「普通が一番幸せ」、「なぜ、普通のことができないの?」など人は日常的に「普通」という言葉を使います。
しかし、その普通とは何なのでしょうか?
当然のことですが、日本人とアメリカ人の普通は異なりますし、若者とお年寄りの普通も異なります。普通とは、明確な基準があるように見えて曖昧な物なのです。
というわけで、今回は「普通と普遍の違いから、普通とは何か?」について解説します。
目次
普通とはなにか?
普通と普遍の辞書的意味
普通の意味を辞書(大辞林)で引いてみると、普通の意味は次のようになります。
- いつでもどこにでもあって、めずらしくない・こと
- ほかとくらべて特に変わらない・こと
- 特別ではなく、一般的である・こと
引用:大辞林 第三版
非常に分かりやすい定義です。
しかし、この辞書にある「めずらしくないこと」、「ほかとくらべて」、「一般的」とは、何を基準に誰が判定しているのでしょうか?
「普通とは何か?」という疑問に答えるためには、この部分を掘り下げなければなりません。
そんな時に使えるのが対比的に考えることです。
今回は、普通と似ていて全く意味の異なる「普遍」と比較して考えたいと思います。
普遍に意味は次の通りです。
- 広く行き渡ること。
- すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。
引用:大辞林 第三番
普通の定義とは異なり、普遍は「全てのものに当てはまる・共通する」という明確な定義があります。
普通は相対的、普遍は絶対的
普通は相対的
「普通」とは相対的なものです。
例えば、大多数の日本人にとって「靴は玄関で脱ぐ」という行為は普通です。
一方、欧米などでは土足で家に入ることが「普通」です。
その他にも、印鑑文化が挙げられます。現在、印鑑登録制度が存続しているのは日本だけです。
日本人からすれば契約時や荷物の受け取り時に印鑑を使用するのは「普通」の行為です。
しかし、海外の視点から見れば、それは普通ではない行為になり、サインが普通の行為になるわけです。
このように、「普通」というものは自分の属する集団・グループによって異なります。
人は複数の組織(家庭、学校、会社、国、宗教など)に同時に属します。
そして、それらの組織に共通する風習や文化によって、個人の「普通」は決定されます。
そのため、「普通」とは相対的なものになります。
そりゃ、一人一人所属する組織が異なりますからね。たとえ、同じ学校・民族・宗教の友人でも家庭環境が異なるため、普通の定義は異なるはずです。
科学者アインシュタインは常識という言葉について次の言葉を遺しています。
「Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen」
この文章の訳は「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」とされています。
常識≒普通と考えて訳を変えてみると、「普通」の感覚とは18歳までに得た偏見のコレクションと考えることができます。
このように、普通は相対的なもので、その人が属する組織・環境によって変化します。
極端な話、人の数だけ普通があるともいえるかもしれません。
普遍は絶対的
一方で、「普遍」とは絶対的なもの又はそれに近いものです。
例えば、三平方(ピタゴラス)の定理は普遍的なものといえます。
いつ、だれが、どこで発見したのかということは不明ですが、紀元前からその存在が知られています。
当然のことですが、古代エジプト、ルネサンス期のヨーロッパ、現代日本における三平方の定理もすべて同じものです。
このように、三平方の定理とは時間・場所関係なくに共通するものです。
もちろん、理系分野に限ったものではありません。
村上龍の著書「歌うクジラ」では、生きる意味はなにか?という人間の根源的かつ普遍的な問いに対して一つの答えを示しています。
もちろん、その答えが万人に受け入れられるかは不明ですが、「生きる意味」は人間誰しも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?
ストーリーも精緻で非常に面白い小説ですので、興味のある方は読んでみてください。
リーガルハイ・スペシャル2では医療裁判通して、医療とはなにか?という問いに1つの答えを示し、医療の中にある葛藤を描いています。
このようなテーマはどれだけ時が流れようとも、場所が変わろうとも変化しないものです。
以上のことから分かるように、「普遍」とは絶対的なもので、時や場所を超えて共通しているものです。
このように、「普通」と「普遍」は似ているようで全く異なる意味を持つのです。
普通の本質を考えよう
人が知覚できる限界を認める
「普通」とは相対的なものであり、同じ人間であっても時の流れで変化するものです。
そんな曖昧な「普通」を私たちは普遍的に考えてしまうことがよくあります。
これは人間の知覚できる範囲があまりにも狭いからかもしれません。
養老孟司の「バカの壁」の一節にも、似たような言葉があります。
この本もなかなかに面白いので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
「人間というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」
引用:バカの壁
確かに、自分の脳に入るもの(=理解可能なもの)のみで世界を解釈すれば、個人の普通があたかも世界の真理のように映ります。
しかし、世の中には自分の知らないこと・理解できないことが沢山あります。ですから、自分の常識を絶対的な物差しとして、他人を判断してはいけません。
まず、自分の知覚・思考を全能と考えず、限界があること認めてしまいましょう。
そうすることで、自分の頭で理解できないことの存在を認めることができるのです。
自分は自分、人は人と考えよう
自身の「普通」が他者に当てはまるとは限りません。もちろん、逆もしかりです。
これは、個人間だけでなく、集団対個人においても同じです。
「普通の女は〜するものだ」とか「普通の男は〜するべきだ」という偏見は今でも色濃く存在しますが、その偏見を絶対視する必要はありません。
「他人や集団の普通」≠「自分の普通」なわけですからね。
要は、自分は自分、他人は他人と分けて考えればいいわけです。
ですから、人に自分の偏見を押し付けてもいけませんし、逆に押し付けられてもいけないわけです。
一つにならなくていい、互いに認め合おう
とはいえ、それほど問題は単純ではありません。
なぜなら、「大衆の普通」は容易に「個人の普通」を否定するからです。
ここで「大衆の普通」とは、近い価値観を持つ人間の集合体のことをさします。
昔はこの集合体が少数かつ巨大でした。その集合体の外部にいる人たちは、常に「大衆の普通」に抑圧されました。
例としては、LGBTや少数民族の方などが挙げられるでしょうか?
しかし、近年のネット社会の台頭や多様性の追及から、その流れに変化が生じてきました。多数の小さな集合体が生まれたのです。
さて、自分のツイッターやフェイスブックを見てみてください。
自分と同じ性向の人が沢山集まってはいませんか?
それぞれの集合体が自立し、他の集合体を尊重するのであれば、多様性の観点からして望ましいと思われます。
しかし、実際のところツイッターなどのSNSを覗けば互いにたたき合って、自らの正当性を訴えあっている状況にあります。
イデオロギー対立が多い界隈では、その傾向が強く、互いが互いを炎上させています。
果たして、その先に相互理解など存在するのでしょうか?むしろ、分断はより大きなものになることでしょう。
まずは、互いの存在や居場所を認め合うことから始めれば良いのではないでしょうか?
まとめ
普通と普遍の定義を一文で表すと次のように定義できます。
多様性の時代に、大切なことは、普通という曖昧な基準を絶対的に取り扱わないことです。そして、対立する基準を持っている人同士でも、その存在を否定するのではなく、認めるようにしましょう。
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