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病気になって思ったこと
それがまず思ったこと。理不尽に思われることに遭遇すると、大体理由を訊くよね。訊いたからって状況が変わるわけでもないのに。まあ納得したら落ち着くってこともあるし…そう考えるとやっぱり人間て理性的な生き物なんだなって思う。
確かに、何事に関しても、再発防止って観点からは原因を突き止めるってことは大切なのかもしれない。でもね、自力ではどうしようもないことについて、あれこれ考えたって仕方ないんじゃないかな。
事実に原因を求めるのは無意味だ。寧ろ、その事実そのものが何かの原因となるだけである。
苦しみの日々
でも、一番辛かったのは、楽な姿勢というものがない、ということ。風邪を引けば寝てればいい。立つのに疲れたら座ればいい。だけど、この時は楽になれる姿勢がない。寝れば、圧迫感から呼吸ができない。だから、座ろうとするけど、身体が痛みに悲鳴をあげる。呼吸が比較的楽になるのは狛犬みたいに手を突いて、下を向くこと。でも、そんな姿勢が長く続けられるわけもない。重い頭部を支えるために首や肩は軋み、限界を超える。
命の終わりを覚悟した
息苦しさが生を分かつ分水嶺を越えて、一切の苦痛がなくなった。と、同時に下腹部(丹田あたり)がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。そこで、ふと脳裏をよぎった。
やがて、少しだけ呼吸ができるようになる。すると、また苦痛が蘇ってくる。まるで、自分の命が誰かに弄ばれてるんじゃないかとさえ思える。
生きる意味
こんな経験をしてると、色んなことを考えるようになる。特に、次のような問題について。
自分は何のために生きているのだろう?
ええ、凡そ思春期真っ只中の青少年が取り憑かれそうな問題でございます。でも真剣に考えちゃうの。同じようなこと考えてる人、他にもいると思うんだ。そして、その答えはきっと千差万別。だから、以下に記すのはあくまで僕個人の経験から導き出した答えであり、こんな風に考える奴もいるのかぁ、ってな感じで気楽にご覧ください。結論から言います。
こういった経験から感じたのは、生きることが全てなんだなってこと。これまでは何かのために生きるって曖昧ながらも思ってた。でも、そうじゃないって思えるようになった。
苦痛の泥沼にはまってた時に感じたのは食欲でも睡眠欲でもない。生きたいという欲求だけ。ただ生きることを欲し、自分の存在を願うだけだった。生きるってのは何かのための手段なんかじゃない。生きるために食べ、生きるために飲み、生きるために眠り、生きるために愛する。歌うことも笑うことも学ぶことも遊ぶことも踊ることも悲しむことも。全ては生きるための営み。少なくとも僕にとっては。生きるってことは何かの手段ではなく、それ自体が目的なんだ。そう思えるようになった。
意味だってそう。大切なのは意味なんかじゃない。生きること。実在的な意味なんて存在しないと僕は思ってる。誰にとっても同じだっていう、客観的な意味なんてどこにあるだろう。意味は与えるものであり、見出すものだ。生きるために様々なものについての意味を探せればいいや。そう思ってる。
地獄ってのは、転生する可能性の最も高いところだって何かの文章で読んだ記憶がある。ひょっとしたら、自分は現世の地獄の中で生まれ変われたのかもしれない。そんなことを思いながら、冷たいグラスを独り傾ける。
by tetsu
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