パンドラの箱に残された希望―人がどれだけ事実を事実として受け入れられない生き物かっていう話

日常の哲学

パンドラの箱

この醜くも美しい世界で…

紙面を彩るニュースは、ほとんどが悲しいことばかり。国内外を問わず、事件や事故があり、災害が起こり、汚職が蔓延している。Rage Against The Machineのサウンドの中で、Zack de la Rocha(ザック・デ・ラ・ロチャ)が叫び続けた魂の声は、皮肉にも、隣国との壁を築こうとしたアメリカの国境線を越えて、日本にいる僕にも届いた。不思議なことに、彼の憂国の叫びには、他人事ではない響きがあった。日本においても、Mr.Childrenの桜井和寿が、特に『深海』から『 it’s a wonderful world』 まで歌い、奏でてきたような悲哀に満ちた世界が広がっている。これに関しては、国に違いはないのだろう。

なぜ、世界はこれほどまでに悲しみに満ちているのか。そこには、一般論で語れるような理由はないのかもしれない。それでも、神話的に世界を解釈することが許されるならば、『パンドラの箱』を語ろう。

 

エルピスという名の希望の光

『パンドラの箱』という話をご存知だろうか?有名な話なので、ご存知の方も多いと思われるが、念のため、簡単にまとめると、概ね次のような話だ。

神ゼウスがパンドラ(パンドーラーともいう)という名の女性を人間界に送り込んだ。ある箱を持たせて。その箱には、この世のすべての厄災が詰まっていた。それは、決して開けてはならない箱だった。しかし、ある日、パンドラは好奇心に導かれて、その箱を開けてしまう。すると、あらゆる厄災が箱の中から飛び出した。そして、世界は災いに包まれ、人々は苦しめられるようになった。だが、実は、箱の中にたった一つだけ、残されたものがあった。それがエルピスという名の、希望の光だった。

この物語には、様々な解釈が与えられる。だが、一般的に知られているのは、いついかなる時も、人間には、希望が残されているといった寓意だ。この世のあらゆる厄災が解き放たれた後でさえも、一粒の希望が残されているのだと。美しい余韻を残したまま、物語は終わる。ポジティブな解釈だが、僕もつい数年前までは、このようなニヒリスティックな美談だと思っていた。だが、果たして、そうなのだろうか?

 


希望とは

希望とは、時として救いとなる、美しい光だ。『パンドラの箱』がニヒリスティックにも美談となるのは、このような希望観によるものである。だが、希望というものは、そのような側面からのみ捉えても良いものだろうか?

救いが希望にあるのは、間違いない。美しい光であることも、疑いようがない。しかし、時には、その美しさ故に、酷なものとなるのもまた、事実である。

愛する者が、植物状態になったとしよう。そして、生命の維持に、年間で数百万円もの経済的負担がかかるとする。本当は助かる見込みはないのに、誤診によって、意識を取り戻す確率が僅かでもあると医師に言われたら?本当に大切な存在であるならば、自分の時間の大半を費やしてでも、愛する者の命を支えようとするだろう。だが、現実としては、快復する可能性が0だったら?いつか意識を取り戻してくれるという希望を胸に、許容範囲を超えた支援、介助を続けたら…。これが、「シーシュポスの岩」であることに耐えられる者などいるのだろうか?

現実を知らなければ、心に救いはあるのかもしれない。譬え、どれほど心身が消耗していこうとも。だが、こんな話が現実であれば、これほど残酷なこともない。その場合、希望の光は芥川龍之介の描く「蜘蛛の糸」か?それとも、「賽の河原の石積み」か?

 


人がどれだけ事実を事実として受け入れられない生き物かということ

人は望むように物事を捉える

人は事実を事実として受け入れられない生き物だ。思いと違う世界だから、望むように現実を変えようとする。思いと違う世界だから、望むようにならない現実に呻吟する。それは人間の美点でもあるが、弱点でもある。その一端を、『パンドラの箱』の解釈に、垣間見た気がした。

自分でも不思議だった。驚くほどに。なぜ、もう一つの解釈の可能性を考えなかったのか?なぜ、希望というものを手放しに賞賛していたのか?確かに、パンドラの箱が世の中のすべての災厄が詰まったものであるとするなら、希望もまた、災厄の一つでなくてはならない。にも関わらず、僕たちはそこに救いの光をみるのである。

「人間とは噂の奴隷であり、しかもそれを、自分で望ましいと思う色をつけた形で信じてしまう。」

「人は喜んで自己の望むものを信じるものだ。」

カエサルの名言とされる言葉だが、微妙なニュアンスの違いこそあれど、いずれも、人が事実を曲解してしまうことへの警句となっているのではないだろうか。人は望むように物事を捉える生き物ということなのだろう。

 

“doubt”と“suspect”

確かに、盲信するのは良くない。譬え、信号が青でも、赤信号側の道路から車が突っ込んでくる可能性を考えることは大切だ。「ステッカーにして貼られた本物の印。だけどそう主張している方がニセモノに見える(Mr.Children『掌』より)」場合もあるだろう。そういう意味では、常に目に見えていることが「事実としてそうなのか?」という疑念の眼差しで物事を捉えようとすることは大事なことと言える。

しかし、表象として現れている事柄が、僕たちが解釈している通りに、事実そうであるという可能性も、それと同じくらい考えられなければならない。「厄災の詰まった箱」に入っているエルピスの光が、僕たちが一般的に考えているように、本当に「希望」という名の救いなのか?他の厄災と同様に、僕たちに災いをもたらすものではないのか?そう考えることが、間違いである断ずることは、決してできない。

『ワンピース』でチョッパーはDr.ヒルルクの命を救おうと、猛毒を持つアミウダケのスープを与えた。ドクロマークの意味を捉え損なったがために(ある意味では、素晴らしい一つの信念に基づいてあるのだが)。結果、ヒルルクは寿命を縮めることとなった。アミウダケが毒キノコであるという事実を知っていれば、チョッパーはヒルルクにアミウダケを与えることはなかっただろう。(『ONE PIECE』16巻参照)

現実的に、このような事態を避けるためには、事実を事実として受け入れる必要がある。そのためには、“doubt(否定的な疑い)”と“suspect(肯定的な疑い)”の相反する2つの視点から物事を捉えることが肝要と言えそうだ。

(※注. “doubt”は「~ではないんじゃないか」という疑い。“suspect”は「~なんろうな」という疑い。)

事実を事実として、ありのままに受け入れることは難しい。そのためには、偏見や思い込みを持たない、透徹した視線が求められる。しかし、そんなことが果たして可能なのだろうか?カントのいう「もの自体(“Ding an sich”)」という概念のように、人には知覚されえないかもしれない。そう考えると、人がどれだけ事実を事実として受け入れられない生き物かっていうことが、よくわかる。

エルピスの希望の光は万能薬か?アミウダケか?真相は、文字通り、神のみぞ知るところかもしれない。

by    tetsu