大切にします。
一方で、意訳の方は、文章の背後にある、伝えたいメッセージを自然な表現に置き換えを大切にします。
このように、直訳と意訳は大切にする対象が異なります。
次に、それぞれにメリットとデメリットについて説明します。
直訳のメリット・デメリット
直訳のメリットは、原文に忠実なことです。
情報の正確な伝達という意味では、間違いが起こりにくいという点です。
しかし、異なる文化の言葉を忠実に置き換えるので、文章が不自然なものとなる場合があるのです。
具体例として、英語の無生物主語が挙げられます。
“This song reminds me of her.”
直訳すると、「この歌は、私に彼女を思い出させる。」となります。
情報の伝達という意味では、何が言いたいのかは明確ですね。
「この歌」という主語が、「私」という目的語に対して、「思い出させる」ように作用していることを説明しています。
しかし、日本語に関して言えば、不自然さが否めません。
日本の言語文化においては、生物でない物(無生物)が動作の主語として用いられないからです。
では、どのように訳すべきか?
一般的には、「その歌を聴くと、私は彼女を思い出す。」と、条件的に意訳されます。
直訳なら、確かに情報は正確に伝わります
しかし、翻訳文としては、不自然に見えることがあるのです。
意訳のメリット・デメリット
意訳では、直訳に見られるような不自然さはありません。
自然な表現に置き換えることを重要だと考えるので、翻訳文は自然な表現となり、理解しやすくなっています。
これは意訳のメリットです。
しかし、当然デメリットもあります。
「原文の単語の厳密な意味や文法的構造に縛られず、 文全体の意味やニュアンス、または文章の流れを重視し、翻訳する言葉が自然な文章となるように訳される」ということは、原文の緻密な構造や1つ1つの単語の厳密な意味を蔑ろにすることに繋がりかねません。
原文の筆者が伝えたい内容が曲解され、原文と翻訳文にズレが生じ、情報伝達がうまくいかない場合があるのです。
直訳ばかりでは不自然な文章になります。
意訳ばかりに頼ると、文章を正確に翻訳できない恐れがあります。
肝心なのは、両方のメリット・デメリットを理解した上で、利用することなのです。
「意訳」の本当の意味
ここまではよくある直訳と意訳の話です。
しかし、私が過去に苦しめられたような、直訳と意訳のバランス感覚の問題を解決していません。
「翻訳に必要なものはセンスやバランス感覚」といった表記が散見されます。
これでは「センスの良い、バランス感覚に優れた翻訳をするためには、どのようなことに注意すればよいか」という根本的な問題解決には至っていません。
というのも、センスやバランスの基準が、一切示されていないからです。
どこまで原文を崩してはいけないのか?意訳し過ぎとはどういうことか?
こうした問題を考えるには、やはり、「意訳とは何か?」について考えなければなりません。
翻訳できない言葉
翻訳は万能ではありません。中には翻訳できない言葉というものもあるのです。
専門的な言葉
専門的な言葉は、翻訳不可能なものがあります。
特に、専門書の中で、その筆者が個人的な意味で用いる特殊な個人言語、あるいは、造語などがそうです。哲学における、ライプニッツの「モナド(Monad)」という概念がそうでしょう。
モナドは、数学者であり、哲学者でもあるライプニッツの著書『モナドロジー(Monadology)』で書かれた概念です。
100年前近くに出された日本語版の『モナドロジー』は、当時、『単子論』などと翻訳されていました。
しかし、「単子」という言葉の響きから、モナドという概念にいらぬ誤解を与えかねないという理由から、近年では、「単子」という訳語をあてることを避ける傾向が既にありました。
では、“Monad”をどう訳すのか?
単に、日本語読みで、「モナド」としたのです。モナドは「モナド」としか表し様がないからです。
そして、「モナド」という言葉が表す意味内容が「部分や延長を持たず、分割不可能な、世界における形而上学的な単純実体」であることを認めたならば、それが「単子」という言葉が漠然と与えるニュアンスとは異なるという、ある種の違和感に気付けると思います。
こうした専門的な言葉は、原文においてさえ、その概念が書かれている著書を通じてしか理解されないのだから、特に表意文字(それ自体が何らかの意味を表す文字)である漢字をあてはめて、翻訳することなどできないのです。
そこで、日本語でモナドについて論じる場合、原語の“Monad”を、そのまま日本語読みで「モナド」と扱うことになっているのです。
このように、専門的な言葉は翻訳できないことがあります。
日常的な言葉
こうした特徴は、専門用語にだけみられるものではありません。日常用語についても、同じことが言えます。
例えば、日本でおなじみの「布団」という言葉がそうでしょう。
「布団」に対する訳語は、英語にはありません。
なぜなら、英語圏の国には、日本特有の「布団」という寝具が存在しないからです。
「敷き布団」を英語で“a Japanese-style mattress”と表現している辞書などもあるようですが、これは説明に過ぎず、訳語ではありません。
“a Japanese-style mattress”における肝心の“Japanese-style”が何なのかがわかりませんものね。こういうわけで、「モナド」と同じく、「布団」は英語で“futon”と表記されるのです。
翻訳では表せないもの
こうして見ると、その国の文化的背景が、翻訳には関わると理解できます。
文化が共有されていれば、つまり、上述の例でいうと英語圏の国に「布団」にあたる物があれば、訳語もできたことでしょう。
しかし、翻訳で表せないのは、何も言葉の意味内容に限った話ではありません。例えば、次の英文をみてみましょう。
“Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration.”
日本語では、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と訳される、エジソンの金言とされる言葉ですね。
高校生の時、私はこの日本語訳の文は知っていましたが、原文を知りませんでした。
そして、初めて原文を知った時、この日本語訳に違和感を覚えたのです。なぜ“perspiration”が「努力」なんだ?と。
一般的には、「努力」は英語で“effort”と訳されます。
だったら、例の日本語訳で表される原文は、“Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent effort.”であるはずです。しかし、実際はそうではありせん。
“perspiration”とは、「汗・発汗」と訳される言葉です。
だから、直訳だと、「天才とは、1%のひらめきと99%の発汗である」となるわけです。
でも、正直これだと何のことかわかりません。
そこで、「発汗=汗をかく」ということから、「汗をかく」→「汗をかきながら、何かに向かって頑張る」→「努力をする」と捉えられたのでしょう。
ですから、意訳をすると「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と表現されるのですね。
しかしながら、ここで重要なのは、その文の意味内容ではありません。
譬え、“perspiration”を「発汗」と訳そうが、「努力」と訳そうが、ここでは問題となりません。
大切なのは、言葉で表されている事柄が、情報伝達のためだけの意味内容に限らないということです。
言葉には、実務的な情報伝達だけでなく、時には遊び心も含まれてます。
そして、この遊び心を翻訳で表すことが難しいのです。
ここでは、“inspiration”と“perspiration”の「~スピレイション」のように、詩歌にも通じる韻を踏むという遊び心が加えられています。
これを日本語訳にしたならば、「ひらめき」と「努力」となり、韻を踏むという遊び心がすっかり失せてしまいましたね。
これでは、せっかくのエジソンの金言も面白味に欠けたものとなります。
金言には、意味内容はもちろんのことながら、表現の仕方そのものについても、何らかの面白味が含まれているのですね。
だからこそ、エジソンの金言の「努力」という日本語訳にみられる言葉が、原文では“perspiration”と表されているのでしょう。これで納得できます。
意訳の本当の意味
翻訳にとって大切なこと
これで、翻訳が万能ではないということが理解できたと思います。
そのままの読みで表現しなければならないような言葉(「モナド」など)や、そもそも翻訳によっては置き換えられないもの(韻を踏んだりする言葉遊びの興など)があるからです。
言葉が翻訳できない場合、それは翻訳される言語文化に、翻訳すべき言葉が意味するものが存在していないことに原因があるのです。
つまり、上手く翻訳をするためには、その言葉を遣う国や地域の文化的背景に通じる必要があるわけです。
さて、ここで意訳の意味をおさらいしてみましょう。
意訳とは、 文全体の意味やニュアンス、または文章の流れを重視し、翻訳する言葉が自然な文章となるように訳される方法でした。そう、大切なのは、自然であるということ。
逆に言えば、直訳に近い形で訳しても、不自然でなければ問題はないのです。
そこが、翻訳における意訳の基準になります。いくら自然な表現であっても、原文の意味内容から逸脱してしまっては、意味ありませんからね。
原文から逸脱した翻訳
では、どのような意訳が、原文の意味内容から逸脱した、いわゆる「やり過ぎ」な訳となるのでしょう?
例えば、ある仕事のプロジェクトチームに入るための選抜試験があったとします。試験が終わった後、チームの一員でもある試験官が次のように言ったとします。
“Welcome to our team!”
さて、これをどう訳すべきでしょう。
映画の字幕なんかを見ていると、たまにこうした台詞を「おめでとう、合格だ!」なんて訳しているのを目にすることがあります。
しかし、これはよほどの事情がない限り、やり過ぎと言わざるをえません。なぜなら、普通に(直訳に近い形でも)、「ようこそ我々のチームへ!」と訳すだけで、事足りるからです。
「合格」と言っても、意味内容の情報伝達という視点から見れば、間違いではありません。
しかし、「ようこそ我々のチームへ!」という言葉が、合格を意味するということは容易に理解できます。
やり過ぎた意訳に見られる「合格」という表現を用いるなら、原文でも「合格」を意味する“pass”が用いられているはずです。
それでも敢えてそのように表現していないということは、別の意図があるから、と考えるべきでしょう。発言には何らかの意図があり、単なる情報伝達を越えたメッセージの発信があると捉えるべきです。
芭蕉の俳句を情報伝達を一義的に考え、日本語以外の言語に翻訳しても、俳句文学の「わびさび」なんて伝わるわけがありません。
そういう意味では、言葉を紡いだ人間の意図に敬意を払い、その言語表現を尊重しなければ、適切な翻訳などできないのです。
要するに、直訳して自然な表現になるのなら、意訳する必要など全くないということですね。
意訳の本当の意味について
それでは、自然な意訳とはどういうものでしょう?
問題解決のヒントは、実は、英語を習う初期段階に与えられていたのです。
“Good morning.”
今の時代、小学生でも知っていそうな英語ですが、どう訳すでしょう?
100人中99人は「おはよう」と訳すでしょう。そのおかしさに気付くのに、とても時間がかかりました。
だってそうですよね?普通、直訳したら、「良い朝」となるはずです。
にもかかわらず、学校では「おはよう」と習いました。
どうして、これが不自然に感じられるのか?
それは、言葉の置き換えという翻訳観では、“Good morning”の意味を捉えられないからです
“good”の意味も、“morning”の意味も、「おはよう」という言葉には表されていません。
それでは、なぜ“Good morning”が「おはよう」と訳されるのでしょう?
それは、言葉の用法によるのです。
英語圏では、朝、人に会えば、挨拶として、“Good morning”と言います。
日本では、「おはよう」(と言うのが標準的)ですね?
英語圏:朝の挨拶=“Good morning”
日本語圏:朝の挨拶=「おはよう」
“Good morning”=朝の挨拶=「おはよう」
だから、 言葉の1つ1つの単語の持つ意味に即してではなく、発する言葉全体の用法的意味として、“Good morning.”=「おはよう」となるのです。
これが翻訳(目指すべき意訳)の本質だと思います。
この翻訳の本質を踏まえた上で、訳した時に、自然な言語表現となるようにするということが、意訳の本当の意味ではないでしょうか?
意訳にとって大切なこと
意訳にとって必要なことは、センスや言葉に対するバランス感覚ばかりではありません。
それらも必要なのかもしれません。
英語で表現する状況や思いを、日本語ではどのように表現するのか?ということに配慮することが何よりも重要なのです。
意訳も大切ですが、直訳の方が、発信者の思いをより良く理解できます。
それでも、直訳のように、言葉の1つ1つの意味を置き換えるという翻訳観では、不自然な訳になりかねないということも事実です。そもそも理解不能な表現もあります。
例えば、“Come on”という表現ですが、文字通り「おいで」という意味もあります。
応援する際の「がんばれ」という意味や、相手にウンザリした時に言う「もうたくさんだ」、「やめてくれ」という意味でも用いられます。
こうした意味は、“come”や“on”といった1つ1つの単語の持つ意味を置き換えるだけでは、そもそもの用法的意味を表現することはできません。
つまり、どのような状況で、どのような内容を伝えるのに、どのような言葉を用いるのか?ということを知らなければならないのです。
そして、その意味を理解したなら ば、それを翻訳する言葉でどのように表現すのか?を考えるわけです。
その際、重要なことは、言語表現の持つ情報を壊さないよう注意を払うことです。
情報とは、 「誰々が何々をした」という、主述関係が表す内容であったり、主語と目的語の関係であったり、言葉が表現する事柄のあり方です。
“This song makes me sad.”
という文であれば、「歌」が「私を悲しい状態にする」ように作用するという「歌」と「私」との関係性ですね。これが蔑ろにされると、訳される言葉は正しい情報として成り立たなくなります。
そして、「韻を踏む」といった、遊び心のような情報です。
“Intel inside”を「インテル 入ってる」と訳したのは、こうした難しい訳の成功例と言えるでしょう。言葉とは、単なる事実の記述以外の情報をも含んでいます。
それが、翻訳を難しくする原因でもあるわけですね。
こうした翻訳をうまくやるためには、センスも重要でしょうし、直訳と意訳の言葉のバランスも重要でしょう。
しかし、そうした曖昧なものだけではなく、それぞれの言葉に関する文化的背景や、用いられる言葉の用法的意味を知ることが、なによりも重要なのです。
そうしたことを基準に、なるべく多く、それぞれの言葉に触れる経験を積むことが、原文の意味内容から逸脱もせず、自然な表現となる上手な意訳に繋がるはずです。
まとめ
○直訳と意訳の違い
直訳とは、 元となる文中の1つ1つの言葉の意味を置き換えるように、元の単語に合わせて訳していく方法。
意訳とは、 原文の単語の厳密な意味や文法的構造に縛られるものではなく、文全体の意味やニュアンス、または文章の流れを重視し、翻訳する言葉が自然な文章となるように訳される方法。
直訳と意訳のメリット・デメリット
直訳は、筆者の意図した文の構造や表現をなるべく忠実に翻訳しようとするため、情報伝達は、正確に行われることが多い。
しかし、その反面、翻訳した言語表現は、不自然なものとなる可能性がある。
意訳は、翻訳された言語表現自体は自然なものとなるため、スラスラの理解しやすくなる。
しかし、原文の構造や表現などを蔑ろにしてしまえば、原文と翻訳された文との間にズレが生じ、情報の伝達がうまくいかない場合がある。
意訳の本当の意味
翻訳は万能ではない。訳すことが、そもそもできない言葉があり、訳に反映させることが難しい表現様式の面白さもある。
こうした言葉の性質を考慮すると、そもそも、翻訳とは、1つ1つの言葉を置き換えればできるというものではないということがわかる。
異なる文化的背景を持つ言葉を、文や言葉の持つ全体の意味内容をなるべく損なわずに、別の言語表現に置き換えることが、翻訳の本質である。
これを踏まえた上で、訳した時に、自然な言語表現となるようにするということが、意訳の本来的な意味である。
意訳にとって大切なこと
主述関係や主目関係といった、言葉の持つ情報を壊さないように注意を払いながら、翻訳する言葉が自然な表現となるよう努めること。
そうした事実に対する記述的情報以外の表現様式に関しては、翻訳が困難であるものの、 それぞれの言葉に関する文化的背景や、用いられる言葉の用法的意味を知り、経験を積むことで、言葉に対するセンスやバランス感覚を磨くことができる。
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