黄色いコスモス

夢を見た。

僕は眠っている間、あまり夢を見ない。見た夢を忘れてるんだ、なんて言う人がいるけど、そうじゃない。確かに忘れている時もある。夢を見た実感があるのに、その内容を思い出せない感覚。カーテン越しに差し込む朝日の中で、現実に戻ろうとする瞬間。映画や小説を読んだ後に訪れるあの心の浮遊感。ひょっとしたら、まだ夢の世界にいるのではないかという一雫の疑念。やがて、耳に届く生活音に意識は切り替わり、僕の一日は始まるのだが、夢を見たという感覚はしばらく消えることはない。でも、多くの場合、そういう感覚さえない。だから、夢を見ていないのだと思っている。もちろん、夢を見たという事さえ忘れているという可能性もなくはないが。

疲れきっているからだろうか。大抵は、すぐに眠りに入ることができる。床に就くと、すぐに意識はブラックアウトし、翌朝の光が朧気に視界に差し込む。映画のフィルムのように、繰り返す光と影。光があるために必要な闇。そんな眠りが日々繰り返される。

僕が夢を見るのは、一月に一回あるかないか。よく見るのは、とても高いところから落ちる夢。誰かに、何かに追われる夢。物語のようだけれども、支離滅裂な夢。そんな夢がほとんど。でも、ごく稀に、映画や小説のような夢を見る。僕が別人の人生を送っているような夢を。どちらが現実なのか。胡蝶の夢を疑うような、そんな夢を。

あの時、僕が見た夢はそんな夢だった。どこか懐かしげで、不思議な夢だった。

夢の中で、僕は恋をしていた。現実の投影や、願望の表れではないかと冷やかされるかもしれないが、悲しいことにそんな事実はない。見知らぬ女の子だった。歳は20歳前後だっただろうか?現実世界で考えると、もう15年も前の話だ。彼女の顔は今でも覚えている。なぜ恋をしていたのかはわからない。彼女の容姿は、それほど現実的な好みとはかけ離れていた。

どういう知り合いかはわからない。僕は学生だったと思う。だから、ひょっとしたら、同級生だったか、先輩か後輩だったか。目に浮かぶ、彼女の笑顔は確かに綺麗なのだけれど、どこかピンと来ない感覚があった。もちろん、夢の中の僕は彼女のことが好きだった。でも、同時に、その感情は、現実の僕の感情とは乖離していた。見ている景色は同じなのだけれども、心の中は好きでいる事とそれを理解できないというアンビバレンスな感情で満たされていた。まあ、夢とはえてしてそういうものなのかもしれないが。

僕たちは付き合い始めて、間もない間柄だった。他愛のない会話を交わしたり、街や自然の中を散策したりした。自然が好きな人だった。それが二人の共通点だった。

いつものように、僕たちは街を歩いていた。ふと足を止める彼女。視線は、ある花屋へと向けられていた。店先には綺麗な花々で彩られていた。花か…本当に自然が好きなんだな、と夢の中の僕は思う。「綺麗な花だね」と僕は言う。しばらく花を見つめて、振り向く彼女。いつものように華やぐ笑顔。夢の中の僕も笑っていた。でも、同時に見つめている冷ややかな感覚を持つ現実的な僕は、違和感を感じていた。

 

軒先の影にひっそり咲く花々と、光の中で微笑む彼女は、どこか対照的だった。

 

よく晴れた日の午後、見たこともないキャンパスで僕たちは談笑していた。会話の内容自体はよく覚えていない。でも、もう少しで彼女が誕生日を迎えるという話だったと思う。どこに行くか。何が欲しいか。きっと、そんな相談をしていた。学生だった僕たちには金銭的余裕があまりなかったから、彼女はそんなに高価なものを欲しがらなかった。取り立てて、どこに行かなくても構わない、と彼女は言った。ケーキを買って、ささやかにお祝いをしよう。彼女はそう言って、微笑んだ。

彼女と一緒にいる場面では、いつも光が差していた。朝も昼も、光の中で輝く彼女の笑顔が印象的だった。だから、違和感の種は空模様に表れていたのだと思う。その日は珍しく曇っていた。薄暮の夕闇の中で、それほどはっきりと天気が見て取られたわけではない。それでも僕には、なぜだかわかっていた。

待ち合わせの広場で彼女を待っていた。時計のある噴水広場。その噴水の傍で、彼女が来るのを待っていた。手には誕生日プレゼントと花束を携えて。あまり高価なものではなかったが、シンプルなデザインのシルバーリングと、いつか彼女が目を奪われていた街の花屋で買った色とりどりの花束を手に。

やがて彼女がやってくる。息を弾ませ、肩を揺らせながら。そんなに急がなくてもいいのに。プレゼントを持った手を後ろに、僕は彼女を迎える。

「待った?」

「全然」

お決まりのやり取り。後ろ手に立つ僕。これから訪れる喜びの瞬間を予感しながら、彼女は嬉しそうにはにかんでいる。右手にした小さな包みを僕が差し出すと、彼女は一層嬉しそうにプレゼントを受け取る。包装を解いて、出てきた指輪を指にはめる。そして、神様に見せびらかすように、指輪をつけた左手を空にかざす。広場の街灯に指輪が煌めく。その時、突然のフラッシュバック。僕たちは花畑にいた。

日差しが和らいだ秋の昼下がりに、僕たちはコスモス畑にいた。初秋の涼やかな風に彼女の髪が揺れる。共鳴するかのように、一面に咲きわたったコスモスも揺れる。

「綺麗だね」

「そうだね、綺麗だね」

彼女はとても嬉しそうにしていた。それを見て、僕も嬉しかった。どれほど時間が経ったかはわからない。彼女は、ずっと笑顔のまま、咲き誇るコスモスを眺めていた。その間、僕はずっと彼女の笑顔を見つめていた。すると、その笑顔があの日の彼女の顔に重なる。そう、いつか一緒に街を歩いていた時、花屋の店先で見せた彼女の笑顔に。

表面的には同じに見える。でも、重なった時、それらの違いがはっきりわかる。どうして僕は気づけずにいたのだろう?2つの笑顔の雰囲気はこれほどまでに違うのに。

あの時の彼女は、僕の呼びかけにもしばらく応じなかった。花を見つめていた。押し黙ったまま。押し黙ったまま?違う。彼女は黙ってなんかいなかった。微かに動く唇は、吐息のような言葉を漏らしていた。「綺麗な花だね」

 

「…でも、枯れてるね」

 

今、彼女は笑っている。黄色いコスモスのように笑いている。僕の心は揺れている。色とりどりのコスモスのように揺れている。あの時、彼女は泣いていた。笑顔のままで泣いていた。

僕が左手を差し出せば、彼女はまた笑顔のまま泣くかもしれない。そう思うと、街灯に輝く噴水の飛沫が涙に見えた。

その時、ふと脳裏をよぎる。僕が育てた花畑を見せた時、溢れんばかりの日差しの中で、振り向く彼女の笑顔を。せめて、小さな鉢植えにでも彼女の好きな花を咲かせていたなら。

指輪をつけてはしゃぐ彼女を前に、僕は後ろ手に持ったささやかな花束を握り潰した。棘が混じっていたのか、僕の手から血が滴り落ちた。夢の中の僕が二重の愚かさを悔いている時、現実的な僕は冷ややかに、内なる視線を向けていた。ただ、どうして彼女を好きになったのか、その理由が少しだけわかる気がした。

 

どうしてそんな夢を見たのかはわからない。正直なところ、それが夢であったのかさえも疑わしくなる。それほど、〈現実的〉だった。でも、それは現実ではなかった。彼女は、僕が見たこともない女性だったし、夢の中の僕も、容姿や性格、好みといった点において、現実の僕とはかけ離れていた。それでも不思議な事に、彼は紛れもなく僕だった。

あの夢が何を意味するのかはわからない。あの夢の世界が、どうして僕と繋がったのかも。夢が現実における何か(精神的な何か)を象徴するなんて、よく耳にするけれど、僕にはこの夢がそういう類のものとは思われない。というのも、30数年間生きてきて、こういう類の夢を見たことがなかったから。

落ちる夢。追いかけられる夢。前に走ることができない夢。僕だけが飛べない夢。様々な夢を見てきたが、これらは状況こそ違えど、何度も見たことのある夢だ。でも、黄色いコスモスの夢はこれらとは一線を画していた。

なぜ人が夢を見るのかは、科学的にも、まだ完全には解明されていないらしい。夢とはそれだけ不思議なものなのだ。だから、何も確かなことは言えない。それでも、目覚めた時、窓から差し込む朝日の中で、朧気な意識のまま、僕は思った。たまにはこんな夢を見るのも悪くはない。

by    tetsu