羽蟻の命に触れて、根源的なものについて考える―哲学はいつも、何気ない日常から始まるということ

エッセイ

ココアの一匙

 

行きつけの店で食後のココアを片手に葉巻の煙をくゆらせていた時の話。

一匹の羽蟻がどこからか迷い込んできて、テーブルの上をうろついていた。うっかり潰してしまいそうだったので、フッと息をかけて、吹き飛ばそうとした。

すると、思いがけず、羽蟻はテーブルクロスにあるほんの僅かな水溜まりへ。冷水で結露した水がグラスを伝い、小さな陥穽を作っていた。人にとっては僅かな水でも、羽蟻には小さな池ほどに感じられただろう。羽蟻は水に体を捕らえられ、溺れるでもなく、のたうつでもなく、ただもがいていた。

放っておいても良かっただろう。紙ナプキンで摘まんで潰してしまっても良かったのかもしれない。ただ、息を吹きかけたという自分の行為がもたらした結果として、一つの命に危機をもたらしたことに罪悪感を覚えた。

 

このままでは羽蟻にとって致命的となると思い、僕は慌ててティッシュで優しく包むように羽蟻の体を拭いた。羽蟻という小さな命を潰さぬように。細心の注意を払いながら。それでも、小さな羽蟻にとっては力が強すぎたのだろうか。羽蟻は水の手から逃れられながらも、左足を一本引き摺るようにして歩いていた。

髪の毛よりも細い羽蟻の足を潰してしまったのか、あるいは、十分に水を拭えなかったがために足がテーブルクロスに張り付いてしまったのかは定かではない。いずれにせよ、羽蟻という命に取り返しのつかぬ事をしたのではないかという申し訳なさが拭えることはなかった。ラスコーリニコフが逃れられなかった罪悪感の破片が心に打ち込まれたかのようである。それは心を疼かせ、さざ波立たせた。

 

僕はそんな心の疼きをかき消すかのように、宙に紫煙を吐き出した。しかし、幾ら心落ち着かせようとも、テーブルの地平線を目指しながらよろめき歩く羽蟻から視線を逸らせることはできなかった。引き摺る足を動かし、あるいは、元気に羽ばたいて宙の彼方に消えゆく姿を心のどこかで期待しながら、僕は羽蟻の行く末を見守っていた。

結局、羽蟻はそのままよろめきながら、テーブルの陰に消えていった。それ以上、僕は羽蟻の姿を追いかけようとは思わなかった。それは命を傷付けた責任から目を逸らしたかったからではなく、ただ何もできないという自分の無力さを受け入れたからである。

ありのままの現実を受け止めるしかない。それがどれほど残酷なものであっても。それから目を逸らし、あるいは、自らが望むようにそれを解釈する。そうして人は現実を歪めていくのである。

 

カップに口を付けると、冷めたココアが唇に滲みた。それは啄木が入れたココアの一匙のように、ざらつく薄苦さを舌の上に残して、胃の中へと滑り落ちて行った。

 


羽蟻の命

 

ラスコーリニコフは罪の意識から逃れることはできなかった。寧ろ、それは日に日に大きくなっていったとさえみることができる。

片や、羽蟻に対する申し訳なさは日毎に薄れていった(それと同時に自らの薄汚さを痛感するわけだが)。しかし、朧気となった罪の意識の残滓は確かな疑問符の芽を育むこととなる。その疑問符は最も根源的な問いかけに付随するものだ。

 

 

なぜ羽蟻は動くのか?

なぜ命はあるのだろうか?

 

 

これらの問いは、時間的な因果性や構造的な因果性を問うものではない。従って、生物学上、羽蟻の足の構造はどのような原理で動いているだの親から生まれて無事に成虫になったからここにいるだのといった答えが求められているわけではない。そのような表層的なものではなく、より根源的なものとしての答えが竢たれるのである。

つまり…

 

なぜ、目の前で動いている羽蟻として、その命はあるのか?

 

ということである。

 


生物と無生物の間

 

熱を放ち、古い細胞は剥がれ落ち、命を終えると土に還り、風化していく。やがては塵となり、消えゆく定めの淡く儚い生き物は、それでも偏った存在として、生きている間は虚ろな世にあり続ける。

エントロピーが増大するかのように見える世の条理に抗いながら、なぜ命はあるのだろう?

 

生物学的には、生物の定義は大まかに2つある。

1.代謝を行う。

2.自己複製を行う。

 

常に生き物は新しいものを取り込み、古いものを吐き出していく。部分としての細胞は生滅を繰り返しながらも、全体的統一としての個体は変わらずあり続ける。そういう意味では、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と何ら変わりはない。

そして、種を保存させようと、自己複製を行う。各々は個体差こそあれ、子孫を残そうとする本能に基づき行動する。それだけなら、そのようにプログラミングされたロボットについても言えることかもしれない。

このように、それぞれの条件に従うだけなら、無生物についても言える。だが、同時にこれら2つの条件を満たしているとは言い難い。そこに、生物と無生物の違いがあるとされてきた(あるいは、「動的平衡にある流れ」を生物の定義とする分子生物学者もいる)。

 

しかしながら、いずれも当の問いに満足な答えを与えるものではない。なぜなら、それらはすべて原理的な説明に過ぎないからである。問題なのは、そのようにしてあろうとする力(命)が、なぜそのようにあるのか、ということなのである。

 


論理哲学論考

 

科学と哲学の違いはどこにあるのか?勿論、科学が哲学の一つの系譜であることは否めない。だが、両者には極めて明確な違いがある。それは、その問いに対する答えの有無である。

 

カール・ポパーは科学を「反証可能性」において規定した。「いわゆる科学的真理とは、帰納的飛躍において設定された仮説に過ぎず、その妥当性は反復的反証の失敗にのみより消極的に認識されるものである」という彼の主張は正鵠を射たものだと思う。しかし、それ以上に科学が科学足りえるのは、「その問いに答えがある」ということに依るところが大きいのではないだろうか?

 

当然と言えば、当然である。「世界が何から成り立っているのか」という問いに対する答えを求める思索の系譜が科学なのだから。だが、哲学は違う。そこに答えがあるかないかを問題にはしない。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』において、過去の哲学的問題が問いとして成立していないと断じたのも、そこに理由がある。しかし、「何があるかわからないものに向かう知的冒険」が哲学の持つ一つの側面なのである。

 

ひょっとすると、「なぜ命があるのか」という問いには答えなどないのかもしれない。「語りえぬものについて、人は沈黙しなければならない」と述べた若き日のウィトゲンシュタインならば、「問いとして成立していないもの」と言って、切り捨てるだろう。しかしながら、それが本当に答えなき問いかどうかはわからないし、そう問うことが無駄なことだとは思わない。答えはあるかもしれないし、その問いの過程で大切な別の何かが見つかるかもしれない。それが哲学的な魅力の一つだと思っている。

 


哲学の始まり

 

結局答えなど出なかった。というか、出ないことを承知で僕は考えていた。

 

なぜ命はあるのか?

なぜ人は愛憎を念を抱くのか?

なぜ自尊心などあるのか?

なぜ世界は色づいているのか?

なぜ宇宙は生まれたのか?

 

 

 

なぜ羽蟻に対する罪悪感を抱いたのかもわからない。そのように感じるように、愛情をもって育てられたからかもしれない。でも、本当のところは誰にだってわからない。

 

それでも僕は考える。より深く、智の光の届かないより暗いところへ。沈思黙考し、暗中模索を繰り返す。そして、何かわからないものが手に触れたとき、そのものの形や温もりを確かめる。

時には冷たく、時には温かい。時には固く、時には柔らかい。時には滑らかで、時にはザラついたそのものの感触を、僕は確かめる。

 

そうして、哲学は始まる。

 

何てことのない身近なことでいい。表層的なものではなく、より根源的な「なぜ」を携えて。わからなくてもいい。何か不確かなものが、その存在性のみで語りかけてくれるから。その声に耳をそばだてると、途端に自分を縛り付けていた鎖から解き放たれる。偏見や常識といった鎖から。

自由に飛翔すると、世界は様々な表情に色づいていることに気付くだろう。既成概念に縛られていては気付けない世界がそこにはある。

 

いつか見た羽蟻のように羽ばたいて、色んな世界を見てみたい。羽蟻のようにちっぽけだけど、世界を俯瞰して見てみたい。

 

何が僕を駆り立てるのかはわからない。恐らく、それは世の条理に抗おうとする力。不確かで、確かな命の力。きっと、それが僕にとっての命なのだと思う。

 

吐き出した紫煙が、頼りなさげに宙に漂っていた。あの日見た羽蟻の命を想う。あの羽蟻は今でも生きられているのだろうか。

 

 

 

by    tetsu