「諦めなければ失敗ではない」というのは暴論ではないだろうか―ハッピーエンドのその先に

ポジティブな言葉の陰に

ポジティブな言葉は好きだ。音楽はマイナー調の方が好きだけど(まあマイナーだからって哀しい曲ばかりじゃないけどね)。だから、桜井和寿みたく“Its  a  wonderful  world”って言いたいし、相田みつをみたく「生きていてよかった」とか「人間だもの」って言いたい。

(人物名は敬称略)

でも、ごくたまに納得のいかない言葉もある。

「世にいう失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。最後の最後まで諦めてはいけない」なんて言葉を松下幸之助が言ってたような。

「成功するには、成功するまで決して諦めないことだ」とアンドリュー・カーネギーが言ったとか言わなかったとか。

「成功するための最も確かな方法は、常にもう一度だけ挑戦してみることだ」とトーマス・エジソンが言ってたそうな。

 

類する言葉は数あれど、要諦は「諦めなければ失敗ではない」ってことですよね?言い換えるなら、「やり続ければ、成功につながる」ってこと。いやね、そのポジティブさは好きなんです。「買うか?」と言われれば、即買いです。なんなら、爆買いです。以前なら。でもね。些か暴論ではないかと思われるようになってきまして…

あれ?これちょっとサイズ小んまいんじゃないかなぁ~、なんて。紡ぎ出された言葉、あれ?これちょっと端っこほつれてるんじゃないかなぁ~、なんてね。クーリングオフ検討しなきゃ、ね。

「どこが暴論なんだ?」って思われますよね?いや、これさ、逆もあるんじゃないの?ってこと。と言っても、「諦めなければ成功ではない」ってのは、さすがに表現として変。「やり続ければ、失敗につながる」の方がマシかな?

要は、「成功したとしても、やり続けていれば、失敗に陥るリスクは常にある」って表現が正しい。

 


成功と失敗の波に揉まれて

人間のやることさ。調子の良し悪しがある。運の良し悪しだってある。

宝くじを買ったとしよう。確率的に言えば、なかなか当たらないものだ。でも、ハズれたって買い続ければいつかは当たるかもしれない。でも、仮に当選した後も買い続けたら?よほどの額に当選しない限り、買い続ければ、当選して得られたものも失ってしまうこともあるんじゃないだろうか?あくまで、数学的な理論値で言えば、期待値はマイナスなのだから。

時速150kmの速球を投げられるように練習したとしよう。雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、日々トレーニングに励んだとしよう。ひょっとしたら、努力の積み重ねで、いつかは球速が150km/hに達するかもしれない。でも、150km/hで投げることに成功した後も、投げ続けたとしたら?肩や肘は消耗品と言われている。無理を続けると、肩や肘を壊すかもしれない。そうなると、150km/hどころか、まともに投げることさえ難しくなってくる。

起業したとしよう。でも、なかなかうまくいかないかもしれない。起業してから10年後の生存率は1割を切ると言われている。成功するには生半可な覚悟ではできない。何度も失敗しながら、ある分野の事業で、ついに成功を収めたとしよう(実際に、そんな人を何人も知っている)。でも、そこでやめなかったら?事業を拡大したり、新たな分野に参入することには、当然、失敗するリスクが伴う。そして、場合によっては、それが原因ですべてが終わることも。

悲観的なものの見方をしなくても、何かを続けることには失敗のリスクが常に付きまとう、と言える。リスクがあるからリターンが得られる。それはいったん成功をした人間にも当てはまること。例外はない。

とは言え、数年前にとあるオーストラリアの資産家が破産したというニュースを見た時には、衝撃を受けた。それも、保有資産が10億ドルを超えるビリオネアに関することであるから、驚きも一入(ひとしお)だった。

僕みたいな一般庶民以下の人間の感覚からすると、保有資産が10億ドルも超えているのだから、敢えてリスクを冒してまで何かをするという発想には至らない。経済的成功を十二分に収めたのだから、後は悠々自適に暮らせばいいのに、とさえ思ってしまう。まあそんな考えであることが、庶民たる所以なんだろうけど。

他にもこんな例はいくつもある。まあ、さすがにビリオネア級の話になるとなかなかないかもしれないが、凋落していく人間はいる。栄枯盛衰だの盛者必衰といった世界観は、何も日本人特有の無常観によるものだけではないだろう。洋の東西を問わず、ある種の真理を表していると思う。

もちろん、成功から転落するだけじゃない。その逆だってある。凋落しても、そこから這い上がって再び成功を手中に収める人間もいる。ジェシー・リバモアが良い例だ。まあ、彼の最期がどうなったかはさて置き…

要するに、人間の人生なんて成功と失敗の繰り返しなんだ。その波の大なり小なりはあるとして、何が良いかなんて一概には言えない。その時が悪かったとしても、また別の時には良くなっているかもしれない。逆もまた然り。

僕みたいな小っぽけな人間にだって、成功と失敗の波はある。さざ波程度だけど。「人間万事塞翁が馬」なんて言うけれど、短い人生を生きてきただけで、本当にそうなんだろうなって実感がある。願わくば、「終わり良ければすべて良し」となりたい。

 


ハッピーエンドのその先に

成功のその先に何があるかなんて誰にもわからない。それが、人生というもの。「諦めなければ失敗ではない」という言葉が含む問題は、そんな波のある人生のごく一部のことしか伝えようとしていないところにある。

「上り坂と下り坂、日本で多いのはどっち?」なんて謎々を思い出した。ま、上りがあれば下りもありますよ。

「諦めなければ失敗ではない」という類の格言は世の中にたくさんある。ちょっとググればすぐに出てくる。関西にいまだに設置されている公衆電話の数くらいある気がする。そして、有名人に限らなければ、誰もが口に出している。教育現場なんかでは、毎年多くの大人が子どもに伝えている。朝礼の校長先生のお話なんかで、必ず伝えられている。これまで、そういう話をしたことがない学校なんてないんじゃないかってくらい、きっと話されている。

でも、逆の話はあまり聞いたことがない。少なくとも、記憶にはない。「やり続ければ、成功に繋がる」ってことは、その通りだと思う。そして、とても大切なこと。でも、それと同じくらい大切なことなのに、「成功したとしても、やり続けていれば、失敗に陥るリスクは常にある」ということに対する対処法は聞かされたことがない。99回で諦めず、100回叩いて壁を打ち破ったとして、崩れたその壁の下敷きになることだってある。壁の先には落とし穴が待ち受けているかもしれないのに。

これは何も人生訓に限った話ではない。ハッピーエンドを迎える物語にも言えること。幸せに至る(成功への)話は語られる。でも、その後のことについて、語られることはあまりない。せいぜい「幸せに暮らしましたとさ。おしまい」程度。

本当は、その幸せな暮らしの中にも様々なことがあったはず。中には幸せ(成功)を台無しにするような失敗につながりかねないことだって。でも、語られない。幸せという名の成功が訪れた後は、あたかも平易にその幸せが続いていくかのような印象を与えて、物語は終わりを告げる。そんなはずはないのに。

「ハッピーエンドを望むのなら、もちろん、それは物語をどこで終わらせるかによる。」
(If you want a happy ending, that depends, of course, on where you stop your story. )

とオーソン・ウェルズが言ったそうな。正鵠を射た表現だね。

シンデレラも白雪姫も、わらしべ長者も一寸法師も、ハッピーエンドを迎えた物語の主人公は成功を収めたと言える。でも、ハッピーエンドのその先にある彼らの人生も、果たして、本当に成功に彩られた幸せなものだったのだろうか?

私たちの人生はいつ終わりを迎えるかはわからない。だから、成功と失敗の波がうねっているとすると、ハッピーエンドを迎えられるかどうかはわからない。成功を収めたとしても、それは泡沫(うたかた)の夢のようなものかもしれない。

それでも、きっと、誰もがハッピーエンドを望んでいる。僕だってそうだ。そのために大切な成功と失敗の心構え。

 

成功を掴んだとしたら、取り返しのつかない失敗をしないようにすること

 

これが「諦めなければ失敗ではない」ということ以上に、ハッピーエンドを成功させることに繋がるんじゃないかな。

by    tetsu