「安全・安心な社会を実現する」という言葉は誰しも聞いたことがあるのではないでしょうか?
しかし、「安全」と「安心」の違いを説明できる方は少ないです。なぜ、似たような言葉をならべるのか?疑問に思う方も多いでしょう。
そこで、今回は「安全」と「安心」の違いを解説します。また、リスク管理の考え方についても解説いたします。
目次
安全の意味
辞書で安全の定義を調べると次のようにあります。
危害または損傷・損害を受けるおそれのないこと。危険がなく安心なさま。
引用:大辞林 第三版
つまり、「危険(リスク)が存在しないこと」を安全の定義になるわけですね。
しかし、現実世界にゼロリスクというものが存在するのでしょうか?
例えば、「運転」について考えてみましょう。
まず、運転すれば必ず何かしら危険(リスク)が生じます。反対車線から車が飛び出してくるかもしれませんし、子供が飛び出してくるかもしれません。
リスクをゼロにするには車の運転を全面禁止にするしかありませんが、それでは別の問題が出ます。
そのため、国際安全規格では、安全を次のように定義しています。現実的な定義で分かり易いです。
許容不可能なリスクが存在しないこと。
引用:ISO/IECガイド51:2014
「安全」か「不安全」の判断は許容不可能な危険(リスク)の有無によって決定されます。
許容不可能なリスクの評価は「危険度」×「頻度」で判断されます。例えば、交通法規を順守した運転は危険ではなく、安全運転とされます。
それでも、事故のリスクは確実に存在します。しかし、「危険度」と「頻度」の関係から許容不可能なリスクはないと言えます。要は、「危険度」×「頻度」<許容不可能なリスク点数なのです。
一方で、交通法規を守らない運転は、危険運転です。それは、交通法規を守らないことにより、「危険度」×「頻度」が大きくなり、許容不可能なリスクが存在するからです。
要は、「危険度」×「頻度」>許容不可能なリスク点数となるわけです。
安心の意味
辞書で安心の意味を調べると、次のように定義されています。
気にかかることがなく心が落ち着いていること。また、そのさま。
引用:デジタル大辞泉
定義にあるように、安心とは、心が安らいでいる状態を意味します。
そこに事実関係の正しさの必要性はありません。心が落ち着けば、それで良いのです。
例えば、プラセボ効果(偽薬効果)が挙げられます。プラセボ(偽薬)には、薬理作用を有する物質を含んでいません。それにも関わらず、効果を発揮します。
それは、薬を服用した事実が「安心」をもたらしたからです。
イチロー選手は、現役時代「スパイクを左足から履く」というゲン担ぎをしていたそうです。これも「安心」を得るための行動の一種と考えられます。
「安心」か?「不安」か?は、心の状態によって決定されるものです。実際の危険性と、必ずしも一致しませんが、安心の確保も大切です。
安全と安心の関係性
「安全」と「安心」の違い
これまでの話を総括すると、「安全は事実」・「安心は心」によって決めると分かります。
判断基準が異なるわけです。字面こそ似ているものの、意味は全く異なりますからね。
それゆえに、安全だけど不安、不安全だけど安心というような一見矛盾したようなことも生じます。
次に、安全と安心の関係性について解説します。
安心ならば安全か?
この記事の執筆中に、hanter×hanterの「ハンター試験編」の冒頭で「新人つぶしのトンパ」というキャラがゴンたち(主人公)に下剤入りのドリンクを飲ませようとするシーンを思い出しました。
外見上、トンパは優しそうなおっちゃんです。
その姿にすっかり安心し、ゴンやレオリオはそのジュースを口に含んでしまいました。(その後、ゴンの超人的な味覚が違和感を察知し飲み込むことはなく、事なきを得ましたが…)
他にも、中国の始皇帝が不老不死のために水銀を欲したことは有名な話ですね。
現代では、水銀が有毒であることが知られていますが、当時の中国では水銀が聖なる薬であると信じられていました。常温・常圧で唯一の液体金属ですからね。
昔の人にはさぞかし神聖なものに見えたのでしょう。そのため、始皇帝は水銀を摂取していたというわけです。
結果、水銀は「安心」を始皇帝にもたらしましたが、毒物なので「安全」ではなかったわけです。
これらの話から、「安心ならば、安全である」と言えないことがお分かり頂けます。
因果関係がはっきりしていないのに「安心」できそうだから許容するというのは危険です。
その傾向は、一部の代替医療にも見られるので注意しましょう。基本的に、安全性の判断は、科学的な手順のみによって評価されます。
安全ならば安心か?
最近だと、受水槽で遊泳する不埒な者がいました。ちなみに、遊泳したのは受水槽を清掃する前です。
それで許されるわけではないけど、清掃後に遊泳するよりは遥かにましです。
また、事件の発端となった動画は2018年9月に撮影され、発覚したのは2019年6月です。そして、その事件が発覚した後の管理会社の対応というのは「受水槽を清掃する」というものでした。
果たして、この行為に意味あるのでしょうか…?
遊泳後に受水槽を清掃したのだから十分に綺麗なのではないでしょうか?
もし仮に、受水槽で泳ぐような人間の清掃が気に入らないと言うなら、彼らの清掃した受水槽をすべて清掃しなおすのが筋ということになりますが、もちろんそのような動きは一切見られていません。
また、問題行為をしてから、9か月以上も経過しているのに再度受水槽を清掃することに意味があるとも思えません。それでも、どこかにこびりついていると主張したいのならば、配管をすべて清掃しなければ意味がないということになります。
つまり、その場しのぎの対処なのです。そのような対処をした理由は「安全」のためではなく、「安心」のためと考えられます。おそらく、水質基準は満たしていたでしょうし。
とはいえ、人が泳いだ水槽の水を飲むことに、心理的な抵抗感を感じるのは理解できます。
他の身近な例だと、東京タワーにもあるガラスの床が挙げられます。もちろん、十分な安全が保証された上でガラスの床は設置されています。本当に割れたら大変ですからね。
しかし、安心か?と聞かれても、安心できませんよね?
高所恐怖症の方ならその上に立つことすらできないでしょう。しかし、間違いなく安全なはずです。強度基準は十分に満たしているはずですからね。
つまり、「安全ならば、安心である」とは言い切れないわけです。
リスク管理の限界
カネボウ美白化粧品による白斑問題をご存知でしょうか?概要は次のようなものです。
肌がまだらに白くなる白斑症状は、カネボウ化粧品が開発し、同社製品に配合された美白成分「ロドデノール」が別の物質に変化し、色素を作る細胞にダメージを与え発症したとみられている。
この話の恐ろしいところは、リスク管理の限界を超えている点にあります。
まず、問題の成分となった「ロドデノール」ですが、きちんと医薬部外品の有効成分として厚生労働省から認可を得ていました。もちろん、カネボウ化粧品は成人女性約300人を対象にテストを行い、その安全性を確認していました。
つまり、社会的信用もある大企業と国の機関である厚生労働省が「ロドデノール」は安全であるとお墨付きを与えたわけです。私たち一般人はそれを聞いてどう思うでしょうか?
安心しますよね?
つまり、一般市民から見れば明らかに「安心」かつ「安全」なわけです。にもかかわらず、被害が発生しました。このことからも、リスク管理にも限界があるとお分かり頂けるでしょう。
科学だって万能ではありませんし、国や大企業の信用性が高いからと言って100%信用できるわけではありません。実際に、安全だと思われていたものが危険と分かった例はたくさんあります。
DDT(殺虫剤)の話もそうですね。生物濃縮の問題が判明し、現在ではほとんど製造されていませんが、当時は素晴らしい発明でした。
実際、DDTを開発した「パウル・ヘルマン・ミュラー」はその功績により、ノーベル賞まで獲得しています。もちろん、発明当時には権威のあるノーベル財団も国家もDDTは人畜無害だと考えていました。そりゃ、一般市民も安全・安心って考えてしまいます。
結局のところ、完全な「安全」・「安心」なんてどこにも存在せず、知る限りの「安全」「安心」しか存在しないのです。常にリスクと隣り合わせという意識を持つことは大切です。
まとめ
- 安全とは何か?
危険(リスク)が存在しないこと。又は、許容可能なリスクしか存在しないこと。 - 安心とは何か?
心が安らいでいる状態のこと。 - 安心と安全の違いは?
判断基準が異なる。安心は心によって、安全は事実・因果関係によって決定される。 - 絶対的な「安全」は存在するのか?
存在しない。なぜなら、安全を担保する科学が絶対的なものではないから。具体例にも挙げたように、時として新たな事実が「安全だと思われていたものが危険なものであった」と明らかにすることもある。 - 絶対的な「安心」は存在するのか?
存在しない。なぜなら、信用性の高い「公的機関」・「専門機関」・「大企業」であっても認識を間違えることがあるから。そのため、公的機関・専門機関認定の商品だからといって、絶対に安心であると言い切ることはできない。
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