歩きスマホ対策としての教育を―社会的ルールとリスク管理について

高速バス

先日、高速バスに乗った際、違和感を覚えた。バスが走り出す前にシートベルトをしていたのだが、周りの人間がする素振りすら見せない。当然、バスの運転手はアナウンスをしていたし、シートベルト着用を促すランプも点灯していた。

理解に苦しんだ。当然、バスは高速道路を走る。時には命を危険に晒すような事故が起きるかもしれない。シートベルトを着用することで、リスクは減るだろうし、着用することで息苦しさなど全く感じない。にもかかわらず、着用しない人間が多い。恐らく、一度も会ったことのない運転手の腕前と自分の強運を信じているのか…

好奇心が抑えられず、信号待ちの間、車内の簡易トイレに行く振りをして、自分の座席から後ろの乗客のシートベルト着用率を調べてみた。結果、着用率0。信じられないかもしれないが、事実だ。

新聞でニュースに出ていたこともある。高速バスが走行中事故を起こして、乗客の大半が亡くなった。亡くなった人の大半がシートベルトを着用していなかった、と。車の教習所でも習うし、中学校の授業(ホームルームか社会授業か忘れたけど)なんかでもシートベルトの重要性には触れられた記憶がある。それでも、誰も着用している人はいなかった。

勿論、私の座席は真ん中よりも少し前だったので、それより前の座席に座る7、8人の着用は確認できなかった。だから、全員というわけではない。ひょっとしたら、その7、8人は全員していたかもしれない。すると、私を含めると、着用率は25%ほどになるだろう。着用している人の座席の分布がそこまで偏っていればの話だが…皆、危機意識が欠如してないか??

 


社会的ルールとリスク管理

社会的ルールには、リスク管理を担うという側面がある。例えば、道路交通法などがそうだろう。一旦停止、速度制限、飲酒運転禁止…勿論、シートベルト着用も。すべては事故の予防、ひいては生命を守るための安全基準として定められている。ルールを遵守することで、リスクは激減するようになっている。だから、ルールを守るということには、堅苦しさは多少あるものの、リスクをコントロールするという本義がある。

でも、何のためにルールを守るのか、と問われて、そのように答える人が実は少ないんじゃないかって思えてくる。違反を犯せば警察に捕まるから、そう考える人が圧倒的多数なんじゃないかな?仮に、警察がなければ、多くの人が道路交通法を守らないんじゃないかと。だって、現実的に様々な違反を目にするから。普通に車で走っていても、警察に捕まっていないだけで、多くの人が何かしらの違反を犯している。まず、速度制限なんて守っていない人が大半(こっちは制限速度で走っているのに遠ざかっていく前の車。後ろからは煽られることなんてザラ)。一旦停止なんてしない(大体が徐行するだけ)。恐らく、捕まらなければいいという意識が働いているんじゃないかな。

ルールは守るためにあるんじゃない。勿論、破るためにあるのでもない。ルールは、それがコントロールするリスクを極力犯さないために守るものなんだ。それが第一義的であって、その本義を見失うと、最早事故とは呼べない人災が、取り返しのつかない形でもたらされることになる。

危機意識の欠如が、甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しい。ある電力会社の上層部にきちんとした危機意識があれば、福島の原発「事故」なんて起こらなかった。少なくとも、被害は最小限に抑えられたはずである。勿論、あの「事故」には様々な要因があるだろう。でも、その主たるものが危機意識の欠如であったことは否めない。

自分だけは大丈夫。事故や事件も他人事。よくオレオレ詐欺などの事件の被害者に「まさか自分が」なんて台詞を吐く人間がいるが、これも危機意識の欠如の一つの様相であることは否定できない(加害者が全面的に悪いし、理性的判断ができなくなったお年寄りが狙われやすいという理由も当然あるのだが)。

この安全神話という幻想はどこから生まれるのか?皮肉なことに、厳格な社会的ルールによってもたらされている、と私は思う。私たちは、 社会的ルールによって守られ過ぎているのだ。

 


社会的ルールと教育

この世の出来事は、すべて自分に起こりうる現実である

これが事実だ。でも、そんな意識を持たない人が少なくない。皆、どこか他人事のように感じている。それはきっと、ルールに守られながら育ってきたからだと思う。

本来、学校において教育しなければならないのは、現実社会において生きるための危機意識である。現場では、ルールを守ることが第一義的とされ、なぜルールを守らなければならないのかということは蔑ろにされている。すると、ルールを守るかどうかということだけに目がいき、その裏にあるリスクに気付くことさえできない人間が育つ。

ルールを破ると、怒られることはあっても、叱られることが少ない。人間的に未熟な子供だからという理由で、右に倣えと上から抑えつけるだけで、自主的な判断の機会を奪ってしまう。結果、ルールを破ってもバレなければ(捕まって罰を受けなければ)構わないという意識が根付く。そうして、社会的ルールの本義は見失われるのである。

難しいのはわかっている。人間は自ら失敗をしないと学べないことも。それでもなるべく実感できるような形で教えてあげればいい。未成年の喫煙、飲酒の悪影響を。髪を染める、ピアスの穴を開ける、薬物を摂取する、こういったことの医学的リスクをすべて教えてあげればいい。机上の空論に終わらせないためにも、こういったことで失敗した人間を連れてきて、子どもたちに話を聞かせればいい。実際に経験した人間の話なら、説得力があるだろう。

法的に禁じられていることは許されないが、そうでないことなら子どもたちに判断させればいいと思っている。様々なリスクを徹底的に教えた上で、尚、それを望むのであれば、仕方ないじゃないか。そもそも、その人の人生すべてを管理下におかない限り、それほど望むことを完全にやめさせたりはできないのだから。

教育とは、人間として自立できるように育てることだと思う。自立とは、自分で行動し、その結果に伴うすべての責任を負うことである。あらゆる行動には選択が付きまとうし、それは何かをすることで対価として何かを得ることに他ならない。当然、そこにはリスクが潜んでいる。でも、ルールというヴェールでそれを覆い隠すと、やがて、痛ましいことが取り返しのつかない形で現前することになる。そうなってからでは遅いのだ。

危機意識のないまま行動を選択し、それに伴う責任をどうやって果たせよう?原発「事故」を引き起こした人間は、放射能で汚染された海や大地を浄化することができるのか?そして、それにより生活が困難になった人たちの尊い人生すべてに責任を負うことができるのか?行動が裏目に出て初めてそのリスクの恐ろしさに気付くのだろう。「まさか、こんなはずでは……こんなことになるとは…」と。こんなことにならないために仕事をしていたのではないのか?その重要な仕事の見返りとして高額な報酬を受け取っていたのではないのか?

リスクをコントロールするのに、考え過ぎるということはない。行動に伴う最悪の事態は常に想定されなければならない

歩きスマホをしていて、目の不自由な方にぶつかって転倒させ、寝たきりにさせた時、その方の人生すべての面倒をみることができるのか?その方を亡くならせてしまった時、残された家族の心に一生をかけて寄り添い続けることができるのか?それほどのリスクを犯してまで手に入れた対価は、歩きながらスマホを使って得たどれほど重要な情報や貴重な時間だというのだ?

自転車スマホで歩行者を亡くならせるという事がニュースになったのも最近の話である。そのような痛ましい事が二度と起きないようにするためにも、危機意識をもって行動を選択できる、そんな人間を育てることが教育の重要な一つの役割ではないだろうか。

ポスターなどでの啓発も大切ではあろう。しかし、対症療法に過ぎない感じは否めない。歩きスマホ対策としての、シートベルト対策としての、あらゆる危機対策としての教育を広めなければ、リスクを甘くみるこうした風潮は根治できないだろう。

by    tetsu